第七百八十八話「抵抗空しく陥落」
七月初旬の土曜日、来週からは中等科、高等科で一学期の期末試験が始まる。その試験前最後の土曜日に三条邸には大勢の人々が集まっていた。集まっているのは藤原北家閑院流の家々が中心だ。今日は藤原北家閑院流嫡流である三条家の娘、三条朝顔が留学から帰国したことを祝ってパーティーが開かれていた。
帰国したのは一学期でありもう三ヶ月近くも経っている。そしてパーティーといっても三条家に近い家が呼ばれただけであり他の家を招いた本格的なパーティーというわけでもない。藤原北家閑院流の中でも三条家に近く、今回の朝顔の帰国に関係があるような者が集められているだけだった。
「あらぁ~、茅お姉ちゃ~ん!こっちですよぉ~」
ほとんど親戚筋だけの集まりの中で朝顔は姉と慕っている正親町三条茅の姿を見つけて手を振って近づいた。茅の方も朝顔に気付いてそちらに向かう。
「今更わざわざこんなパーティーをする意味はあったのかしら?」
「お久しぶり茅お姉ちゃん~。こうして茅お姉ちゃんとぉ~、会えただけでも~、意味はありましたよぉ~」
両者が近づきそんな会話をしていると茅と朝顔の間に小柄な影が割って入って来た。朝顔はその影に視線を向ける。
「む~っ!茅お姉ちゃんは睡蓮のお姉ちゃんなんですぅ~!」
「あらあらまぁまぁ~」
一時期の一番太っていた頃から考えれば格段にスリムになった睡蓮が手を広げて茅の前に立つ。それはまるで自分の慕うお姉ちゃんを他の人に取られないようにしているかのようだった。
「睡蓮、貴女は少し落ち着きなさい」
「茅お姉ちゃんは危機感が足りません~!茅お姉ちゃんはたくさんの人に狙われてるんですよぉ~!」
睡蓮は必死だった。茅は自覚が足りなさすぎる。咲耶のこと以外には無頓着で自分自身のことすらわかっていない。これまで睡蓮がガードしてきたが数多くの男達が茅に近づこうとしてきていた。
昔の茅は性格も一部破綻しており、体もやや痩せすぎで見方によっては貧相にも見えた。胸はその頃からそれなりに大きかったが体全体が貧相に見えるので着痩せするタイプと言えるかもしれない。
そんな茅がここ何年も睡蓮と一緒にグランデに通って鍛えた結果、痩せすぎだった体はバランス良く鍛え上げられている。さらに歳を重ねたからか性格も丸くなったように見えることから茅は男性達からかなりの注目を浴びている。
実際に性格がマシになったわけではなく、咲耶に関すること以外はさほど興味がないから大人しくなったように見えるだけなのだが、それは周囲から見ているだけの者達にはわからない。さらに男好きのする巨乳にバランスの取れた体がますます魅力を引き立てている。
睡蓮もまだ平均よりはややぽっちゃりしているとはいえ最も太かった時とは比べ物にならないほど均整が取れている。胸が萎まないように余計な所の贅肉だけ落とし、なかなかグラマラスな体に仕上がっている。二人のトレーナーである小堀トレーナーの腕がいかに優れているかがわかる何よりの証拠だった。
そして茅は日野木槿との破談以来婚約者や許婚が決まっていない。正親町三条家ほどの上位の家でありながらこの年齢で婚約者がいない者などそうはいない。まだ婚約者が決まっていない男子がいる家や、今の相手との婚約を解消してでも乗り換えたい家は掃いて捨てるほどいる。
しかもその相手が黙ってさえいれば美人で着痩せするグラマラスな女性だ。パーティーの度に男が殺到してくるのも頷けるというものだった。
茅は自分のこともわかっていないし言い寄ってくる男達に対しても無頓着だ。だからこそいつも睡蓮がガードして茅をそんな男達から守っていた。そしてさらに言うならば茅に群がってくるのは男だけではなかったのだ。
茅を『お姉様』と呼び、慕い、擦り寄ってくる女達がどれほどいたことか。睡蓮はそんな女達とも日々鎬を削って茅を陰ながら守ってきた。その自負がある。そしてこの女も敵だ。自分の『茅お姉ちゃん』に擦り寄ってくるこの女を許すわけにはいかない。
「茅お姉ちゃんは愛されているんですねぇ~」
「うぅ~っ!」
『絶対に茅お姉ちゃんを渡すものか!それまで睡蓮は負けない!』。その思いを込めて睡蓮は朝顔を最大限に威嚇し、断固とした意思で茅を守ると誓ったのだった。
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「はぁ~い。睡蓮ちゃん、あ~ん」
「あ~ん」
「おいしぃ~?」
「おいしいですぅ~、朝顔お姉様ぁ~ん」
茅を守り抜くと固く決意した睡蓮は……、早々に陥落していた。朝顔に『あ~ん』をしてもらってご満悦だった。その顔はだらしなく緩みきり、完全に朝顔にやられているのがわかる。
「はぁ……。睡蓮……、そんなに食べているとまた太りますよ。小堀トレーナーにも食事に気をつけるように言われているでしょう?」
「茅お姉様ぁ~、ヤキモチですかぁ~?ぬふふぅ~!睡蓮はモテモテで大変です~」
睡蓮はもう有頂天だった。両手に茅お姉様と朝顔お姉様を侍らせて、両方からチヤホヤされて、あ~んされて甘やかされる。睡蓮はもうぐずぐずに蕩けてしまっていた。そんな睡蓮を見て茅が若干呆れる。
朝顔はひたすら人を甘やかして駄目にしてしまう女だ。恐らく朝顔と付き合ったり結婚した男は甘やかされ、骨抜きにされ、駄目人間になってしまうに違いない。ある意味において朝顔は最も性質の悪い悪女と言えるかもしれない。それくらいに朝顔の甘やかしは危険だった。睡蓮は見事にこの短期間にその甘やかしに溶かされてしまったのだ。
何年もグランデに通い、小堀トレーナーによって相当痩せて均整の取れたプロポーションに近づいている。とはいえまだ平均よりはぽっちゃりしており、しかも油断して甘い物を食べ過ぎればすぐにリバウンドしてしまいかねない。そんな睡蓮をひたすら甘やかす朝顔の行動は睡蓮のためにならない。
だが当の睡蓮がそれを受け入れている以上は他人である茅が何か言うことではないのだ。一応軽く忠告はしたが、だからといって強制的にでも食べるのをやめさせるというほど茅も介入したりはしない。
「はぁ~……。ここに咲耶お姉様もおられれば完璧でしたのにぃ~……」
「ふぅん?睡蓮ちゃんは九条様のこともお好きなのね~。でもね~睡蓮ちゃ~ん、高等科に通っているけど年齢は睡蓮ちゃんの一つ上の百合ちゃんのことも気にかけてあげて欲しいわ~」
「はぃ~……。朝顔お姉様がそう言われるなら~」
「本当ぅ~?お姉さんとの約束よぉ~?」
「はぃ~」
ウフフ、アハハ、と朝顔と睡蓮の周りだけ時の流れが遅いのかと思うほどゆったりした時間が流れていた。茅はそれを見ながらふと思ったことを口にした。
「貴女達よく似ているわ……」
「「…………」」
茅の呆れたようなその言葉に朝顔と睡蓮は顔を見合わせてから……。
「似てませんよぉ~」
「似てませんねぇ~」
「そっくりよ……」
三条家の分家の正親町三条家の分家の花園家なので、茅からみれば朝顔も睡蓮も同じくらいの距離の親戚かもしれない。しかし朝顔と睡蓮はお互いにかなり遠い親戚筋ということになる。派閥・門流も違う上にこれまで朝顔は留学していたのでほとんど接点もなかった。
そもそものんびりしたような口調は似ている部分もあるが、捻くれ者で意固地で皮肉屋の睡蓮と、とにかくのんびりしていて人を甘やかすばかりの朝顔では性格はまったく違うように思える。ただ二人の根本の部分でやはり親戚同士似通った部分はあるのだろう。
茅には二人がまるで長年一緒に育ってきた姉妹のように良く似ているように思えたのだった。
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紫苑は焦っていた。そろそろ一学期の期末試験まで近づいてきたというのに影の親衛隊に関する進展が何もない。試験で薊との勝負がどうこうという問題もあるがこちらの問題はそんなこととは比べ物にならない大問題だ。
「まずい……。まずいわ……。このままじゃ……」
海桐花と蕗は今でもよくやってくれている。科が別になってしまったというのにそれでも僅かなタイムラグだけで高等科の情報まで集めて報告してくれているのだ。それだけでも十分凄いことであり感謝しなければならない。しかしそれでは遅すぎる。
中等科で海桐花と蕗が身近に居た時は最新の情報が入るのがとても早かった。まるですぐ近くで見張っていてその場で連絡してきているのかと思うほどに迅速かつ最新の情報がリアルタイムレベルで届いていたのだ。その環境に慣れ切ってしまった紫苑にとって、今のタイムラグがある情報では遅すぎてストレスが尋常ではない。
昔のボッチだった紫苑ならば情報などどうでもよかっただろう。一度もリアルタイムに最新の情報が齎される環境に居たことがなければそれを便利だと知ることもなかった。だからそれが絶たれた時に不便だと思うこともない。
しかしすでに一度それを知ってしまった紫苑には今の環境はあまりに不便すぎた。皆が会話している内容についていけない。昔の紫苑なら他人の会話の内容など聞いていなかったからどうでもよかったが、一度それに慣れてしまった紫苑には今の他人の会話についていけないのはストレスが大きい。
「誰か……、高等科の誰かを引き込まなきゃ……」
紫苑は必死に考える。今までずっと考えてきて良い答えも浮かばなかったのだが、こうして一人で物思いに耽っているとどうしても同じことを考えてしまう。
海桐花と蕗が同じ科だった頃に優秀な二人が情報を集めてくれていたのなら、二人が高等科に上がってくるまでの間は誰か高等科生を仲間に引き込み情報収集をさせれば良い。紫苑が行き着いた答えはそれだった。ただそうは言ってもその相手がいなくて困っているのだが……。
仲間に引き込むのは誰でも良いというわけにはいかない。下手な相手を引き込んでしまえば逆に影の親衛隊の情報が外部に流出しかねない。そうならないように海桐花と蕗が勧誘する相手を慎重に選び、言葉巧みに引き込み、咲耶様に心酔させて裏切らないように躾けてきたのだ。それを紫苑が安易に相手を選び、下手な勧誘をして断られては親衛隊にとって大ダメージになってしまいかねない。
「優秀で、咲耶様に心酔していて、絶対に裏切らない者……。あ~!も~!そんな便利な子がいるわけないじゃない!」
ボスボスとぬいぐるみを殴りつける。ストレスが溜まった時や考えが纏まらない時に紫苑はよくこうしていた。この殴られ役のぬいぐるみももう何代目であろうか。
「こうなったら花梨を……。ううん!やっぱり駄目よ!」
紫苑は幾度となく花梨を勧誘しようと思っては思い留まっていた。それは花梨が優秀ではないとか、咲耶様に心酔していないとか、裏切るという意味ではない。むしろ咲耶様本人に心酔しすぎているからこそ紫苑よりも咲耶様を選ぶだろうとわかるから勧誘出来ないのだ。
もし花梨を勧誘したとすればすぐに仲間にはなってくれるだろう。しかし何かあった際に花梨は紫苑や影の親衛隊ではなく咲耶様への報告を優先する。影の親衛隊に入るのも咲耶様にとって有益だと思うからだ。咲耶様に代わって影となって裏でこっそり全てを解決する組織とは相容れない。
花梨がすでに咲耶様の工作員や諜報員として活動している以上は、影の親衛隊に勧誘しても咲耶様からの直接の命令を優先するだろう。それでは意味がない。紫苑の目指す影の親衛隊の方向性と違う。
「他には……、鬼灯と鈴蘭……、も駄目ね。あの子達はこういう活動には向いてないわ」
他の高等科生を思い浮かべて紫苑は止まる。鬼灯と鈴蘭も咲耶様に心酔していて裏切る心配はない。しかしあの二人は自分が目立ったり、直接関わったりすることをしたがる。影の親衛隊のように咲耶様にも知られずこっそり活動することには向いていない。
あとついでに言うとあの二人を巻き込んだら海桐花と蕗のように紫苑を立ててはくれないだろう。あの二人だったら隊長である紫苑を蔑ろにして好き勝手に行動するに違いない。目立つ上に隊の規則も存在意義も守らず勝手に行動するのでは仲間に引き込む意味もメリットもない。
「あとは……、いないわね……」
そして紫苑は他に知り合いや友人知人を思い浮かべようと思って誰もいないことに気付いた。いや、今まで何度も同じ思考を繰り返してきたので今日初めてそこに至ったわけではない。ただいつもここで同じ結末に辿り着くだけだ。
これ以上他に信頼できる友人知人がいないということに……。
紫苑は咲耶グループのメンバー以外にこれだけしか友人知人がいない。顔を合わせたことがある程度の相手ならばパーティーで会った相手がいるだろうが、親しいどころかプライベートで会ったり、話したりしたことがある相手なんて他に思い浮かびもしない。
「あ~!も~~~っ!どうすればいいのよっ!」
ボスボスボス!と殴られてぬいぐるみが変形する。答えの出ない紫苑の苦悩はその後も続いたのだった。




