第七百六十七話「使用済みは渡さない」
咲耶が立ち去ったのを確認してから皐月や薊達は気を失っている瓶底メガネの少女、向日葵の顔を覗き込んで相談を始めた。
「この子が今咲耶ちゃんが気にされている五組の一般外部生の子ですか」
「何か思ってたより普通ね」
「咲耶ちゃんはこういう子の方が好みなんでしょうか……」
「え?あの……、西園寺様も徳大寺様もどうして……」
皐月と薊の言葉を聞いて花梨がうろたえる。咲耶には秘密の任務だと言われて向日葵の身の安全の確保などをしているのだ。それなのにどうしてこの二人が知っているのかと驚きを隠せない。
「咲耶ちゃんが五組で起こっている問題に介入していることはメンバー全員が知っていますよ」
「それで花梨がいつもべったり付いてるんだもん。見ればわかるわよ」
「あぁ……」
そう言われればそうかと思って花梨も納得する。咲耶は皆に内緒でこっそりやっているつもりになっているが、ここの所花梨はメンバー達とは別行動が多い。そしてそんな時にいつもこの瓶底メガネ少女、向日葵と一緒にいるのだ。それを咲耶が咎めるどころか花梨の別行動を庇っているのだから答えを言っているのと変わらない。
五組でイジメ問題が出てくるのはいつものことであり、グループメンバー達も全員そんなことは承知している。そして咲耶がそれを無視して知らん顔をしているような者ではないことも知っている。ならば丁度五組である花梨が密かに別行動をしていればどういう事情によるものかは考えるまでもない。
「この者ですか?」
「椛さん」
三人で話していると着替えの制服を持った椛が到着した。椛も一緒になって向日葵を覗き込む。
「んっ……、んぅ……」
向日葵が声を漏らしてピクピクとし始めた。目を覚ましたようだと思って皐月達や椛は黙って見守る態勢に入った。
「ここは……」
「あっ。藤原さん、目が覚めましたか?」
「吉田さん?」
ぼんやり意識を取り戻した向日葵は花梨に声をかけられて首を傾げる。そして他にも三人の人物が自分のことを見下ろして覗き込んでいるのに気付いて驚いた。
「えっ!?あの……?」
「貴女、何があったか覚えてる?」
気の強そうな少女にそう言われて向日葵は何があったのか思い出そうとした。そして一瞬で顔を真っ赤にする。
「あっ!」
向日葵は思い出した。美しい少女、まさに絶世の美少女と呼ぶべき存在がそっと自分の頬に手を触れたのだ。その指は細く……、はなかったが柔らかく……、もなかった……。母や祖母のようなよく使われている手ではあったが、その手に頬を触られた瞬間、向日葵は限界に達して気を失ってしまった。ようやくそのことを思い出した。
「思い出したようね」
「貴女は咲耶ちゃんに触れられて倒れたんですよ。それで咲耶ちゃんは貴女のことを心配して目を覚ますまで待っていると言っていたんですけど、咲耶ちゃんが居たらまた話がややこしくなると思って私達が残るからと先にお帰りいただいたんです」
「そうそう。だから別に咲耶様が貴女を放って帰ったとか薄情というわけじゃないのよ。むしろ最後まで心配していて帰っていただくのに苦労したくらいなんだから」
「はぁ……」
何となくわかるような気がする。九条咲耶様がこのような状況で倒れた相手を放って行かれるような方ではないことは向日葵にもわかった。その上でここでまた九条様が居られたら向日葵も冷静に対応出来ずグダグダになっていただろう。この場に残っている方々の判断は正しかったと向日葵にもわかる。
「とりあえず自己紹介からしましょうか。私は西園寺皐月です」
「あっ!私は徳大寺薊よ!」
「咲耶様付き専属メイドをしております一条椛です」
「あっ……、どうもご丁寧に……。私は藤原向日葵で……、ってええぇぇぇぇっ!?」
向日葵は貴族社会のことなど何も知らない。知らないと言える程度にしか知らない。しかしここにいる人達の名前を聞けばそんな向日葵でも気付く。
いくら貴族を知らないと言ってもこの国に生きていて近衛財閥や九条グループを知らない者はいないだろう。それと同じくらい財閥である『西園寺』や『徳大寺』を知らない者などいない。そしてメイドと名乗った大人の女性は『一条』と名乗った。一条と言えばついさっき絡まれた相手と同じであり身構えるなという方が無理な話だ。
「驚くのも無理はないでしょうけどこの一条椛さんはさっきの一条の関係者達の仲間じゃないから大丈夫ですよ」
「あっ……、はい……」
別に一条の名前だけに驚いたわけではないのだが西園寺皐月と名乗った少女にそう言われては頷くことしか出来ない。下手なことを言ってどんな不興を買うかもわからないのだ。
「とりあえず着替えてからお話をしましょうか」
「そうですね」
椛が新しい制服の上着を用意しながら提案をする。いつまでもこんな所に汚れた服のままへたり込んでいるわけにもいかない。近くの空き教室に移動した面々はまずは向日葵の着替えを済ませることにした。
「これは咲耶様の予備の制服です。咲耶様のご指示により貴女をこれに着替えさせます」
「――!?くっ、九条様の……」
上着を脱いだ向日葵は椛に新しい上着を着せられている途中でそんな衝撃の事実を知らされた。ドキドキしながら袖を通そうとした時、椛がポツリと耳元で呟いた。
「言っておきますがこれは咲耶様の予備ではありますが未使用の新品です。咲耶様の使用済みを着用出来るなどと思わないことですね」
「――ッ!」
まるで見透かされたように椛にそう言われて向日葵は顔が真っ赤になった。確かに九条様の予備と聞かされて使用済みを着るのかと思って期待していた自分がいる。それを他人に指摘されて向日葵は顔を真っ赤にしてプルプルしていた。
「少しサイズが合っていませんけどこれくらいなら大丈夫でしょう」
「咲耶様は色々と大きいからね」
咲耶の予備を着用した向日葵を見て皐月と薊が一先ずオッケーを出す。確かに咲耶は体格が良く胸も大きい。向日葵も小さいわけではないが咲耶に合わせたサイズでは少し大きかった。だが新一年生の真新しい制服ならばこの程度の着慣れていない感じは許容範囲内だ。
「これが九条様のサイズ……」
向日葵はダボダボの胸元を少し引っ張って確認する。向日葵が着ればこれだけ余っている胸が、九条様が着用されたらぴったり埋まってしまうのだ。その胸のサイズが想像出来ていけない気持ちが湧いてくる。
「あっ!咲耶様でやらしい想像をしてるわね!」
「ファッ!?わっ、私は……、あの……」
「まぁまぁ。別に責めてるわけじゃないのよ。誰でもそうなるから」
「はぁ?」
そう言ってカラカラ笑う徳大寺様のお考えが理解出来ない。
「それにしても困りましたね……。明らかに躑躅は藤原さんに目をつけていました……。一条百合も躑躅も藤原さんと同じ五組です。花梨一人では一条百合や躑躅は抑え切れないでしょうし……」
「あっ!西園寺様!それは……」
口を滑らせた皐月に花梨は慌てていた。しかし皐月はヒラヒラと手を振る。
「気にすることはありませんよ。どうせバレバレでしょう?」
「え?あっ……、はい……」
皐月にそう振られた向日葵は一瞬驚いた顔をしてから頷いていた。どういうことかわからないという顔で花梨が混乱している。
「えっと……、吉田さんが九条様のお友達で、私のことを気にかけてくれてるのはわかってましたよ」
「えっ!?どっ、どうして……」
衝撃の告白に花梨はうろたえていた。まさかバレているとは思ってもおらず、一体何故バレてしまったのか理由がわからない。
「吉田さんは明らかに他の方と違って九条様と親しそうで、何度もお話ししている所を見ましたし、そもそも先日のコンサートで同じ演奏メンバーでしたし……、どう考えても近しい間柄で九条様が気を回して吉田さんを引き合わせてくださったのかなって」
「あ~……」
花梨は顔を覆ってしゃがみ込んだ。それはそうだ。花梨は他の生徒達に比べれば圧倒的に九条様に近く、話していたりグループに混ざっている所くらい見られていてもおかしくはない。そして先日のコンサートではバンドメンバーとして一緒に演奏していたのだ。それで『無関係の他人です』は通るはずがない。
「一条百合はともかく躑躅はしつこいし直接的、間接的に様々な手を使ってくると思います。咲耶ちゃんが藤原さんを守ろうとしている以上は私達も藤原さんをお守りしますが、同じクラスである躑躅と別のクラスである私達ではどうしても一歩出遅れてしまいます。今後の対応について少し話しましょう」
「そうね!咲耶様が守ると決めた相手を守れないとあっては私達の名折れよ!しっかり花梨と向日葵をサポートしていきましょう!」
「協力出来ることがあれば私もご協力いたしますが学園内のことについては私は手出し出来ません。話し合いは皆様で行われてください。私は藤原様の制服をクリーニングしますのでこれで失礼いたします」
「え?あっ!そこまでしていただくわけには……」
「私は咲耶様より藤原様の制服について一任されております。その責任を果たせないということは咲耶様に顔向けが出来ません。何よりも藤原様は咲耶様のお心遣いを無下にされるということでよろしいのですね?」
「そっ……、それは……。……わかりました。お願いします」
椛にそう言われた向日葵は何も反論出来ずに頷くことしか出来なかった。この後椛は向日葵の制服を持って帰っていき、向日葵は皐月、薊、花梨と四人で少し話をすることになったのだった。
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昨日は色々とありすぎた。翌朝もいつも通りに花梨と待ち合わせをして学園に登校する。花梨は九条様に言われて近づいてきたことを認めて謝ってくれた。しかし二人の関係は決して言われたからというだけのものではないとも言ってくれた。それは向日葵もわかっている。
最初のきっかけは九条様の配慮と指示だったかもしれない。しかしこれまで向日葵と花梨が結んできた友情は誰かに言われたからというようなものではない。まだどこか友達になりたてという空気ではあるが、それでも確かに向日葵と花梨の友情はここにあるのだ。だから今朝も二人で一緒に登校している。
「本当にごめんなさい、藤原さん……」
「いえ。最初の頃から何となく感じていましたから。それでも吉田さんは誰かに言われたからじゃなくて、本当に私の友達になろうとしてくれていたのもわかっています」
「藤原さん……」
「吉田さん……」
昨日からもう何度も同じ話をしている。それでも何度も謝らずにはいられない花梨と、そんな花梨の事情も、友情も理解出来る向日葵はこれまで以上に深い友情が結ばれた。
「貴女!ちょっとお顔を貸しなさい!」
「「えっ!?」」
クラスに着くとすぐに躑躅を連れた百合に声をかけられた。向日葵と花梨はお互いに顔を見合わせる。
「いいからさっさと来なさい!」
「あっ!」
躑躅に腕を掴まれた向日葵はそのまま教室から連れて行かれた。花梨も何とか止めようと一緒についていく。人気のない朝の中庭に到着すると百合はもじもじしながら声を出した。
「貴女!昨日は!その……、制服を汚してしまって……」
「そうよ!昨日は百合様にぶつかって、百合様を貴女のような下賎の者が穢したのよ!昨日は有耶無耶になったけどそれで済まされたと思うんじゃないわよ!」
「え?躑躅……?」
まだ百合がもじもじしながら何か言おうとしていたが、それを遮って躑躅が前に立ち向日葵を責め立てる。その迫力に向日葵は縮み上がってしまって声も出せない。体はカタカタと震え、ひゅーひゅーと喉から空気が漏れるような音が鳴るだけだった。
「何とか言ったらどうなの!」
「――ッ!」
何も答えない向日葵に躑躅が手を振り上げた。その時……。
「おい。何をしている?」
「「――!?」」
急に男子生徒の声が聞こえて全員が固まった。そちらを見るといつかの時も向日葵と小手毬達の騒ぎに割って入って来た男子生徒、近衛伊吹の姿があった。
「こっ、近衛様……。これは……」
躑躅はばつが悪そうに視線を彷徨わせながら手を下ろす。しかし伊吹にはそんなことはどうでも良かった。
「おい!お前!何故お前が咲耶の制服を着ている!これはどうした!?盗んだのか?えっ!盗んだんだろう!今すぐ脱げ!」
「あっ!」
ズカズカと向日葵に近づいた伊吹はその制服を脱がせようと向日葵の肩を掴んだ。そして無理やり脱がせようと力を入れる。
「……どうしてそれが九条咲耶の制服だと?」
躑躅の素朴な疑問に他のこの場にいる女子達も頷いた。何故あれほど遠目に一目見ただけで向日葵が着ている制服が咲耶の制服だとわかったのか。それは女子達にはわからなかった。
「藤花学園の制服はどれも最低限の品質だが五北会メンバーの制服は出来が違うんだよ!これは五北会メンバー用の制服だ!そして五北会メンバー専用制服でこの胸のサイズは咲耶しかあり得ない!」
「「「「胸のサイズで……」」」」
この時、この場にいた百合、躑躅、向日葵、花梨の女子四人の心は一つだった。伊吹を虫けらを見るような目で見る。制服の胸のサイズを見ただけで咲耶のものだと見抜ける伊吹に汚物を見るような冷たい視線が突き刺さる。しかし当の伊吹にはそんなことは何の痛痒にもならない。
「いいから早く脱げ!」
伊吹が向日葵から無理やり制服を剥ぎ取ろうと再開した時……。
「そこで何をしているのですか!」
凛とした女性の声が響き渡ったのだった。




