第七百六十二話「主人公はどこだ?」
高等科に入学してから少し経っている。入学式やその翌日なんかは色々と大変だったし高等科は幕開けから波乱ばかりかと思っていたけど、あれからは少し小康状態となっている。
もちろん今でも百合達に会えば色々と何か言われたり、サロンの空気が悪かったりと影響はある。だけど最初の時があれだけ激しかったからすぐに全面衝突にでもなるかと思ったけど、百合達の方もまだ留学から帰ってきたばかりで足場が整っていないのかやや大人しい。
完全な敵対状態にならないギリギリで嫌味を言ってきたり、ちょっとした嫌がらせをしてきたりする程度のものだ。その辺りの分別はちゃんと弁えているらしい。
ただ問題なのは一条派閥に何故か三条派閥が合流していることだろう。それでなくとも一条派閥だけでも大変な相手だというのに、閑院流嫡流である三条家や三条派閥が味方しているのは色々とまずい。しかも当初は一条を除いた残りの五北家四家で結束するはずだったのに、伊吹や槐はむしろ百合の味方をしているのではないかとすら思える。
サロンに行くと俺達が百合達に絡まれて、少し反論すると何故か伊吹と槐がしゃしゃり出てきて俺の方を非難してくるということが続いている。もしこれが他の貴族達に『九条家』対『近衛・鷹司・一条』の構図だと思われてしまったら大変だ。
貴族というのは情勢、時勢に敏感だ。乗っている船が沈みそうだと思ったらすぐに乗り換えてしまう。それまでよほど癒着していて切っても切り離せないような一蓮托生の家同士ならともかく、ただ安泰のためにその派閥に所属しているような風見鶏も多い。
所謂武士道的なものだったら仕えている相手がどれほど傾いても忠誠を尽くすものなんだろうけど、貴族達は武士じゃないから武士道なんて関係ない。それに昔はともかく現代の貴族達はいわば商人、商売人に近いものだろう。ビジネスライクな付き合いも多い。その相手が沈むとわかっていればすぐに逃げ出したり、むしろ食い物にしてしまったりすることもある。
桜がいない現状では、九条家対残りの三家だという構図になれば九条家に勝機なしと見て早々に見限られる可能性もないとは言い切れない。貴族の勝負とは実際に衝突する前にはすでに勝敗は決している。近衛、鷹司、一条に三条まで合流して結託していると思われるような形は危険だ。
「御機嫌よう皆さん」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
「おはようございます咲耶様!」
教室に入ると今日もほとんどのメンバーはすでに登校してきていた。高等科が始まってからメンバーの皆は朝早くから来ている。それは何も高等科生になったから朝の行動が早くなったとかそんな理由じゃない……。
「さぁ!今日こそは皐月の処遇について決めましょう!」
「ですから今のままでいいと言っているじゃありませんか」
「それは駄目ですよ!」
「そーそー!皐月ちゃんだけずるーい!」
今朝も始まってしまった……。皆は皐月ちゃんの現状に不満があるらしい。
皐月ちゃんは西園寺家を放逐されて以来、今でもずっと九条家に泊まっている。むしろどんどん皐月ちゃんの身の回りの物が充実していてすでにお泊りというより一緒に暮らしている状態だ。どうやら皆はそれが許せないらしい。そしてその気持ちは俺にもわかる。
例えば蓮華ちゃんが何らかの事情によりずっと譲葉ちゃんの家に泊まってお世話になっていると聞かされたらどう思うだろうか?当然譲葉ちゃんだけ蓮華ちゃんを独占して泊めてずるいと思うだろう。それなら自分の家にも蓮華ちゃんが泊まりに来て欲しいと思うだろう。
皆も同じ思いであり、俺ばかりが皐月ちゃんを独占してずっとうちに泊めているのがずるいと思っている。そんな場合ではないと言えばそうなんだけど、やっぱり他のお友達が自分の家以外にお泊りに行っているのに、自分の家には来てくれていないと思ったらずるいとかヤキモチを焼いたりするのも止むを得ない。
「私はもうこのままでいいんです!このままそっとしておいてください!」
「そんなの駄目に決まってるでしょ!皐月ばっかり良い思いをして!」
「薊……、いいえ、皆にも言っておきます……。私は全然良い思いは出来ていませんよ……。椛さんのガードは思った以上に鉄壁でした……。うっかりお風呂を覗くことすら出来ません……。それどころか洗濯物一つ見つけることは出来ないんです……」
「「「えぇ~?」」」
今朝もまた皆による皐月ちゃん救済計画が話し合われているようだ。俺は自分の荷物を片付けながら皆とは違う理由で今後の皐月ちゃんについて考える。
皆はただ皐月ちゃんがうちにお泊りに来ているから、たまには自分の家にも皐月ちゃんがお泊りに来て欲しいくらいの気持ちなんだろう。でも俺はその視点だけで考えるわけにはいかない。一つはもちろん西園寺家とこのままにしておくわけにはいかないからだけど……、もう一つ切実な理由がある!
それは俺がこんな可愛い女の子と一つ屋根の下で一緒に生活していたら色々と我慢出来なくなるかもしれないからだ!
俺だって健全な成人男性……、の精神を持っている。肉体的には女性だけど……。ともかくそんな肉食系男子である俺が、皐月ちゃんみたいな可愛い女の子と一緒に生活しているんだ。今はまだ我慢出来ているけど今後もずっと皐月ちゃんを襲ったり、お風呂を覗いたり、洗濯物を漁ったりしないとは言い切れない。
少し前まではグループの子達もまだまだ子供だと思っていた。でもこの子達はもう少ししたら結婚も出来る年齢なんだ!そう……、結婚出来る年齢なんだ!
前世の俺の年齢に今生の年齢を加えれば俺は結構良い歳になる。でもこれまで皆と一緒に育ってきたからか、それとも肉体が若いからか、俺の精神は生きてきた合算年齢に比べれば幼く若いと思う。むしろもう最近では皆のことを普通に年頃の女性としか思えなくなりつつある。このままでは俺の野獣が目を覚ましてしまいかねない!
このまま皐月ちゃんと同居したままでは俺はそのうち皐月ちゃんを襲ってしまうかもしれない。そんな取り返しのつかないことをしてしまう前にどうにかする方法を考えなければ……。
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グループの皆も俺も皐月ちゃんをどうするかあーでもないこーでもないと話し合っている。でもいつも中々良い答えは出ない。このまま九条家で生活してもらうのも両親は良いと言ってくれているけど、やっぱり肉食系男子である俺と同居しているのは色々とまずい。
そうは思いながらも皆も意見を出してくれているのに答えは出せず……。ただ無為に時間だけが過ぎていく。そして俺にはそれ以外にも色々と気がかりがある。皐月ちゃんには悪いけど皐月ちゃんのことだけを考えていれば良いというわけにもいかない。
この学園に主人公、藤原向日葵が入学してきているのは間違いない。俺もクラス分けなどの名簿で名前を確認している。同姓同名の別人という可能性もゼロではないのかもしれないけど、『恋に咲く花』の藤花学園で同じ学年に同姓同名の別人が入学してきたとは思えない。
藤原という苗字はそれなりにあるとしても向日葵なんて名前は珍しい方だろう。それに花り……、じゃなくて俺の送り込んだ諜報員も藤原向日葵と接触したと報告してきている。でも俺は主人公を見た覚えがないんだよなぁ……。
主人公、藤原向日葵は貴族社会を知らないために色々と騒動を起こすはずだ。それなのに今の所そういった騒動らしき騒動は起こっていない。むしろ思っていたより五組と他のクラスの軋轢というか衝突が少ないように思う。
ゲームでは外部生と内部生の衝突が物語の大きな部分を占めていた。それなのに今の藤花学園は妙に静かだ。むしろ静かすぎる。誰かがうまく間を取り持ってでもいない限りこんなに早く五組が学園に馴染めるとは思えない。
一条が……、ということはないだろうな。一条ならむしろ対立を煽ってそこに付け入るはずだ。というかゲームでもそれらしき描写があった……、気がする。もう記憶もかなり薄れているしそこまではっきり説明されていなかったはずだけど、確かそれらしきシーンがあったはずだ。
一条もゲームとは違う動きをしているしそもそも同級生になっている時点で変わりすぎている。ゲームで内部生と外部生の対立を煽っていたとしてもこちらでも同じようにするとは限らないけど……。それでもやっぱり一条が間をうまく取り持ってくれているという線はないだろう。それよりもっと手腕の優れた人物がうまくやっているに違いない。
人同士の対立を煽るのは簡単だ。両方をうまく焚きつけて、不満の溜まる部分を誇張して吹聴していけば良い。でも利害や常識の異なる両者の間をうまく取り持つというのは焚きつけるよりも何倍も難しい。両者の気持ちをちゃんとわかって、利害関係を調整し、異なる常識をすり合わせて落とし所に持っていく。
もしそんなことが出来る人物がいるとすればその人物は相当優秀で気立てもよほど良いだろう。そしてそんな者を絶妙に配置して動かしている人物がいるとすればその人物は相当頭が切れるに違いない。しかもそんな優秀な人材から信頼されて忠誠を誓われているとすれば下手すれば近衛母くらいに厄介な相手じゃないだろうか。
本当にそんな人物がいるかどうかはわからない。少なくとも俺の情報網にはそんな人物は引っかかっていない。でももしそんな人物がいるとしたら……、一体どんな人物なのか……。今の所その相手は騒ぎを起こさないように配下達に指示を出しているようだけど、万が一にも俺達に敵対してくるようなことがあったらと思うと胃が痛くなってくる。
「はぁ……」
「咲耶様……、お疲れですか?」
「え?あぁ……、いえ……」
つい知らず知らずのうちに溜息が出ていたようだ。今の所はその謎の人物らしき存在の影はない。『まるで誰かがうまく立ち回って全てをコントロールしているかのように事が進んでいる』というだけのことだ。それらは全て偶然でそんな『凄い誰か』なんて最初からいない可能性の方が高い。
そんないるかいないかわからないような架空の相手のことを心配するよりも今はすべきこと、考えるべきことがたくさんある。
「咲耶様……」
「あっ……」
学園を出て習い事へと向かう車の中で……、椛がそっと俺を抱き寄せてくれた。顔が柔らかい椛の胸に包まれる。
「咲耶様、何でも全てをご自身で背負われる必要はないのですよ。もっと私達を頼ってください。私達よりは頼りにならないでしょうが同級生の娘達ももっと使ってやってください。咲耶様はお一人ではないのです」
「椛……」
椛の温かい言葉が胸に染み込んでくる。まるで頭の上からフスフスフスと変な音が聞こえてほんのり温かい空気を吹き付けられているかのようだ。
「あっ!駄目です椛!今日一日学園で過ごした後なので……」
暫く椛の胸に抱かれていた俺はハッと気付いた。その先の言葉は恥ずかしくて言えない。お風呂やシャワーの後だというのならまだしも、今日一日学園で過ごして俺は汗も掻いているだろう。そんな状態でこんなに密着してしまっては椛に不快な臭いをかがせてしまう。
「いいえ!大丈夫です、咲耶様!これはご褒美です!hshs!」
「ご褒美……」
そうか……。俺が頑張っているからってこうして椛が胸に抱いてご褒美をくれているのか……。まるで小さい子供のような扱いだな……。
「ふふっ」
「咲耶様?」
俺が少し笑ったからか椛が不思議そうな声を上げていた。そうか……。椛から見れば結局俺はまだ小さな子供のようなものか。
普通の子供だったら子供扱いされたらむしろ怒るのかもしれない。でも前世が成人男性で精神的に大人な俺にはむしろ本当のご褒美のように思える。たまにはこういうのも悪くない。
椛の胸に抱かれた俺は少し冷静さを取り戻した。今の状況は思ったよりも悪くないのかもしれない。あれだけ性格も明るくて目立つ存在である主人公を俺が未だに見ていないのは不思議だけど、花り……、諜報員は接触していると言っている。俺が出会っていないだけで確かにいるんだろう。
本当にこの状況を影から操っている何らかの存在がいるのかどうかはわからないけど、少なくとも今は状況はうまく落ち着いていると言える。今後は主人公や百合や俺の周りでもっと色々な騒動が起こる可能性は高い。でも今の所は外部生がそれほど浮き足立っていないのは救いだ。
百合・朝顔・躑躅達への対応、皐月ちゃんと西園寺家の問題、主人公・藤原向日葵とその周辺の動向。
それぞれが関わっている部分もあってややこしく考えていた。でも冷静に考えてみれば今の所の問題といえばこんなものだ。そう考えたら思ったよりもイージーに思えてきた。まずは目の前の問題を一つずつどうにかしていこう。




