第七百二十二話「仕えるべき主君」
難波棗の父、難波弘文は怒っていた。
「何故この私が小娘などに呼び出されてノコノコ出かけていかなければならんのだ!」
「まぁまぁあなた……、まずは落ち着きましょう」
妻の幸子の言葉に弘文はますます頭に血が昇る。それというのも一週間ほど前に九条家から呼び出しを受けたのが原因だ。
去年の騒動以来難波家は棗と距離を置いている。本当ならば完全に勘当して知らん顔を決め込みたいところだが、九条咲耶が難波棗を庇護していると社交界でも噂になっている。一条派閥との関係を考えれば棗を勘当してしまいたいところだが、そうすると今度は棗を庇護している九条家に睨まれかねない。
弘文は口でこそ偉そうにこう言っているが実際には小心者だ。プライドが高く、地下家最高位クラスである家柄を誇りはするが、いざ自分よりも立場の上の者に睨まれたら縮こまっていることしか出来ない。そして家などでそういう相手が居ない場でのみこのように偉そうに愚痴を言っている。
妻の幸子もやや小心者だが夫、弘文と違って変なプライドや家柄への誇りというものはない。どこにでもいそうな普通のおばさんなので怖い相手と向き合うことは苦手だ。幸子はいつも家で弘文の愚痴を聞かされて宥める生活を送っている。
弘文は小心者なので派閥の長である一条家に逆らうような真似など出来ない。それならば一条家や一条派閥にとことん尽くすかと言えばそんなこともなく、九条家のような遥か格上の相手に何か言われればその場ですぐに謝ってしまう。一条家の命令と反するようなことでも、相手が九条家のような圧倒的格上ではついつい言うことを聞いてしまうのだ。
結果、難波家は去年の騒動以来一条派閥の中に居る時は一条派閥に都合の良いように言い、九条家に棗のことについて言われた時には九条家に従うかのようなことを言ってきた。風見鶏や調子の良い蝙蝠のようなことを繰り返してきた難波家だったが、ついに先日九条家からそのことについて話し合いたいと呼び出しを受けてしまった。
本当はわざわざ九条家になど出向きたくない。しかし九条家からの呼び出しを無視したり断ったりするだけの度胸もなく、弘文は幸子をつれて上京してきたのだ。
「旦那様、到着いたしました」
「こっ……、これが九条家の屋敷か……。ふっ、ふんっ!これくらい五北家ならば普通だろう!」
九条邸を目にした弘文はその威容に圧倒されたが精一杯の虚勢を張って自身を奮い立たせた。プライドだけは高いので『五北家ならばこれくらいは当然』とか『難波家でも豪邸を建てるつもりならこれくらいは建てられる』などと心の中で必死に唱える。
「ようこそお越しくださいました難波様。咲耶お嬢様はまだ戻られておりませんので先にご案内させていただきます」
「ふんっ!」
弘文と幸子が到着したというのに呼び出した張本人である九条咲耶が出迎えにも出てこない。何て失礼なのだと思いながら家人に案内されて屋敷へと入った。
しかし咲耶がまだ戻らず不在で出迎えに出られなかったのは難波家一行が予定時間より早く到着したのが原因だった。難波家一行は朝から車で走ってきたわけではなく前日から前乗りして都内で一泊している。だが都内の道路事情などがわからないために早めに出てそのまま早めに到着してしまったのだ。
普通ならあまりに早く近くまで来てしまったらどこかで時間でも潰してから訪ねていくことだろう。しかしプライドの高い弘文は自分が時間を潰して調整してやらなければならない理由はないとそのまま九条邸へと向かった。その結果、まだ約束の時間より早いので咲耶は習い事から戻っておらず、出迎えが出来ないどころか難波家一行を待たせることになってしまった。
普通なら約束の時間より早く来た自分の落ち度だと思う所だが、弘文は『九条家の娘がなっていないのが悪い!』と心の中で悪態をついて気を紛らわせる。
本当はこんな大豪邸に呼び出され、しかもその相手は五北家の一角である九条家とあって内心ではかなり焦っている。そんな気持ちを紛らわせるのに怒りを利用しているだけだった。
「咲耶お嬢様がお戻りになられるまでこちらでおくつろぎください」
「まぁ!素敵なお部屋ね!」
通された部屋の質の高さに幸子は素直な感想を口にした。しかしそれを聞いて弘文はますます不機嫌になる。
「まさか呼び出しておいて待たされるとはな!」
「申し訳ございません」
聞こえよがしにそう言うと控えていた九条家の家人が頭を下げた。弘文はそれに気を良くする。
一条派閥に顔を出せば地方貴族ということで難波家は軽く扱われている。従三位である難波家より格下の相手にですら馬鹿にされることもあるくらいだ。そうだというのに今は九条家の家人達に頭を下げさせている。その事実が弘文のプライドを刺激して気持ち良くさせる。
「私は従三位の難波家当主だぞ。そのことをよ~く弁えてもらいたいものだな」
「はい。申し訳ございません」
九条家の家人に頭を下げさせている。その事実に弘文は有頂天になっていたのだった。
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椅子もテーブルも絵画も装飾品も、あらゆる高級品に囲まれた応接室で弘文は踏ん反り返っていた。口にする飲み物もお茶請けも最上級品であり、内装も装飾も最高級でありながら成金趣味ではなく落ち着いた雰囲気に纏められている。この部屋で椅子に座っているだけで自分が何段も偉くなったような気になってしまう。
「失礼いたします。難波様、咲耶お嬢様がお戻りになられました」
ノックされて許可を出すと家人がそう言って頭を下げた。完全に勘違いして悦に入っている弘文は大仰に頷いて偉そうに応える。
「そうか。通せ」
まるで自分がここの主人で、相手が客人であるかのように振る舞う。しかし弘文が有頂天で居られたのもそれまでだった。
「お待たせして申し訳ありませんでした、難波様」
「ヒュッ――!?」
応接室に入ってきてそう言いながら頭を下げた少女を見た瞬間、弘文は心臓が止まる思いだった。
部屋に入ってきたのは何の変哲もない少女だ。そう思える。そもそも今まで何度か見たことがある相手だ。しかし違う。その小さな体から放つ気配はまさに王者の如く、表面的には笑顔の美しい顔とは裏腹にその圧は凄まじい。これこそが絶対者。自分のような小物とでは存在の格自体が違うと嫌でも思い知らされる。
「いっ、いえっ!九条様のご指示ならばいくらでもお待ちいたします!」
バネのように飛び上がって立った弘文は裏返った声でそう言うのが精一杯だった。格が違う。存在が違う。これは逆らってはならないモノだ。人一倍プライドの高い弘文が恥じも外聞も捨ててとにかくこの目の前の少女に頭を下げる。
「こちらから呼び出したのにお待たせいたしました。それで早速で申し訳ありませんが話し合いを始めたいと思いますがよろしいでしょうか?」
「はい!いいえ!明日まで待てと言われれば明日でも明後日でもいつまででもお待ちいたします!さぁ!九条様、お座りください!」
絶対にこの相手に逆らってはならない。弘文にはそれがわかる。他の者から見れば中等科三年の少女に何をペコペコしているのかと思われるだろう。だが誰に何と思われようと、言われようと、弘文は絶対にこの相手に逆らってはならないと理解したのだ。
「まずは……、彼の同席をお許しいただけますか?」
そう言って九条様が扉の前を譲ると後ろから息子、棗が入ってきた。しかし弘文にはそんなことは些細なことだ。一条派閥から言われていたから棗を勘当同然に放っていただけで、一条派閥よりも圧倒的存在であり、絶対に逆らってはならない存在である九条咲耶様に棗と同席しろと言われたら断ることなどあり得ない。
「棗、久しぶりだな!お勤めを果たしているようで何よりだ!さぁ座りなさい!」
九条咲耶様が難波家を呼び出し、棗の同席を求めたということは棗に対する難波家の対応の改善を求められているのだろう。弘文も伊達に従三位の地下家の当主をしているわけではない。内弁慶でプライドが高く、家では他人の愚痴を言っているが、社会の仕組みや社交界での振舞いについては熟知している。
幸子も久しぶりに息子と少し言葉を交わしてから四人で腰掛けて向かい合った。少しお茶を飲みながら難波家によって家族の会話がされ、程よく会話も弾み緊張が解けたところで九条咲耶様より本題が告げられた。
「実は本日ご両親をお呼びしたのは他でもありません。棗君と難波家の関係がこの一年でまるで改善されていないことを私も今更ながらに知りました。そこで今日はわだかまりや誤解を解いて、家族としての絆を取り戻していただきたいのです」
九条咲耶様は表向きは笑顔でそう言われた。しかしそうではない。弘文にはわかる。
『九条家が庇護している棗との関係を絶っているということは難波家はこの九条咲耶に逆らうつもりなのか?』
九条様はそう言われているのだ。これはただ言葉通りに棗を難波家に復帰させるための話し合いではない。難波家が、弘文が、九条咲耶様に従うのか、敵対するのか、それを今この場で示せと言われているのだ。弘文はそのことを理解して一度ゴクリと唾を飲み込んだ。
「なっ、棗は随分と九条様に良くしていただいているようだな?」
「はい。とても良くしていただいております」
いきなり九条様に言葉を返せない弘文はまずは棗にそう言葉をかけた。一応この場は棗の難波家への復帰についての話し合いの場ということになっている。それならばこれくらい声をかけても不自然ではない。いや、むしろそれくらい建前で話す方が自然だ。弘文はバクバクと心臓がうるさいくらいに脈を打っているのを落ち着かせようと浅い呼吸を繰り返す。
「九条様の計らいで藤寮に入っているようだが、棗が望むなら難波家で家を用意するぞ?」
「いえ、大丈夫です。このまま卒業まで藤寮でかまいません」
「――ッ」
真っ直ぐに見据えてそう言ってきた棗を見て確信した。棗はすでに九条様に忠誠を誓っているのだ。一条家を捨て、九条家に鞍替えをし、九条咲耶様に完全に忠誠を誓っている。
もしこの場に来ることなくその情報だけを聞いていれば弘文は棗に対して激怒したことだろう。だがこの場に居れば嫌でもわかる。棗の判断は正しい。九条咲耶様には逆らってはならない。こうして対面で座っているだけで冷や汗が止まらない。こんな化け物は見たことがない。一条家はこんな化け物と事を構えてどうしようというのか。
このままこの化け物と争えば一条派閥は壊滅する。
弘文にはその未来が見える。棗もそれを感じ取ったからこそ一条家を見限り九条咲耶様につくことにしたのだろう。難波家の息のかかった家に引っ越さずに九条家の息がかかった藤寮で生活すると宣言したのはそういうことだ。
「そう……か……。九条様、不肖の息子をよろしくお願いいたします。我が家も総力を挙げて息子を守る所存ですが、息子や難波家の立場は微妙なものです。我が家だけではどうにもならない事態の折には九条様のお情けにおすがりしたく……」
弘文の言葉は難波家が一条派閥から九条派閥へ正式に鞍替えすると宣言したに等しい。その際に元派閥である一条派閥から難波家が攻撃されたら九条家が守って欲しいという言葉だ。それを受けて九条咲耶様は満足気に頷かれた。
「棗君のことはお任せください。難波家についても悪いようにはいたしません。一条家や一条派閥とも良く話し合いましょう」
九条咲耶様は派閥を鞍替えした難波家のことを保障してくれた。今の言葉は一条家や一条派閥が難波家に手を出せば対応してくれるという言外の約束だ。その約束をいただけたのならもう怖いものは何もない。まるで鬼神かと思うような化け物である九条咲耶様に庇護されるのなら難波家も棗も安泰だ。
「親子水入らずで積もる話もあるでしょう。私は席を外しますので久しぶりの家族の一時をお過ごしください」
「はっ!ありがとうございます!」
弘文は一条家当主にもしたことがないほどしっかりとした態度で頭を下げて九条咲耶様を見送った。あのような少女に対して頭を下げるなどプライドが許さないなどという考えはすでになくなっている。九条咲耶様の器と実力を思い知った今ではむしろお仕え出来ることに喜びすら感じている。
「九条……、咲耶様……。凄いお方だな、棗」
「はい。とんでもないお方です」
弘文と棗は通じ合っていた。今まで、こちらに出てくる前の実家で暮らしていた時でさえ二人はこんなに通じ合ったことはない。しかし二人は九条咲耶様というお仕えすべき主君を得て今まで以上に共感し合えるようになった。
その後弘文と幸子は棗と久しぶりに親子の会話を交わし、実り多い会談を終えて二人は帰路に着いたのだった。




