第六十三話「年の功」
折角の夏休みだっていうのに気分は最悪だ……。終業式の日に槐にあんなことを言われてから何をしても身が入らない。ここの所は師匠にも毎回怒られている。
あ、師匠に怒られるのは前からだったわ……。
でも前までの比じゃない。前までのは修行中に俺が出来てない所を叱られていた。それは教える側として当然のことだ。でも最近は違う。そもそも修行の内容以前の問題で怒られている。師匠にも俺の心が原因だとバレているんだろう。身が入ってないとか、集中出来てないとか、こんなのは俺自身が原因だ。
わかってはいる……。わかってはいるんだけどどうしようもない……。時間が経てば少しは気持ちも落ち着くかと思ったけどそんなこともなく……、いつも同じようなことをグルグルと考えてしまう。
「……ちゃん。……咲耶ちゃん?」
「え?あっ……、はい……。すみません菖蒲先生」
蕾萌会の夏期講習も出てるだけでまともに進んでいなかった。ここの所は菖蒲先生にもよく注意されてしまっている。
「少し休憩にしましょう」
「え?私は大丈夫です」
まだ始まって間もないのにいきなり休憩とか何をしているのかわからない。そう思ってテキストに向かおうとしたけど無理やり菖蒲先生に閉じられてしまった。
「休憩にしましょ」
「…………はい」
再度そう言われて頷く。夏休みは蕾萌会の夏期講習がかなり入っている。特に俺は家族旅行にも行くからその分が前倒しで入っているからだ。ほぼ毎日、百地流の修行と夏期講習のどちらかに行ってるだけの生活という感じだろうか。でもどちらも身が入っておらずこの有様だ。菖蒲先生にも百地師匠にも迷惑をかけてしまっている。
どうにかしなければという思いはあるけど、どうすれば良いのかもわからない。
「それじゃ行きましょうか」
「え?あの?」
菖蒲先生は立ち上がると俺の手を引いて歩き始めた。蕾萌会のビルを出て行く。一体どこへ行くつもりなんだろう。
「菖蒲先生?」
「いいからついてきて」
「……はい」
菖蒲先生に言われるがままに、手を引かれるがままに歩いて行く。蕾萌会から少し離れた普通の住宅街のような場所にぽつんと、何かの店のような家があった。見た目は一見普通の民家のようにも見える。ただ少しばかり置かれている物から何かの店かなという感じだ。
看板やメニューが外にあるわけでもなく、ただちょっとした飾りや置物からして普通の民家とは少し違うのかなとわかる程度だった。そこへ菖蒲先生は入って行く。
「いらっしゃい」
やっぱり店だったのか……。確かに外の雰囲気からして何かお店をしているのかなと思うけど、知らなかったら入りにくい店だ。ただ家の周りを飾っているだけの民家にも見えなくはない。俺なら知らずに入る度胸はない。
それなりの歳だろうけどまだ若そうに見えて綺麗なお姉さんがカウンターの奥に一人で立っていた。客用のテーブルやカウンター席はあるけど今は誰もいない。一見喫茶店風かなとも思うけど具体的に何屋さんなのかは不明だ。
「咲耶ちゃん、カウンター席でいいかしら?」
「え?はい……」
別に席なんて何でもいい。普通のご令嬢ならカウンター席なんて座らないかもしれないけど、俺は前世で普通にカウンター席を利用していたから抵抗はない。
「マスター、私はいつもの。それと……、咲耶ちゃんは紅茶かな?あとお薦め二つ」
「あの……」
メニューを見せられることもなく、マスターと呼ばれた女性とのやり取りもなく菖蒲先生が勝手に俺の注文を決める。っていうか俺はお金を持ってない。
「菖蒲先生、私はお金を持ち合わせていませんが……」
「いいのいいの。これくらいは奢るわ」
まぁ店の感じからしてそんなに高そうではないけど……、それでもいきなり菖蒲先生に喫茶店で奢られる理由もない……。困惑している俺を他所にマスターの女性はテキパキと準備を進めていく。今更いりませんとも言えない。
マスターが準備をしている間俺と菖蒲先生は何も語らない。マスターも黙って準備をしているだけだ。マスターは二十代後半か三十代前半というところだろうか。若くて綺麗なお姉さん風だけど、そこそこは歳を取っていると思う。俺達の世代からすればお母さんでもおかしくないような年齢だろう。
うちは年上の兄がいるから母はもっと年上だけど、俺の同級生くらいの子供が一番上の子供の家庭なら三十代前半くらいの両親でも何もおかしくはない。
……このマスター手馴れてるな。これを商売にしてるんだから当たり前と言えば当たり前だけど手際が良いし手つきが慣れている。暫く無言で菖蒲先生と並んでマスターのしていることをぼーっと眺めていた。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
俺の前に紅茶が置かれる。菖蒲先生はコーヒーのようだ。それと小皿に盛られたクッキーが三枚ずつ二人の前に出される。
「いただきます」
「……いただきます」
菖蒲先生がそういうから俺もそれに倣ってからティーカップを持ち上げる。香りを味わってみるけど……、うん?嗅ぎ慣れない香りだな。俺でも結構あれこれ色んな種類を試して覚えていると思うけど、これは香りだけで品名がわからない。
口をつけてみても覚えのない味だ。……いや、遠い昔に知っていた味によく似ている。もしかしてこれは……。
「…………ただのインスタントなのでは?」
「そうよ?」
あ……、声に出ていたらしい。淹れたマスターの目の前で、奢ってくれた菖蒲先生の目の前で言うことじゃなかった……。でも菖蒲先生は『当たり前じゃない』と言いながらコーヒーに口をつけていた。
クッキーの方も売っている物を買ってきて並べているだけだろうか?と思って見てみたけど形が不揃いだしこちらは店で買ってきただけのものとは違うかもしれない。試しに一つ食べてみる。
「ん……。こちらは手作りなんですね」
「そうなのよ。お菓子作りは趣味なの」
今度はマスターが答えてくれた。何となくわかった。つまりこの店のコンセプトはマスターが趣味のお菓子作りをして、それを喫茶店で出しているということだろう。だからメインは飲み物ではなく、飲み物は簡単にインスタントで済ませている。マスターがしたいことは自分が作ったお菓子を食べてもらいたいということか。
「咲耶ちゃんのことだから深いことを考えてそうだけど……、この店はただのマスターの暇つぶしだし、特に何か目的や意味があってやってるわけじゃないわよ」
「……え?」
自分の手作りお菓子を出したいからやってるわけじゃないってことか?だったら何で……。
「たまに手作りお菓子も出してるけどいつもじゃないのよ。お店で買ってきただけのものを出してる時もあるしね」
おい……、マスターよ……。それは客の前で言っていいのか?飲み物もインスタント。お茶請けやお菓子も買ってきた物だったらここで飲食する理由がないだろ……。
「ねぇ咲耶ちゃん。咲耶ちゃんにとってはこのお店は意味がわからないと思うわ。明確なコンセプトもない。目的もない。名物もない。売りもない。何でこんなお店をしてるんだろうって思うと思うわ」
「それは言いすぎじゃないかな?」
菖蒲先生の言葉にマスターは少し苦笑しながら突っ込みを入れていた。
「でもね。ここにはお客さんが集まるわ。今は誰もいないけど私が来たら満員で入れない時もある」
それは近所付き合いとかそういうものじゃないのか?近所の人が店を開けば付き合いでその店を利用したりするだろう。でもそれだけじゃやっていけない。売り上げは低迷して潰れるその手の店も多い。最初こそ知り合いや近所の人が来てくれるけどそれだけでやっていけるほど商売は甘くないだろう。
「咲耶ちゃんならきっと、採算が、とか、店の売りを作らないと、とか、売り上げを伸ばすには、とか考えてるんでしょうね」
「はぁ……」
それはそうだろう。商売をするということはお金を稼ぎたいということだ。だったらどうすれば売り上げが伸びるか、どうすれば利益が上がるかを考えるのは当然だろう。
「でもここでは誰もそんなことは考えないの。お客さん達の方はただ適当に冷やかして、知り合い達が集まったらお話でもしようという程度のこと。マスターもお店が維持出来る程度の売り上げがあれば別にお金儲けなんて二の次なのよ」
「なるほど……?」
まぁ趣味で商売をしている人もいる。それはわからなくはない。売り上げやお金儲けが目的じゃなくて、知り合いが集まる店をしてそこで皆で集まるのが楽しいという人もいるだろう。赤字を垂れ流して生活もままならないというのは困るけど、店が潰れない程度に維持出来れば生活は困らないというのならそういう人や店があることもわかる。
「何も難しく考えることはないのよ。ただ何となくやってみた、でもいいの。ここのマスターは専業主婦で暇だから喫茶店でもしてみようって思ってやってみただけ。失敗してもいい。深く考えなくても、ただやってみた、というだけでもいいのよ」
「…………」
菖蒲先生の言葉に聞き入る。何故菖蒲先生が俺をこの店に連れてきたのか。
「このお店も最初はよくてもそのうち常連さんしか来なくなって、その常連さんも減ってきて、やがて店を閉めることになるかもしれないわ。それで生活に困ったり借金をしたというのなら大変だけど……、人はちょっとやってみようかなってだけでもこれほど大それたことも出来るのよ」
「潰れるとか大それたこととか随分な言い方なんですけど……」
またマスターが苦笑している。でも特に怒っている風にはない。
「咲耶ちゃんが何に悩んでいるのかはわからないけど……、そんなに難しく考えなくていいのよ。人生なんて思いつきや行き当たりばったりでも何とかなるもんなんだから。ね?だからあまり考えすぎないで」
「はい……。ありがとうございます」
菖蒲先生にまで随分心配や迷惑をかけてしまったようだ。ちょっと今そう言われたからって全て吹っ切れるわけでもないけど……、言われたことはわかる。
俺は失敗しないように、完璧なようにと考えすぎていた。意味を求めすぎていた。でも人生なんてそんなもんじゃないだろう?自分でも馬鹿なことをしていると思いながら無意味なことをしてみたり、失敗するのがわかっていながら挑戦してみたりすることもある。
全てのことに意味があるわけでもなければ、一切一度も失敗してはいけないわけでもない。俺は前世の記憶があるから小賢しく生きようとしすぎていた。でも前世だって失敗や間違いの連続だった。その中で成長して生きてきたんだ。だから今生でも……。
「ちょっとは先生らしいこと出来たかな?咲耶ちゃんには何も先生らしいこと出来てなかったからね」
「そんなことはありません。菖蒲先生にはいつも助けていただいています」
普通塾の講師なんてただ講義だけしていればいいという講師もいる。でも菖蒲先生は本当に俺のことを考えてくれている。昨今では学校の先生でもいい加減な先生や犯罪を犯す先生まで増えているのに……。菖蒲先生には感謝してもし切れない。
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「えっ!マスターって四十……」
「は~い。ストップ。それ以上言っちゃだめよ」
笑ってない笑顔でマスターに止められた。菖蒲先生が散々酷いことを言ってても苦笑していただけなのに年齢の話になるといきなり豹変してしまった。マスターに年齢の話はタブーなようだ。それにしてもこの見た目で四十代後は……。
「何を考えているのかな?」
「ひぃっ!」
もう考えません!許してください!
「どう?インスタントの飲み物と素人が趣味で作ったお菓子や、買ってきただけのお菓子を出すだけのお店でも良いものでしょう?」
「そうですね……」
菖蒲先生やマスターと話していると時間が過ぎるのがとても早く感じる。飲み物はインスタント、食べ物の味も普通、それでもいい。ここはそういうことは関係ないお店だ。
マスターとも随分打ち解けて『咲耶ちゃん』と呼んでもらえるようになった。まぁマスターは俺がどこの誰だか知らないだろうけど……。藤花学園に通っている者にとっては九条は特別でも、普通の街中に出れば九条なんてちょっと古めかしい名前というだけのことでしかない。
「ところで二人とも……、もうこんな時間だけどいつまでも居ていいのかな?」
「「…………あっ」」
マスターに言われて時間を確認してみれば……、もう今日の講習が終わっている時間だった。俺はともかく菖蒲先生は次の生徒の講習があるだろう。
「もっ、戻りましょう!」
「ご馳走様でした」
菖蒲先生にお店の代金を払ってもらって、二人で急いで蕾萌会のビルへと戻ったのだった。




