第五百九十一話「予感が当たる」
昨日は体育の授業で事故が起こってしまった。平均台から落ちた生徒はすぐに救急車で運ばれたけど特に大きな怪我もなく済んだようだ。全治何週間とか何ヶ月とかの診断は出ているだろうけど実は全治というのは字面ほど大変なものじゃない。
例えば擦り傷をした場合でも全治一週間とかはザラに出る。五分もすれば出血が止まってかさぶたが出来て、二、三日もすればかさぶたも取れて治るような軽傷でも全治一週間とか全治二週間と診断される。これは『全治』という言葉が完全にそれに由来する怪我や痛みが治りましたという意味だからだ。
五分で出血が止まって二日でかさぶたが取れたとしても、そこには傷跡が残っている。そういったものがほぼ消えて痕がなくなりましたとなって初めて完治と言えるからに他ならない。本人が傷のせいで皮膚が突っ張って動かしにくいと言うだけで『完治』ではないのだ。
そういった外傷ならばまだ診断もしやすいけど、例えばむちうちとか捻挫のような目に見えない怪我の場合は余計に本人が痛いと言い続ける限りは『完治』とは言えない。特に異常が見られない場合は『この程度をもって完治とする』という基準はあるだろうけど、怪我を負った本人が痛いと言い続ければそれは完治ではないとも言えてしまう。
それを利用して交通事故などでむちうちになったとか、足が痛くなったといっていつまでも相手に金をせびる輩もいるわけだ。実際俺の前世の同級生でそうやっていつまでも金をせびっていた者がいた。痛みのせいで仕事が出来ないから金を払えといつまでもいつまでも主張していたようだ。
もちろん保険会社などはそういった輩を相手にすることに慣れている。ある程度は仕方のない必要経費としてゴネてくる相手に付き合ってくれるけど、『この程度の怪我ならこの程度の金額で解決とする』という常識を超えてたかってくる輩にいつまでも金を払い続けるものではない。
それはともかく二人障害物競走の練習をしていて平均台から落ちた子達は大きな怪我はなかったようだけど、事故としては大変大きな問題になってしまった。
昨日は落ちた二人を病院に搬送したり、残った者に事故の経緯を聞いたり、調査を行いすぐに緊急会議になったらしい。俺達は校長室から帰されて普通に授業を受けていたけど藤花学園の上層部は大変な騒ぎだっただろう。そして今日は落ちた子達の親がやってきて学園に滅茶苦茶なこと突きつけている。
「うちの子が怪我をしたんですよ!藤花学園としてどう責任を取ってくれるというんですか!」
「はぁ……、それにつきましてはまだ調査中で……」
「何が調査中ですか!」
「もっ、申し訳ありません!」
今怒鳴っているのは落ちた二人のうちの下敷きになった子の母親だ。
平均台から落ちたのは一年生の女子だった。今怒鳴っている方の子供は稲田海桐花というらしい。稲田家の本姓は不詳でありその出自はよくわからない。本人達にはそれなりの伝承があるのかもしれないけど他人である他の家から見れば不詳だ。
もう一人の落ちた子は松本蕗という。こちらは俺も知っている。源氏松本家は九条家侍であり俺とも無関係ではない。稲田家は二条家侍でどちらも地下家ではあるけど内部生であり、そんな内部生の子が二人も事故で落ちて怪我をしたとあっては学園側は本当に大変なことになったと思っているだろう。
それで何故俺が稲田家のご両親がお怒りの場にいるかだけど……、この場には学園側の責任者や当時の関係者、それから生徒会役員が集められている。稲田家は一緒に落ちた松本家の他に一部の仲が良い家を集めて抗議にやってきたようだ。俺はその場に同席させてもらい両者の話を聞いていた。
話を聞く限りでは稲田家側の怒りもわからないでもない。
どうやら今回の二人借り物競争や二人障害物競走の危険性は学園側も危惧していたらしい。ただ生徒会側はそれでも新しい競技を取り入れたいということで安全性に配慮するということで学園側を納得させたという。問題はその安全への配慮というのが実際には何の役にも立っていなかった。
二人三脚で足を括ったまま平均台の上を渡るなんて誰が見ても危険だとわかるだろう。普通に二人三脚していて走るだけでも転ぶ可能性が高いというのに、平均台の上をそんな状態で渡るなんて運動音痴が多い藤花学園で出来るはずもない。
運動神経が良い者でも危険だと思うようなことを、日ごろあまり運動しないお嬢様達が多く、スポーツテストでも平均を下回るような子達にやらせて安全に出来るはずがない。
そこで安全対策として平均台の横にはセーフティマットを敷いて、万が一落下した場合の安全に配慮している……、はずだった。でも実際には当日にセーフティマットは用意されておらず落下した稲田海桐花は下敷きになり足を捻挫したという。
幸い大した高さじゃなかったから下敷きになったといっても骨折したとかそんなことはなかったらしい。打ち身くらいはあったようだけど、怪我といっても擦り傷、打ち身、捻挫くらいのもののようだ。ただ今回たまたま軽傷だったから良いという話ではない。
校長などの学園の責任者は会議や書類で『セーフティマットを用いて安全を確保する』と言われていたから許可を出した。
当時の体育の担当教師は生徒達に『セーフティマットを平均台の両側に置いて使うように』という指示は出した。でも生徒達がちゃんと設置したことを確認せずに他の生徒達の練習を見にその場を離れてしまった。
該当種目の選手だった生徒達はセーフティマットを用意するように指示されたけど、マットを運ぶのは重いし面倒だからこの程度の高さだったらいらないだろうとセーフティマットを用意しなかった。
今回の事故の流れはこんな感じであり、そしてこれは事故原因のあるあるの典型だ。
どれほど入念で万全な安全マニュアルを作っていたとしても、実際にそれが実施されていなければ何の意味もない。そして安全マニュアルが現場の実情に則していなければいないほどそれらが実施されることはない。
現場の実情をわかっていない者が机上の空論で安全対策を考えてもそれを実施しろというのは無理な話だ。安全対策の行動が面倒臭いからといって守っていないというのなら論外だけど、実際にはそんなやり方をしていては作業のしようがないというような安全対策が掲げられていることも多々ある。
そうなるといくら安全対策を守っていても仕事が出来ない。ならば多少安全対策を破ってでも作業をするしかないという結論に達してしまう。そしてそういうことをしているといつか事故が起こる。
事故が起こると責任者が責任を問われるので『今後はこのようなことが起こらないように安全対策を徹底し~』という定型文に繋がるわけだ。そしてさらに実施不可能、あるいはそんなことをしては作業が出来ないというようなガチガチな安全対策が出来てしまう。そうなるとまたその安全対策を破って……、という無限のスパイラルだ。
今回の場合は校長などが把握していた計画書通りに進んでいればそれほど危険はないものと判断された。だから校長や各責任者達も許可を出した。担当教師達も計画書に則って指示は出した。ただ出場選手達本人が指示を守らず安全対策を怠って練習を行ってしまった。
一見こうなると本人達の自業自得じゃないかと思える。でもそうはならない。何故担当教師はちゃんと監督していなかったのかという話になるし、校長達のような責任者というのはこういう時に責任を負うからこそ責任者となって相応の権限や給料を貰っている。
生徒や担当教師達が勝手にやったことです、で済ませられないのが責任者であり、そのために日ごろから役職手当などを貰い、指示を出す権限を与えられている。それを忘れて何かあっても担当者の責任だと責任逃れする責任者が増えているけどそれは嘆かわしいことだ。それなら何のために権限と相応の役職手当を与えられているのか。
とある事件では責任を負うべき上司が『部下が勝手にやったのに犯人に仕立て上げられて不当逮捕された!』とまるで悲劇のヒロインのように扱われたことがあった。しかし待って欲しい。確かに部下が勝手に上司の判子を使って違法行為を行っていたのならその犯罪に対して上司が罪を問われることはないのかもしれない。でも果たしてその上司には何の責任もなかったと言えるだろうか?
自分の判子の管理もまともに出来ておらず、部下が勝手に判子をついた書類が何の確認もなく上に通り執行されていたのだとすれば、その上司は一体何の仕事をしていたというのだろうか?
責任者とはその責任を負い、部下達を管理するために高い役職手当が支払われ、部下達を管理するための権限が与えられている。部下が勝手にやったことだから知りませんが通るのでは何のために高い役職手当を払い、権限を与えられ、管理者・責任者としてその場にいたというのだろうか。
日本の組織というのは往々にして責任者や管理者とはただ高い手当てを貰って仕事もせず、いざ何かがあっても責任を負わないためにいるような存在でしかない。
某事件の悲劇のヒロインのように扱われていた元上司は確かに部下が行った犯罪の責任を負うことはないかもしれない。しかし自分の判子もまともに管理出来ておらず、偽造された書類もザルのように通っていたのでは何の存在価値もなかったと自ら言っているに等しい。
それならば無罪でしたと喜ぶ前に、自分は無能で仕事をしていませんでしたと言って役職手当等を全て返還すべきだろう。何も悲劇のヒロインなどではない。本人の監督不行き届きとまともに仕事もしていなかったツケが回ってきたに過ぎない。
それはともかく今回の件は生徒達がちゃんと準備をしなかったのが直接の原因ではあるが、だからといって教師や校長の責任はなくならない。何故担当教師はそれを見届けなかったのかと言われる立場であり、それを徹底して守らせなかった校長の責任もなくならない。
ただ学園側の責任はなくならないだろうけど稲田家の発言にも無理がある。稲田家側の要求は学園が飲めないものだ。
「このような事故を起こしたんです!学園の責任者は全員解任!教師もクビにして入れ替えていただきます!学園行事も全て安全対策が徹底されるまで中止にしていただきます!今回の新種目の案を出したのは生徒会だそうですね!生徒会にも責任を取っていただきますから!」
「それは……」
「さすがにそこまで要求を飲むわけにはいきません」
他の教師達がオロオロしている中で校長だけきっぱりそう言い切った。今後の安全対策をしっかりやれと言うくらいならわかるけど、学園の首脳陣全員を解任しろだの、教師を入れ替えろだのは要求が過ぎる。それに他の生徒達が楽しみにしている体育祭を含めた学校行事全てを、今後無期限延期にするというのもやりすぎだろう。
もちろん親の気持ちというのはわからなくはない。治療費などは学園が払うことになっているけど稲田家側は別に慰謝料を払えとは言っていない。でもこの要求は慰謝料を払うよりも遥かに困難で悪質なものだ。もしかしてただ単に子供が怪我をしたことへの抗議だけじゃなくて、何か別の裏でもあるんじゃないかとすら思える。
「お子様が怪我をなされて心配なご両親のお気持ちも理解出来ます。ですがさすがにそれは要求が過ぎるというものでしょう」
「――ッ!?くっ、九条様は今回の件には関係ないはずです!いいえ、むしろ九条様も危険だったかもしれないのですよ!どうして学園を庇われるのですか!」
堪りかねた俺が声をかけると稲田母は一瞬怯んだ顔をしていた。でもすぐに持ち直してそう言ってきた。松本家の方は九条家侍のためか俺を見てオロオロしている。でも稲田海桐花の上に落ちたのは松本蕗の方だ。それを稲田家に言われているからか稲田家を止めるような素振りはない。
「今後は安全対策を徹底しこのようなことが二度と起こらないように……」
「そんな何の意味もない対策だけ作っても仕方がないでしょう!」
「「「…………」」」
稲田母にそう言われて教師達は黙った。それに関しては確かにその通りだ。企業などでも事故が起こるたびにこの定型文が使われる。そして現実に則さない机上の空論の安全対策が策定される。でもそんなことをしていては作業が出来ないので実際には現場ではそれは守られない。いや、守れないような対策なんだから当然そうなる。そしてまた事故が起こる……。
事故が起こるとまたマニュアルが増やされて、ガチガチに厳しくなり、そんな方法では作業が出来ないので適当に抜け道を使ってマニュアルが守られない。
稲田母の言う通り『安全対策の徹底』だの『今後このようなことが起こらないように新たな対策を設ける』だのはまったく意味がない。でもだからといって責任者全員の解任だの教師の入れ替えだのは厳しすぎる。その要求もまた現実に則さない。
「生徒会の解散!体育祭の中止!競技の見直し!責任者と担当教員のクビ!これくらいはしてもらわなければ引き下がれませんよ!」
「それは……」
「「…………」」
教師達も困った顔でお互いに顔を見合わせている。稲田家側との話し合いは平行線だ。このままじゃ本当に体育祭は中止、一部教師のクビくらいは起こり得る。
松本家を止めるのはそう難しくない。幸いにも?と言っていいかはわからないけど松本蕗は大した怪我はしていないし、そもそも稲田海桐花が落下したことで巻き込まれて一緒に落ちた。確かに海桐花の上に落ちてしまったがそれはどうしようもない。足を括られていて相手が先に落ちたのなら、引っ張られて一緒に落ちて相手の上に落ちるのは必然だ。
松本家は九条家侍だし九条家の威光を使えば抑えるのも難しくはないだろう。稲田家だって二条家侍なんだから二条家に言えば抑えてくれるだろう。でもそれじゃ問題の根本は解決されない。
稲田母の気持ちもある程度はわかるし言っていることが全て間違いというわけでもないのが厄介だ。説得しようにも聞く耳も持ってくれないし、稲田母が連れて来た他の家の親達も集団ヒステリーのようになっている。恐らく『お宅のお子さんも怪我をするかもしれない』とか言われて乗せられたんだろう。
力ずくで抑えるのは難しくないけどそれをすると表面的には収まったように見えてももっと碌でもない結末になると思う。どうやら俺の悪い予感は最悪の形で当たってしまったようだ。




