第五百八十六話「嗅ぎ比べ」
今日は椛と凄いことをしてしまった。俺が臭いわけではなくフェロモンを振り撒いているということを証明するために、むき出しになった椛の腋が俺の顔に押し付けられたんだ……。
俺は前世で童貞じゃなかったのでもちろん知っているけど、女性というのが良い匂いというのは嘘だ。女性だって汗をかけば臭いし、体臭がきつい人だっている。女性が良い匂いだと思うのは石鹸やシャンプー、香水などで匂いをつけているからであり、生まれ持って体臭が良い匂いの人間なんてものは存在しない。
椛だって一日仕事をしていれば汗も掻くし、色々と臭いがしてしまう。そう思っていた。
でも違う。いや、違わないんだけど違う。確かに汗の臭いとか蒸れた臭いはするけどそれだけじゃないというべきか。甘い匂いだの、香水のような良い匂いだのというのはしないけど、でも……、確かに女性らしい何か癖になるような匂いを感じた。つまりあれが女性が放つフェロモンのようなものなのだろう。
花とか香水みたいな良い匂いじゃないし、石鹸やシャンプーのような匂いとも違う。汗の臭いなどに混じっていてフローラルな香りじゃないけど、でも確かに癖になるような何とも言えない惹き付けられる匂いだった。
俺の事例みたいに椛のフェロモンを嗅いだからってすぐに気絶するようなことはなかったけど……、それでも俺も腰が砕けて立てなくなるような、そんな感覚を味わった。実際椛に腋を押し付けられてから柚が探しに来てくれるまで俺はソファに倒れたまま動くことも出来なかった。
そして……、今夜は眠れない……。
椛の腋を押し付けられてフェロモンを嗅がされたせいか、ソワソワというか……、ムラムラというか……、そういう感じがして眠ろうと思っても寝付けない。これが椛の言うフェロモンの効果で、俺はもっとこれよりも強烈なフェロモンを放っているのだとすればこれまでの奇怪な現象もわからないでもない。
完全に納得出来たわけじゃない。それに椛のフェロモンでは気を失うようなことはなかった。それなのに俺のフェロモンは気を失うほど強烈だと言われても完全には納得出来ないけど、フェロモンというのが人に大きな影響を与えるということだけは実感出来た。実際俺は今まったく寝付けない。
「うぅ~~~ん……」
何度目になるかわからない寝返りを打つ。このままじゃ気が昂ぶって眠れない……。明日も百地流の朝練があるのにこのままじゃ寝不足になってしまう。
「どうにかこの気持ちを発散しなくては眠れません……」
モソモソと布団の中で動く。体が火照って熱いので布団から手足を出して間に挟む。
「んっ!」
ピクンと体が反応してしまった。
「もみ……、じぃ……。んっ……、んんっ!」
椛に押し付けられた腋を思い出しながらゆさゆさと体を揺する。
「んぁっ!」
足が勝手にピンと張り、背中が仰け反る。
「はぁ……、はぁ……。ん……、椛……」
暫くすると俺はいつの間にか眠りに落ちていたのだった。
~~~~~~~
「はぁぁぁ~~~~~っ…………」
朝起きて、百地流の朝練に行って、家に帰ってきた。でも今日の朝練では師匠に怒られまくった。寝不足でとか、ムラムラしていて集中出来なかったわけじゃない。ただ昨晩椛の腋を思い出してあんなことをしてしまった自分に嫌悪感が湧いてくる。
椛は俺にフェロモンのことを教えるために恥ずかしいのを我慢してあんなことをしてくれたというのに、椛の善意を踏み躙って俺は最低な奴だ……。でもさらに俺が自分に嫌悪感が湧く理由は、そう思っていながらさらにまたあんなことがあればいいなと思ってしまっているからだ。
椛が恥もプライドも捨てて体を張ってあんなことをしてくれたというのに、それがラッキーだったとか、また同じことにならないかなと期待している。本当に俺は最低な奴だ。そう思うのにアレを望むのをやめられない。
…………いや、待てよ?もしかして……。
これが……、これが椛の言っていたフェロモンの虜になるというやつか?
そうだ……。他の皆もフェロモンを一度でも味わってしまったらまたそれを望むようになってしまうと言っていた。つまりこれは普通の反応なんだ。確かに恥ずかしいとか自己嫌悪はあるけどそれでも求めてしまう。皆そうなんだ。そして最初にそれを自覚するのが思春期というわけだな。
これは何もおかしくないし、思春期なら普通のことなんだ!俺は普通なんだ。変態なんかじゃない!
「咲耶お嬢様、シーツを替えに参りました」
「柚……」
柚が新しいシーツを持って部屋にやってきた。そんなことくらい俺が朝練に行っている間に済ませておけば良いのにとは思うけど今日は止むを得ない。本当なら朝練はもっと長いはずだったのに、今日は師匠に叱られてもう帰れと言われてしまった。予定より早く帰っているから柚の予定も狂ってしまったんだろう。それよりも……。
「…………」
「……」
柚が新しいシーツを持ってベッドに向かって歩いているのを目で追ってしまう。柚も視線は感じているのかもしれないけど、口元を上げて笑顔を作りながら黙ってベッドへと向かっている。
「柚……」
「え……?きゃっ!」
シーツを取り替えようとした柚を後ろからベッドに押し倒した。気持ちがソワソワして落ち着かない。女性のフェロモンを求めて体が勝手に動いてしまう。
「さっ、咲耶お嬢様……?」
「ねぇ柚……、少しだけ……、少しだけ柚のフェロモンを嗅がせてちょうだい。ね?いいでしょう?これは確かめなければならないことなのよ。ね?だから協力して?」
押し倒した柚の夏服を少しだけはだけさせる。夏服は薄くて脱がせやすくて腋を出させやすい。スルスルと剥いていくと柚の腋がすぐに顕わになった。
「咲耶お嬢様っ!?わっ、私食べられちゃうんですか!?ついに咲耶お嬢様に食べられてしまうんですねぇ~~~っ!でも……、でもこんな……、急にだなんて……、まだ心の準備が……」
「大丈夫よ柚。少し……、少しだけだから……。ね?だから終わるまで少し大人しくしていて……」
俺はもう確かめずにはいられない。これはただ本当にフェロモンにそんな効果があるのか確かめるだけだから!ちょっと腋の匂いを嗅いでフェロモンを確かめるだけだから!
「柚っ!柚っ!」
「あっ!あっ!あぁ~~~っ!咲耶お嬢様ぁ~~~っ!」
ついに俺はむき出しにされた柚の腋に顔を突っ込んで……。
「何をされておられるのですか!咲耶様!」
「「あっ……」」
「なっ!?」
もう少しという所でババーンッ!と扉を蹴破って椛が部屋に踏み込んできた。痴態を見られて俺と柚が固まる。しかし椛の方は固まるどころか即座に反応していた。
「どういうことですか咲耶様!私という者がありながら何故柚とこのようなことをなさっておられるのです!」
「いや、あの……、椛……」
「椛師匠、これは違うんです。これは……」
「柚は黙ってなさい!これは咲耶様と私の問題です!」
何か言わなければと思うけどうまく言葉が出てこない。そんな俺を柚が庇おうとしてくれたようだけど椛は柚の言葉を一蹴した。それには柚もカチンと来たようだ。普段アワアワ言ってる柚の表情がクワッ!と厳しいものになった。
「何が『これは咲耶様と私の問題です』ですか!そもそも咲耶お嬢様が誰と何をしていても椛師匠にはとやかく言う権利なんてないでしょう!」
「なっ!?何ですって!柚!良い度胸ですね!」
「何ですか!本当のことでしょう!」
「咲耶様と私は特別な絆で結ばれた主従なのです!私には咲耶様の女性関係について口を出す権利があります!」
いや、俺の女性関係について椛が口を挟む権利はないと思うけど……。夫婦や、せめて恋人同士だというのならあるかもしれないけど、俺と椛は今のところ何でもないし……。
「今の状況を見ればおわかりでしょう?咲耶お嬢様は私を選んでくれたんです!だから椛師匠はそこで指を咥えて見ていてください!」
「違います!咲耶様の初体験は私がいただいたんです!これは少し他も味見してみたくなった咲耶様のお手つきなだけです!」
「二人とも落ち着いて……」
「「咲耶(お嬢)様は黙っていてください!」」
「あっ、はい……」
何とか二人を宥めようと思ったけど両方からそう言われてしまった。これはもうお手上げだ。俺にはどうしようもない。あとはもうなるようになぁれ。
「咲耶お嬢様は私を選んでくれたんですから!さぁ!続きをしましょう!」
「むぎゅぅ……」
一度顔を上げていた俺を下にいる柚が抱き寄せた。少し剥かれている体に俺の顔が押し付けられる。
「ふんっ!咲耶様は昨日私と『した』ことで目覚めてしまったんです!その私を求めるあまり目の前にいた柚に手を出してしまっただけです!咲耶様は本当は私と昨日の続きがしたかったのですよね?さぁ!咲耶様!昨日の続きをしましょう!」
「むぐぐっ……」
スルスルと服をはだけさせた椛が後ろから乗っかってきた。確かに昨日椛としてしまったからフェロモンの虜になって……、じゃない!違う!別に椛でフェロモンを知ってしまったから誰でもいいからとにかくフェロモンを嗅ぎたかったとかいうわけじゃないし?柚のフェロモンはどうなのかなぁ?っていう純粋な疑問と今後のための確認をしたかっただけだし?
でも現状の俺は前門の柚、後門の椛に挟まれて身動きが取れない。逃げることも出来ないし二人を相手にどうにか出来るとも思えない。このままじゃ俺は二人に挟まれて腋で窒息してしまう。
…………ん?でもそれでもいいのか?
俺はただ純粋に柚と椛のフェロモンを比べてみたかっただけなのだ。そして今後の対策のために参考にしようと思っているに過ぎない。だからこれは何もやましいことじゃない。そして柚も椛も望んで協力してくれるというのだから俺はただ二人の腋を堪能してフェロモンを比べれば良いのではないか?
そうだよ。何もやましいことはないんだ。変なことをしているわけでもない。今後の俺のフェロモンの対策のために仕方なくこうしているに過ぎない。そうだよ!だからこれは悪いことじゃないんだ!
「さぁ!咲耶お嬢様!」
「咲耶様!」
「ふおぉ~~~っ!」
柚と椛の腋が迫ってくる。むほほっ!このまま二人に挟まれて……。
「咲耶、廊下にまで騒がしい声が聞こえていますよ。何の騒ぎで……」
「「「あっ……」」」
「…………」
その時無慈悲にも部屋の扉が開かれた。顔を覗かせたのは先日と同じ母だ。こっちを見ている母の目はとても冷たい。これはヤバイ。そう思ったが母は鬼の表情をすることもなければ声を荒げることもなかった。
「椛と柚を咲耶付きから外します」
「「「ひぃぃっ!」」」
ただ静かにそう言った声は滅茶苦茶怖かった。無表情で声も荒げていないというのにその迫力は怒鳴っている時の比ではない。これは本格的にヤバイ。マジギレだ……。
「おっ、お待ちください奥様!」
「あっ!奥様!これにはワケがっ!」
そのまま去って行こうとしている母を柚と椛が止めた。よくあれだけマジギレしてる母に話しかけられるものだ。俺だったら怖くてそのまま見送っていた。
「この行いにどのような理由があるというのです?それが納得出来るものだというのなら聞いてあげましょう」
「「「ヒィッ!?」」」
立ち止まって振り返った母の迫力は本当に恐ろしいものだった。近衛母も圧力や迫力はあるけど、これまで俺は近衛母に本気で怒られたことはない。だからいくら怖いと言ってもそれなりのものだった。でも今の母は違う。下手なことを言ったら本当に殺されるのではないかと思えるほどに怖い。でも事情を説明しないわけにはいかない。
俺と柚と椛は三人で何とか母に事情を説明したのだった。
~~~~~~~
「はぁ……。また咲耶の妄想のせいですか……。ですから以前も咲耶がそういった体臭を放っているわけではないと説明したでしょう?」
「はい……」
確かに以前はそれで納得した。もし俺がワキガなどの病気だったら母なら絶対に治療させている。それは今でも納得しているけど、それでもやっぱり集団昏倒事件や紫苑の気絶があったばかりだし俺に何か原因があるのだろうと思ってしまうのは当然だろう。
「それで椛や柚のフェロモン?を嗅いで確かめるなどと……、一体どういう発想をしていればそのようなことを考えるのですか……」
母は深々と『はぁ~~~』と長い溜息を吐いた。でも溜息を吐きたいのはこちらも同じだ。
「とにかく咲耶が臭くて周囲が気絶するなどということはありません。今回だけは目を瞑ります。ですが金輪際同じ話を蒸し返すのではありませんよ?」
「はぁい……」
呆れた母が何とかそれで許してくれた。そりゃ同じ女性として『自分の体臭が臭いかも?』なんて悩んでいると聞いたら怒るに怒れないだろう。母だって女性だし自分の体臭とかは気になるはずだ……?
…………え?
おいっ!待て!待て待て待て!俺は今何を考えていた?『同じ女性として』だと?俺はいつから『女性』になったんだよ!俺は男だろ!
「ヒッ!」
「どうしました?咲耶?」
「咲耶様?」
急に血の気が引いた俺は自分の体を抱くように腕を掴んだ。俺……、俺は……、男……。




