第五百六十一話「突然……」
パーティーを終えた翌日、日曜日……。
「う~~~ん……」
何か今日は朝から調子が良くない……。モソモソとベッドから下りるけどどうにもやる気が出ないというか、気だるいというか……。
「おはようございます咲耶様」
「おはよう椛……」
椛が用意してくれた着替えを見て一瞬固まった。着替えの一番上に置かれているのは下着だ。可愛い女の子向けのおぱんちゅではなく黒いパンティーが置かれている。
男は女性の黒い下着をセクシーだと思ったり、誘惑するつもりで着ていると受け取ったりする。でも女性側からするとそんなつもりはない。女性の保有下着の色ナンバーワンはピンク、そしてナンバーツーが何と黒なのだ。女性にとっては黒い下着は日常的に使う普通のもの、いや、使い勝手が良いものとすら言える。
まず黒い下着の使い勝手の良さだが、例えばブラ紐が見えそうな服のコーディネートの際に黒い肩紐だと見えても自然に見せることが出来る。ピンクの下着が見えていると『見えてはいけないものが見えてしまっている感』が凄いけど、あからさまな黒い肩紐だと『見えても良いように見せている感』が出せる。
それから黒だと組み合わせが非常に楽だ。ブラとパンツがセットのものなら良いけど別々のものを着用することも多い。場合によってはブラだけホックが壊れたからパンツだけ残ったとか、パンツだけ捨てたけどブラは使えるから残しているなんて場合もあるだろう。
上下お揃いの物ならばお揃いを着用すればいいけど、そういった別々の物を組み合わせる際に黒だと色々な物に合わせやすい。組み合わせを考えるのが面倒だから……、とまでは言わないけど、汎用性の高さで言えば黒は使いやすい色なのだ。
さらに黒は日ごろの汚れが目立ちにくい。詳しく言うのは憚られるけど下着なんだから汚れるのが仕事なわけで、その汚れが目立ちにくい黒というのは非常に重宝する。重宝するんだけど……、汚れにも種類というものがある。
一見黒だったら『あの汚れ』にも強そうに思うかもしれない。でも違う。おりものの汚れは黒いと思いのほか目立つ。黒いシャツを着ているのは血の汚れが目立たないからだ……、なんていう不良さんも居たけどおりものは別だ。おりものの汚れは黒い下着では目立ってしまう。
何故急にそんなことを言い始めたのかと言うと、もちろん今日椛が用意してくれていた下着が黒だったからなんだけどそれだけじゃない。俺……、そろそろ始まりそうだ……。
「椛……、折角用意してもらった着替えですが……、私は近々始まりそうです……。念のために違う色でお願いします」
「そっ……、それは申し訳ありません!もう少し先かと思っておりました!すぐに替えをお持ちいたします!」
椛はこの世の終わりのような顔をして慌てて出て行った。何もそんな顔をしなくてもと思うけど……。
俺は昨晩のパーティーでやたら伊吹や槐にイラついていた。それは二人がむかつく奴だから……、だけではないと思う。もちろんそれは否定しないけどそれだけで俺が二人に対してあそこまで攻撃的になるのはおかしい。その理由がようやくわかった。俺はそろそろ『アレ』が始まろうとしている。
『アレ』が始まる前はイライラしたり、精神的に不安定になったり、色々と症状が出てくる。ただイライラは本当なら始まる少し前までの間の話であってイライラしたままいきなり始まることはそうないはずだ。でもな~んかそろそろ始まりそうで体調が良くない。
「申し訳ありませんでした咲耶様!主の周期も把握していないなどメイドとして失格です!」
「椛はオーバーですね……。別に責めたりはしませんよ。それに本来の周期ならあと数日先だと思うのは当然です。私もそう思っていましたが何だか今日の感じからすると近いうちに突然始まりそうなので、念のために下着の色を注意してもらおうと思っただけなのですよ」
慌てて戻ってきた椛が顔面蒼白になって頭を下げている。何でそんなにこの世の終わりみたいな顔をしているのかわからないけど椛は悪くない。俺の本来の周期から考えればあと数日先だろうと思うはずだ。実際俺もそう思っていたしこれまでのパターンからするとそうなるはずだった。でも何か今日の調子からすると急に始まるかもな?と少し思っただけだ。
俺が勝手にそう思っただけで実際にそうなるとも限らないし、用心するに越したことはないから注意しておいて欲しいと椛にも伝えただけだ。もしかしたらこのまま何事もなく周期通りに始まるかもしれないし、俺の予感が当たって急に始まるかもしれない。
「思春期や更年期は周期が乱れたりすることも多いですし、私は自分の体調なので気になっただけで他の人には言わないとわからないことでしょう?」
「いいえ!もっと私が咲耶様のことをちゃんと見ていれば気付けたはずなのです!私が最初に気付かなければならなかったことのはずなのです!それなのに……」
何か椛が今にも泣きそうだ。こんな椛は珍しい。いつもは澄ました顔で完璧に全てをこなしてしまう凄腕のメイドさんは、こんなちょっとしたことで挫折を味わってしまうのかもしれない。俺みたいに女の子初心者だったら多少失敗してしまっても『あ~ぁ』で済むんだけど……。
「突然始まって下着を駄目にしてしまう前に気付けてよかったと思うことにしましょう?」
「いいえ!それはむしろ残念です!咲耶様は日ごろ完璧におりものシートをご利用なさるので中々下着を汚してくださらず……。貴重な咲耶様の汚された下着というのが中々手に入らないのです!今回も突然始まるかもしれないからと予防的にシートを使われるようですし、いつになったら咲耶様が汚された下着が手に入るのですか!」
「えっと……、椛?」
「あっ……」
「…………」
「…………」
何か拳を握り締めて熱弁していた椛はようやく我に帰ったようだ。変な顔をしたまま固まってしまった。何か俺が粗相をしたら笑いものにしようと待ってるのに俺が中々粗相をしないから笑いものに出来ない、みたいなことを言ってなかったか?
「ええ……。まぁ……、私は『予防的』におりものシートやナプキンをたくさん使っていますからね?失敗や粗相はそうしませんよ?ええ。残念でしたね?」
初めての時は急にあんなことになって失敗してしまったけど、それ以来俺はナプキンを惜しみなく使うようになった。そろそろ始まりそうだと思ったらまだ始まってなくてもバンバン使う。だから俺が下着を汚すことは滅多にない。多少溢れてしまうことはあるけどそれはどうしようもない話だ。特に寝てる時とかね……。
でもそれ以外では俺はあまり汚さなくなった。椛は粗相をした俺を笑いたいみたいだけどそんな粗相なんてしてやらない!そういう強い意思を椛に示す!
「いや……、あにょ……、そにょ……、えっと……」
しどろもどろになった椛が人差し指同士をちょんちょんとくっつけたり離したりしながら口篭っていた。主人が粗相したら笑いものにしようだなんてとんだメイドもいたものだ。今日は一日椛と口をきいてあげないんだから!
「つーん……」
「あぅ……。咲耶様ぁ……」
何か椛が情けない声を出しているけど、俺はそっぽを向いたまま一人で着替えて百地流の朝練へと向かったのだった。
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結局昨日はあれ以来椛と口をきくことはなかった。必要最低限の事務的な会話はするけどそれ以外は口をきいてあげていない。でもさすがに椛もそろそろ反省したことだろう。学園へと向かう車の中で後部座席に座って俺の準備をしている椛に声をかけてあげよう。
「椛、ごめんなさい。少し大人気なかったわね。もしかしたらこれも『アレ』が始まる前で少し気が立っていたのかもしれないわ。私はもう気にしていないから……」
「えっ!?許してくださるのですか!?」
俺が声をかけると椛は食い気味に迫ってきた。そりゃ女性にとってはおりもので下着を汚してしまうことなんて宿命のようなものだ。それを笑いものにしようと思って待っていたなんてメイドというか人間としてどうかとは思うけど、いつまでも怒っているようなことじゃない。
「そのようなことでいつまでも椛とお話し出来ないのは寂しいですからね」
「下着を盗もうとしていたことを『そのようなこと』でお許しくださるなんて!それではこれからは自由に咲耶様の使用済み下着をいただいてもよろしいのですね?」
「え?」
「……え?」
ん?椛?今何て言った?
「あっ!ちゃいます!違います!間違いです!お許しいただけるなんてありがとうございます!それでは誠心誠意朝の用意をさせていただきますね!」
「え?今椛……」
「さぁ!それでは気合を入れていきましょう!」
「えっと……」
その後俺がさっきの言葉を何度聞き返そうとしても全て椛に遮られて阻止されてしまった。そんなことをしている間に車は学園のロータリーへと到着してしまった。
「いってらっしゃいませ咲耶様」
「いってらっしゃいませ咲耶お嬢様」
「それではいってまいります、椛、柚」
二人に見送られてロータリーで車を降りて玄関口へと向かう。もうコンサートから何週間も経っているしいい加減皆も落ち着いたかと思いきや……。
「きゃー!九条様よー!」
「あぁん!咲耶お姉様素敵ぃ!」
「おはようございます、九条様ぁ!」
「御機嫌よう、皆さん」
「「「はぅ~ん!」」」
俺が挨拶をすると何人かの女の子がフラッと倒れた。大丈夫かな?段々暑くなってきてるし熱中症とかじゃないといいけど……。周りの子達が支えて後ろに連れていっているから任せよう。俺が下手に関わると大丈夫だったことも大事になってしまう可能性が高い。いつものことだから周りの子に任せておけば大丈夫なはずだ。
「御機嫌よう」
「御機嫌よう、九条様」
「九条様おはようございます」
教室に入っても皆から挨拶されて大変だ。確かに無視されるよりは良いんだけど、いちいち全員と挨拶をするというのも疲れる。これは贅沢な悩みだということはわかっているけど、人間、自分の環境に合わせて贅沢な悩みを口にするものだ。
初等科のある頃は皆から無視されていて、ようやく芹ちゃんだけ挨拶を返してくれるようになってどれほど救われたことか。それなのに今は皆が挨拶をしてくれるのが面倒に感じているなんて本当に自分勝手な悩みだと思う。
「御機嫌よう」
「おはようございます咲耶様!」
「咲耶ちゃん御機嫌よう」
クラスメイト達を抜けて自分の席へと近づくとグループの皆が来ていた。先週末は九条家のパーティーがあったから皆早く来て集まっているだろうと思ったけどその通りだったようだ。
「先週のパーティー楽しかったですね!」
「何でもねー……、謎の美少女ご令嬢が現れたらしいよー!」
「…………」
「ぷっ……」
「あはっ!」
「「「「「あはははっ!」」」」」
皆が一斉にドッと笑った。そりゃ笑いたくもなるだろう。何しろその『謎の美少女ご令嬢』って錦織のことだし!
椛に飲み物を引っ掛けられてから控え室に連れ出された錦織は桜と椛によって『柳ちゃん』へと変身させられたらしい。女装して『柳ちゃん』、いや、『柳お嬢様』として変身した錦織は桜に連れられてパーティー会場を練り歩いた。
仮面舞踏会なのに仮面もつけず、見慣れないご令嬢が歩いていたらそれだけでも会場中の注目の的だ。一部の学園生達は『柳お嬢様』の正体に気付いたかもしれない。でも途中から仮面をつけていた『柳お嬢様』は一体何者なのかと事情を知らない大人達から大変注目されていた。
しかもそれが『美少女』として広まっていたのだ!これが笑わずにいられるだろうか?いや、いられるはずがない!ぶはははっ!
「ふふっ。それにしても桜も酷いことをしますね」
「「「え……?」」」
「ん?」
桜が錦織を晒し者にしようと思って柳お嬢様に女装させて連れ回したのだろう。それにしても同属嫌悪なのか何なのか知らないけど酷いことをするものだ。そう言ったら皆が不思議そうな顔をして俺を見ていた。
「いや、あれは咲耶様のご指示ですよね?」
「挨拶の時に二条様に指示されてましたよね?」
「え?いえ……、私は何もあのようなことをするようになどと言っておりませんよ?」
薊ちゃんや皐月ちゃんは挨拶の順番が桜と近いから、俺が桜と話していた時に何か命令したと思っていたようだ。でも俺はあんな錦織を晒し者にするようなことをするようになんて言ってない。俺はそこまで酷くないぞ。
「二条様も咲耶ちゃんに言われた通りにしたと言われていましたけど……」
「なっ!?」
なぁんだってぇ!桜の野郎!自分で勝手に錦織を晒し者にしておいて、その責任は全て俺に擦り付けるつもりか!俺は悪役令嬢補正があるからそんな噂を流されたら皆簡単に信じちゃうだろ!
「そんなことっ!……あ」
「「「え?」」」
自分の席に座りながら力んだ瞬間……、きてしまった。これは確実に出ましたわ……。やらかしましたわ……。周期通りなら明後日か明々後日くらいのはずだったのに……。
「咲耶ちゃん?」
「どうかされましたか?」
「あ~……、え~……、『アレ』が始まってしまったので少しお化粧室へ行ってまいります……」
幸いここの所始まりそうだと思っておりものシートを常用していたお陰で大惨事にはなっていない。ただ所詮おりものシートはおりものシートだ。急いでナプキンと取り替えないと折角突然始まった第一波を防いだというのに台無しになってしまう。これは『決して走らず 急いで歩いてきて そして早く取り替えて』と言われているに違いない。
「えっ!?だっ、大丈夫なのですか!?」
「すぐに付き添いと着替えを……」
「いえ、大丈夫です。そろそろきそうだと思って備えていましたので大惨事は回避できました……。ただ取り替えてきますので……」
しつこく同行しようとしてくる皆を何とか説得して、俺は零れてしまわないように焦らず、走らず、しかし急いでお化粧室へと向かったのだった。




