第五百三十五話「春のマナー講習」
学園が春休みに入って間もなく、九条グループのとある巨大施設に続々と人が集まってきていた。その入り口には九条家のご令嬢、九条咲耶様が立ちやってきた人々を出迎えていた。
「御機嫌よう、芹ちゃん」
「おはようございます、咲耶ちゃん」
その巨大施設……、新年度に開かれる九条家のパーティーのためのマナー講習会場へとやってきた樋口芹は、憧れの人である九条咲耶に出迎えられてうれしそうに応えた。
咲耶様は芹のことを他のご友人の方々と変わらないように扱ってくれる。しかし他のご友人の方々は最低でも堂上家の方ばかりだ。芹のような地下家の者が堂上家の方々を相手に気安くして良いはずがない。ましてや五北家である九条家のご令嬢とお友達だと言うだけでも恐れ多い。
しかし咲耶様はそのようなことは一切気にされず、本当に他のご友人の方々と変わらないように接してくださる。その御心遣いに芹はいつも感謝していた。そして……、咲耶様が自分をそのように扱ってくださるのならば無様な姿をお見せするわけにはいかない。
地下家の樋口家の娘だから、所詮は地下家だから、などと言われては咲耶様の評判まで落としてしまう。咲耶様ほどのお方ならばその周囲に傅く者達の行いや所作の一つ一つまで敵対者に責められる。だから芹は自分が憧れの咲耶様の足を引っ張ってしまわないようにとにかく必死だった。
それまでは他の地下家と同じような並程度にしか習っていなかったマナーも熱心に習い、学園の勉強にも励んだ。他にもグループで何かある度に全て全身全霊をかけてとにかく必死で身につけてきた。
咲耶様はどんなことでも軽く完璧にこなされてしまう。コンサートの練習で集まっても、今まで触ったことがないという楽器でも少し練習されたらすぐに出来るようになっていた。学園の勉強では常に満点を取り、マナーや作法で失敗している所を見たことがない。
容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰、ありとあらゆる褒め言葉全てに当てはまるのではないかとすら思える。スポーツ万能で、一見見た目は華やかにも見えるがその実、質実剛健であり本人は無理に飾らず至ってシンプルにされている。
ありとあらゆることにおいて、ありとあらゆる者を超越している。世間が咲耶様のことを『完璧女帝』と呼ぶのも頷ける話だった。そんな咲耶様の足を引っ張ってしまわないように、少しでも何かお役に立てるように、他のご令嬢の方々も陰で常に努力されている。
表向きはちょっとふざけているようにも思える徳大寺薊様でさえも、裏では常に努力され咲耶様のお役に立とうと必死だった。グループの者達はお互いにお互いの努力を良く知っている。
これまで学園の成績があまり良くなかった方々も決して遊んでいたわけではない。勉強する時間も惜しんで他のことに努力されていただけだ。しかし最近は咲耶様がその勉強も見てくださることになって全員の成績があっという間に上がってしまった。
自分達ではもうこれ以上どうしようもないほどに努力していたつもりだった。それなのにその隙間時間を少し咲耶様に使っていただいただけでこれほど劇的に変わってしまったのだ。咲耶様はあらゆることに超越されている天上人、いや、天使、いやいや、女神、あるいは現人神なのかもしれない。
そんな咲耶様についていけるように、芹は毎年このマナー講習にも参加していた。咲耶様は芹は十分出来ていると言ってくださっているがとんでもない。咲耶様の近くに座って食事をしているとそのマナーや所作の出来の違いに絶望しそうになるほどだ。
「今年こそはきちんとマナーを身につけますね!」
「ふふっ。気合が入っていますね。ですが芹ちゃんはもう十分出来ていますからもっと上のコースを受講しても良いと思いますよ」
憧れの咲耶様がそういってくださるのは素直にうれしい。しかしそれを真に受ける芹ではない。目の前に世界最高のお手本があるのだから、そのお手本に少しでも近づけるようにこれからも努力していこうと、気合を入れて会場へと入っていったのだった。
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「おはようっす!咲耶たん!」
「御機嫌よう、杏さん」
杏は出迎えに立っていた咲耶の姿を見つけて子犬のように駆け寄っていった。今年度で中等科を卒業してしまった杏はこれから咲耶と会える機会は激減してしまうだろう。それを思うと残念な気持ちになってくる。しかし杏はそんな様子など微塵も出さずに元気な姿を心がける。
「今年もマナー講習で出るおいしい昼食を期待しておくっす!」
「まぁ!ふふっ、杏さんったら」
杏が必死で冗談を言うと咲耶はコロコロと笑ってくれた。それを見るだけで杏の胸に幸せな気持ちがこみ上げてくる。
地下家の今大路家である自分と、五北家である九条家の咲耶ではその身分に大きな隔たりがある。咲耶が気さくな性格だからこそこのような態度や言葉遣いが許されているが、これが他の堂上家が相手だったならば大変なことになっているだろう。
だからこそ杏はあえておちゃらけた態度を取り続ける。それが自分にこんな態度や言葉遣いを許してくれている咲耶への恩返しなのだ。
本来ならば友人関係にすらなれない雲の上の人なのだ。ましてや懸想などして良い相手ではない。しかしそれを受け入れ、許してくださっている咲耶様のお気持ちに応えるために、杏は今日もわざと咲耶様の望まれるおちゃらけた道化を演じて応えていた。
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九条家の迎えの車から降りた三人は開いた口が塞がらなかった。
「…………え?ここ?」
「……ん」
「そのはず……、です……」
鬼灯、鈴蘭、花梨の三人組はマナー講習の会場まで向かう足がないということで九条家の迎えが来ていた。藤寮で三人が待ち合わせをして、揃った所で九条家の迎えの車に乗ってここまでやってきた。九条家の豪華すぎるリムジンにも何度も乗り、ようやく慣れてきたと思ったらこれだ。
「……これも九条家が所有する施設なわけ?」
「九条家というよりは九条グループの会社の施設のようです」
「……ん。それは結局九条家の所有と変わらない」
「それは……、まぁ……、そうですね……」
目の前に聳える巨大施設は都会のど真ん中にあるとは思えない広さだった。そしてただ広いだけではない。あらゆる施設や公園が整備されている。テニスコートやサッカー場、グラウンドなどあらゆる競技全てに対応していると言っても過言ではない。
実際には常設されていない競技用の設備もあるが、それでもその競技をすることが決まれば短時間のうちにそのための設備が整えられる。とあるドームがサッカー場と野球グラウンドをすぐに入れ替え出来るように、ここの施設も用途によってすぐに入れ替えや整備可能なようになっている。
「まぁ!御機嫌よう、鬼灯さん、鈴蘭さん、花梨。来てくれてうれしいわ」
「「「…………」」」
いくら春とはいえ紫外線は降り注ぎ日焼けもしてしまう。それなのに入り口の前にはこの世のものとは思えない美しいご令嬢が立っていた。春の朝とはいえ日差しの中をこのご令嬢は参加者を出迎えているのだ。
ただその出迎えに驚いたことよりも、目の前に立っているご令嬢の美しさに目を奪われて三人はしばし呆けていた。
「あっ……、おっ、おはよう、咲耶っち」
「……ん。おはよう咲にゃん」
「おはようございます、九条様」
少し呆けてから三人はようやく我に返って挨拶を返した。にっこり笑ってくれている美少女に鬼灯は抱きつきたい衝動を抑えるのに必死だった。
「そろそろ時間ですからこのまま皆さんと一緒に中へ入りましょう」
「そうかい?案内してくれると助かるよ」
鬼灯の言葉に偽りはない。こんな広い施設に案内がなければ迷子になる自信がある。案内板や人は配置されているがうっかり変な所に入り込めば、この広い施設内を一日中迷子になれるだろう。
ホールのような場所に通された鬼灯達はそこで大勢の受講者と一緒になった。まさかこれほど受講者がいる本格的なものだとは思っていなかった。咲耶の説明ではもっと簡単なマナーの確認をする集まりのようなイメージだったのだ。
「咲耶っちはもっと簡単なものだって言ってたのに……」
「……ん。これなら日ごろ習ってる作法教室より本格的」
「あはは……。まぁ九条様ですから……」
三人は咲耶に騙された気分になり、今後は二度と咲耶が言う『お手軽』とか『簡単な』とか『小規模の』という言葉は信用しないことにした。咲耶が思う『簡単』で『お手軽』で『小規模』というのは、地下家が全財産を懸けて、全力で取り組んで用意した物の何十倍も凄い規模だということはわかった。
咲耶に悪気はないだろう。咲耶本人は本気でそう思っているのだ。これなら小規模でお手軽で簡単なものだと……。ただその感性は致命的なまでに一般人とはズレている。一般人が『一生に一度の最大規模』と思っているものが、咲耶にとっては『ちょっとした催し』程度に感じられるのだ。
咲耶は悪くない。ただお互いの認識や感覚が致命的なまでにズレているに過ぎない。しかしもう二度と咲耶の言うそういった言葉は素直に受け取ってはいけないと三人は深く記憶に刻み込んだ。
「それでは各テーブル毎に実践していきましょう」
「「「はい」」」
壇上で咲耶が挨拶をし、続いてパーティーで必要なマナーについて大まかな説明がされた。何日の講習でどの部分をするかが説明されたので、自信のある所の日は来ないとか、自信がない部分をする日は来るなどは各参加者がそれを見ながら決めれば良い。
芹のように少しでも上を目指すために全てに参加する者もいれば、他の受講者達のように自分の必要な部分だけ集中して受ける者まで様々だ。
そうして全体への説明が終わると壇上から下りてきた咲耶が初心者向けのコースを受講している者達のテーブルへとやってきた。あちこちのテーブルをチラッと見ては二、三言、助言をしていく。ただその言われたアドバイスを実践するだけであちこちの人のマナーが目に見えて改善していた。
「咲耶っち!」
「どうかされましたか?」
鬼灯が呼ぶと咲耶はそのテーブルにやってきた。このテーブルは四組の三人に加えて芹と杏も一緒だった。皆顔見知りで学園の食堂でも一緒だった。それならばと全員が集まって一つのテーブルになったのだ。
「私ってさぁ、この通りがさつじゃん?だからちょっと自信がないっていうか……」
鬼灯も鈴蘭も花梨も地下家として最低限の教養は身につけている。しかし同じ地下家でもピンキリであり、特に鬼灯や鈴蘭はマナーに自信がなかった。一応実家の方でも色々と作法などは習ったがとても出来てるとは言い難い。
「ん~……。何も難しく考えることはありませんよ。マナーや作法というのは一言で言えば気遣いです。相手が不快にならないようにお互いに気配り、配慮をしましょうというものがマナーや作法と言われているものなのですよ」
「はぁ……?」
「……ん?」
鬼灯も鈴蘭も首を傾げる。それはそうだろうがそのマナーのルールや決まりが多すぎて覚えきれないから困っているのだ。それとこれと何の関係が……?と思いながら続きに耳を傾ける。
「ですからマナーや作法だからとルールや決まりに囚われすぎる必要はありません。どんなことをすれば相手が不快に感じるか、どのように気を配り配慮すれば良いか。それを考えて実行すれば多少ルールや決まりから外れたからといって目くじらを立てて怒るようなことではないのです」
「……あ」
「……ん」
咲耶の言わんとしていることはわかった。そしてそう言われたらそれはその通りだと言わざるを得ない。マナーや作法とは何のために出来たのか。ただひたすらルールや決まりを守ることに固執するためのものではない。
「ですから心がけるべきは一緒にいる相手への気配り、心配りです。多少マナーや作法から外れても気にされる必要はありません。そこできちんと相手への配慮がされていれば良いのです。そして今日はマナーを覚えて帰ろうとするのではなく、どのような場合が失敗なのか、失敗した場合はどのように対処すれば良いのか。それを覚えて帰ってください」
「……そっか」
「……ん!」
「さすが九条様です……」
三人は目から鱗だった。これまではルールや決まりをとにかく頭に叩き込んで覚えることばかり考えていた。しかし咲耶が言うのはそのようなものではない。相手への配慮とはどういうものか、どういうことをしてしまったら相手への失礼になるのか、そしてその場合はどう対処すれば良いのか。
今日このマナー講習で教えていることは九条家のパーティーで使われるであろう範囲のみに限定されている。そのマナーを一通り説明した後はどのような失敗があるか。そしてそうなった場合にどう対処すれば良いのかを教えてくれている。
これまでのマナー教室ではルールや決まりを守ることばかり教えられてきた。そこで思わぬ失敗をしてしまった時に思考が固まってしまってリカバリー出来ずにマナーは苦手だと思い込んでしまう者も多かった。
しかしここでは全員が失敗する前提で、どのような失敗が起こりやすく、そうなった場合にはどうすれば良いかを重点的に教えてくれる。パーティーで出るメニューなどで起こりやすい失敗やそのリカバリーを実践的に教えてくれるので覚えやすく対応しやすい。
「私ちょっとマナーに自信がついたよ!」
「……ん。鬼灯のは勘違い。でもわたしは出来るようになった」
「なんだよ!何で私は勘違いで鈴蘭は出来るようになったってことになるんだよ!」
「まぁまぁ二人とも……。それよりもこのお料理おいしいですよ」
二人が口論を始めたので花梨が間を取り持つ。そしてマナー講習で出た昼食に舌鼓を打った。
「……そうだな。んっ!本当においしい!」
「……ん!これだけでも来た価値がある」
二人も出された昼食を食べているうちに喧嘩していたことも忘れて上機嫌に舌鼓を打ち始めたのだった。




