第四十八話「駆け引き」
西園寺皐月は幼少の頃から徹底的に厳しく育てられた。全ては門流のため。その布石となるのならば自らの身など厭わないほどに……。
他の家の子供達が子供らしく過ごしている時、皐月は一切子供らしく振る舞うことを許されず、ただひたすらに失敗しないように機械のように振る舞うことを求められた。
別にそのことを恨んでなどいない。そもそもそれを疑問に思ったこともなかった。ただ求められる役割を淡々とこなすだけ。感情すら必要ない。むしろ感情は邪魔だ。表向きニッコリ笑ってさえいれば周囲は簡単に騙される。心にも思っていないことでも口に出していれば周囲は納得する。だからただ淡々とこなせば良い。
皐月にとっては同世代の子供達は随分幼稚に見えた。少し年上でもまるで何もわかっていない者ばかりだ。一切粗相せず、全てを卒なくこなし、口で謙遜し、にっこり微笑む。それだけでいい。それだけで誰もが簡単に騙される。
全てはお役目のために……。
他の者が見れば自分を殺していると言うだろう。しかし当の皐月にはその自分を殺している自覚すらない。そんな考えも、自分というものすらないのだ。
当初最大のライバルで障害になるだろうと思っていた徳大寺薊は大したことはなかった。最早落伍者で脅威にはなり得ない。そもそもあまりに出来が悪すぎる。直情的な性格。顔や行動に出やすい短気。行き届いていない教育。時を追うごとに出て来た欠点のお陰で脅威ではないとすぐにわかった。
しかし何よりもくだらないのがお友達ごっこをしていることだ。
周りの人間など利用出来る者か利用出来ない者かの二種類しかない。お友達などと言ってもそれは所詮都合の良い時に利用し合っているだけの者達のことだ。それを理解し認めている者はまだ良い。ただ徳大寺薊のように友達というものに愚かな幻想を抱いて大切にしている者など皐月の敵にはなり得ない。だからもう脅威でも何でもないのだ。
それよりも問題なのはまるでチェックしていなかった所から突然出て来たダークホース、九条咲耶……。
事前の情報では九条咲耶は敵足り得ないと知らされていたというのにそんなことはまったくなかった。一体情報を寄越した者は何を見ていたというのか。
九条咲耶は非常に頭が切れる。普段ぼんやりしている振りをしているがそんなことはない。皐月ですら敵わないほどに頭が切れるのだ。それは何となくわかる。勉強が出来るとかそんな単純な話ではない。勉強で皐月より優れるなどという者は他にもいくらでもいるだろう。そうではなく九条咲耶は得体が知れないのだ。
恐らく九条咲耶も皐月と同様に本当の自分を隠し偽りの役を演じている。普段はボケたようなことを言っているが違う。あの態度は周囲を警戒させないための計算だ。そしてその中では常に何手も先を読み全てに手を打っている。
徳大寺薊との争いを利用して貶めてやろうと画策した。しかし失敗した。それどころか逆に皐月の企てを利用されて周囲の信頼を勝ち取り手駒を手に入れている。他の雑魚どもがどうだろうと関係ない。五北家、七清家、五北会を押さえればどんな無茶も全て通る。一般の生徒達が多少こそこそ何か言おうが何のダメージにもなりはしないのだ。
だから五北会との関係が壊れるように誘導しようとしたというのに、関係が壊れるどころかむしろどんどん周囲を取り込んでいる。
最初に取り込まれたのは徳大寺薊だった。両者を仲違いさせて争わせ潰し合わせようと思っていたというのに結果はその正反対。徳大寺薊は簡単に九条咲耶の軍門に降りその手下になってしまった。
その次に近衛伊吹を投げ飛ばしたことを利用したがこちらも失敗に終わった。確かに生徒達の間には一時噂は広まったが、当の近衛伊吹が九条咲耶と一緒にいる時間が増えたことでむしろ両者の親しさが強調されることになっただけだ。
近衛伊吹の件で九条咲耶のことをとやかく言う者は、近衛伊吹に憧れていて九条咲耶が邪魔だと思う女子達か、五北家である九条家が妬ましい一部の者だけとなった。他の者達は両者の親しさから暴力を揮ったという噂もそれほど大した暴力ではないのだろうと受け取ったのだ。むしろ親しい者同士のじゃれ合いだとすら受け取る者がいる。
何より大誤算だったのが近衛伊吹に暴力を揮った件を広めたせいでむしろ九条咲耶と近衛伊吹の接近を後押ししてしまったことだ。何故かあの一件以来近衛家、鷹司家をはじめ、さらに近衛門流の者達まで九条咲耶と親しくするようになっている。特に正親町三条家などはその最たるものだ。
何故こんな結果になるというのか。皐月の策略は完璧だったはずだ。他の者だったならばもう学園に来れないほど追い込まれているはずだ。それなのに九条咲耶に対しては全てが裏目に出る。
いや……、違う……。九条咲耶は皐月の策略を利用してその逆境ですら自らの利益に変えているのだ。あの普段のボケたような態度とは裏腹にそこには計算し尽された策が秘められている。
このままではまずい……。お役目を果たせていないとなれば大変なことになってしまう。どうにかして九条咲耶を追い落とさなければならない。そう……、どんな手を使ってでも…………。
~~~~~~~
「ごごごご御機嫌よう皐月ちゃんんん」
「咲耶ちゃん?何かあったんですか?」
「え?ななな何もありませんよ?」
「…………そうですか」
ある日の朝、いつも通りに九条咲耶がやってきて話しかけてくる。いつも話しかけてくるのも計算のうちだ。徳大寺と西園寺の両方に顔が利くのだとクラスに示すために毎朝自分に声をかけてくるのだ。しかし今朝は明らかにいつもと違った。一体何を企んでいるのかと思いながら皐月も思考を巡らせる。
明らかに何かありますという態度をとりながら何でもないという。これはどういうことなのか。何を狙っているのか。これまでの九条咲耶の言動や策略から照らし合わせて何を狙っているのか考え慎重に受け答えする。
「咲耶ちゃん……、何かあるんでしたらいつでも話してくださいね?お話くらいはいつでも聞きますよ?それが……、お友達なのでしょう?」
「ぁ……」
九条咲耶は前にそう言っていた。お友達ならば相手の悩みを聞いてあげるものだと。実にくだらない。他人に話して解決するようなことならばそもそも悩む必要もなく解決可能なことだ。そして自分の状況で解決出来ないことならば他人に相談した所で何一つ解決しはしない。
結局他人に話しても何も解決しないのならば余計な情報を漏らしてしまうだけ無駄な行い、いや、余計に悪い行いだ。それならば黙って自分で解決する方が良い。
しかし九条咲耶は前にそう言っていた。恐らく本心ではないだろう。徳大寺薊ならば上辺だけでそんなことを言うのだろうが九条咲耶は違うはずだ。九条咲耶がそう言うのはそうやって相手に取り入り、相手の弱点を聞き出し、自分に有利になるように利用しようと思ってのことだろう。
だから意趣返しに同じことを言ってやる。皐月は自分の困っていることや弱点を相手に話すような愚かなことはしない。九条咲耶もそうだろう。だから言えるものなら言ってみろと軽い挑発と意趣返しも含めて言ってやった。そのはずなのに……、九条咲耶はふっと肩の力が抜けて柔らかい表情になった。
「…………くすっ。そうでしたね」
「ええ。そうですよ」
何を白々しい。先ほどの態度も今の表情も全ては計算尽くだろう。そんなことで騙されはしない。
その後話の流れで昼食に誘われた。ここの所は手懐けた徳大寺薊とその手下達を相手にしていたのに一体何を企んでいるというのか。少々警戒はしなければならないが相手の手の内に飛び込まなければ何も得られない。だから皐月は誘いを受けたのだった。
~~~~~~~
食堂で昼食を済ませてから五北会のサロンに向かう。一緒に昼食を摂ろうというのがただの建前であることはわかっていた。本番はこの先、二人っきりになってからの話だ。
一体何を言うつもりなのか。何の用があるというのか。
「それで……、どういったお話でしょうか?」
皐月は自分の緊張を悟られないように精一杯平静を装い問いかける。今や九条咲耶は近衛、鷹司、徳大寺とそれぞれの派閥、門流を従えた一大勢力だ。真正面からやりあっては勝ち目がない。仮に近衛、鷹司をうまく中立に持って行っても九条、徳大寺の勢力だけでも厳しい相手だ。
「私は皐月ちゃんとお友達になりたいと思っていました。でも私が間違っていました」
「え?あの……?」
顔を伏せ、泣きそうな顔になりながらポツリと零した言葉……。その言葉の意味がわからない。九条咲耶は一体何を言おうとしているのか。
自分達が友達になどなるはずはない。鎬を削るライバル同士だ。敵同士である自分達が友達になるなどあるはずもない。
ただ……、表面的には取り繕う必要はある。無闇に周囲を敵だらけにするのは自らの首を絞める愚かな行いだ。徳大寺薊はそれに近いことをしている。一部からは確かに好かれているが、代わりに多くの者達から反感を買っている。あれは愚か者の行いだ。
やるならもっとうまく……、適当に友達や仲間のような顔をして周囲に無用な敵を作らない。出来れば敵対者ともある程度親しく接しておく。そうすることで相手の内情を探ったり、情報を仕入れることも出来る。それが皐月の友達付き合いというやつだ。
「皐月ちゃんは私のことを『友達だ』と言ってくれました。私達はもう友達だったんです。それなのに私は勝手にありもしない壁を皐月ちゃんとの間に作って、勝手に友達になれていないのだと思っていました。本当にごめんなさい!皐月ちゃんはもう私のことを友達だと思ってくれていたのに私は勝手に距離を、壁を感じていたんです!」
「ちがう……」
九条咲耶の言葉を聞いて、皐月は今にも頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。何が友達だ。距離?壁?あるに決まっている。何故ならば自分と九条咲耶は敵同士だからだ。敵に見せる隙などありはしない。全ては周囲を騙し、敵まで騙し、利用するための方便。
皐月も、九条咲耶も、そうして周囲を取り込み味方につけ利用しているだけだ。『お友達ごっこ』には反吐が出る!
「頭を上げてください咲耶ちゃん……」
頭を下げた九条咲耶に頭を上げさせる。一体何を企んでいるのかわからない。どういうつもりなのかわからない。必死で頭を働かせているが答えは見つからなかった。
まさか皐月を『お友達ごっこ』で泣き落として情報を引き出せるとでも思っているのだろうか。ましてや徳大寺薊のように手下に取り込めるとでも思っているのだろうか。
そんなことあるはずがない。皐月にはそんな手は通用しないことは九条咲耶にはわかっているはずだ。ならばこの茶番の狙いは何だ?それがわからない。
「咲耶ちゃん……、それでは……、これからお友達になりましょう?それで良いじゃありませんか」
「皐月ちゃん……」
どうすればいいのか。何を狙っているのか。相手の狙いがわからないと対処法もわからない。あまり下手なことを言えば相手の策略に嵌ってしまう。しかし何も対処しないわけにもいかない。
「ごめんなさい皐月ちゃん。これから……、これからはもう皐月ちゃんとの距離を疑ったりしません。今度こそ……、ちゃんとお友達になりましょう」
「……はい」
まさかこれで終わりなのか?これに何の意味があったのか?誰かがどこかで聞いていた?録音している?しかし問題ない。自分は選択を間違えなかった。全て卒なくこなしたはずだ。これで何も問題ない……。
「あっ!そうだ!それではこうしてちゃんとお友達になれた記念に……、今度一緒に遊びましょう?」
「えっ……、ええ……、良いですよ」
きた!これが狙いか!確かにこの流れでそう言われて断る選択はない。そのための前振りだったとすれば大したものだ。絶対に逃げられない状況にしてから嵌める。ということは本命はその『遊ぶ』時だろう。一体何をどうするつもりだというのか。それは皐月がいくら考えてもわかるはずもなかった。
~~~~~~~
九条咲耶と遊ぶ約束をした日の帰りに……、皐月はあれからずっと考えていたが何もかも答えが見つからなかった。九条咲耶のあの『お友達ごっこ』についても、遊びに誘われたことについても、どれほど考えても何もわからない。
事前に何もわからなければ全てに完璧に対処するのは難しい。遊びに誘ったのはそのためだろう。自分に何か失敗をさせるつもりか?他の誰かもいるのか。あるいはこっそり目撃させるつもりか、録画されるのかもしれない。一切油断することなく全て隙なく過ごさなければならない。
確かに大変だ。しかしそんなことはいつものことではないか。毎日何一つ失敗出来ない中で全てを完璧にこなしているのだ。そしてそうなるように育てられ鍛えられてきた。いつもそういった抜き打ちのテストをされて対応力を試されてきた。何の問題もない。いつも通りにすれば良いだけだ。
むしろこれを利用すれば自分の方が有利になれる可能性もある。相手が何かを仕掛ける時というのは相手の隙にもなる時だ。これをうまく凌ぎ切り利用すれば自分の方が有利になれる可能性は高い。
「…………」
車の窓からぼんやり流れる景色を見詰める……。何故だろう……。その日の帰りの車の中で、皐月は何故だか胸を締め付けるような息苦しさを感じていたのだった。