第四十二話「母と和解」
実は薊ちゃん達が遊びに来るにあたって最大の難関がもう一つ残っている。それは家族の説得、承諾だ。
家に遊びに来るのだから当然家族の承諾が必要だ。前世の普通の子供と違って子供同士で遊びに行く約束だけしてその日のうちにいきなり訪ねて行くなんてことは出来ない。受け入れる方の家もお持て成しの準備が必要であり、ある程度事前に約束しておかないと受け入れることも出来ないというわけだ。
訪ねる方だって相手に迷惑になるわけだからきちんと事前に連絡していつ何時に訪ねるかアポを取っておく。その程度の常識もない者ならばこの上流階級の社会では生きていけない。爪弾きにされて交流の輪から放り出されてしまうだろう。
だから俺は薊ちゃん達のためにも家族にそのことを伝えて許可を貰っておかなければならない。もし俺がきちんと家族に伝えていなければそれは薊ちゃん達がいきなり訪ねてきたなんて謂れのない非難を受ける原因になってしまう。
「あの……、少しよろしいでしょうか?」
「ん?どうしたんだい?」
だから俺は覚悟を決めて夕食で家族全員が揃っている時に声をかけた。どうせ薊ちゃん達が来る時には父はいないだろうし、兄が反対するとも思えない。だけど……、母はどうだろう……。この一ヶ月口もきいてくれない母が……、それもその原因となった徳大寺家の娘である薊ちゃんを招くと言ったらどんな反応をするだろう……。
正直怖い……。ますます母を怒らせるんじゃないかという気もする。怖いというのは何も『お母さんに怒られて怖い』とか『お母さんに怒られて悲しい』という話じゃない。俺が怖いのは……、母との関係が修復不能な致命的な破滅を迎えないかということだ。
今はまだ無視されているとはいっても辛うじて繋がってはいる。致命的なまでに壊れてはいないと思う。だけど……、ここで薊ちゃん達を家に招くと言ったら……、どうなるかわからない。
母が俺の噂に関することや近衛家のパーティーでのことをどう考えているのか。あれから話し合っていないから正確にはわからない……。わからないけど……、俺の予想では恐らく母は俺がやったとは思っていないと思う。
もしあの時言われた通りに俺が薊ちゃんのドレスにわざと料理を零したのだと思っていればこんな風にはなっていなかっただろう。恐らくだけど母が怒っているのは俺がそんなことをしたからだと思っているわけじゃなくて、徳大寺家にそんな風に攻撃される隙を作った俺に対して怒っているんだと思う。
薊ちゃんがわざとそれを広めていると思っているかどうかはわからないけど、少なくとも徳大寺家にあんな借りが出来たのは俺が迂闊だったせいだと思っているだろう。だからこそ俺と口もきかないんだ。
まぁ……、俺も母にあの時のことを詫びたりはしていない。俺は自分が悪いことや間違ったことをしたとは思っていない。だからちょっと俺も意地になっていた。何故俺が非を認めて謝らなければならないのかと思っていた。でも……、それは間違いだったかもしれない……。
俺が悪いことをしたとか、何か非があると思ってのことじゃない。だけど家族に迷惑をかけたのは確かだ。俺は九条家の破滅フラグを回避しなければと言いながら自分の軽率な行動で九条家に大変なダメージを与えてしまった。まさかここまでのことになるとは思っていなかった……、なんてのは言い訳だ。子供の浅知恵だったと言わざるを得ない。
そのことに関して母が怒るのは当然だと思う。俺が悪いことをしたかどうかではなく……、俺の軽率な行動のために九条家の評判を落とし苦境に陥れたことに対しては俺は自分の過ちを認めるべきだ。
今回のことはその清算も含まれているかもしれない。当事者であった薊ちゃんが関わるというのは良い機会だ。いつまでも俺だって意地を張っているわけにはいかない。どうにかしてまた母と……。
「実は再来週の木曜日にお友達を招きたいと思っています。そこでお父様とお母様のお許しを頂きたいのです」
「ほう!咲耶のお友達か。どこの家の子だい?」
「…………」
俺が話しかけても母は黙っている。父と母の許可が欲しいと確実に名指しで話しかけたのにこれは完全に無視しているということだ。
「最近私が親しくしていただいている……、徳大寺薊様や東坊城茜様、北小路椿様、それから……」
バンッ!と……、テーブルを叩く音が響いた。全員の視線がそちらに向く。
「あなたは……、あなたはどこまで九条家の名を穢せば気が済むのです!もうたくさんです!」
物凄い形相になった母は両手をテーブルについて立ち上がりながら叫んだ。その視線は間違いなく俺を見ている。他のことについて言っているわけじゃない。今の……、俺が友達を招くといったことについて……、薊ちゃんがやってくるということについてこれだけヒステリックになっているんだ。
「お母様……、周囲がどう言っていようとも私と徳大寺薊様はとても仲良しです。そして薊様には何の裏も打算もありません。今回遊びに来てくれることになったのも本当にただお互いに親しくしたいからです。どうか……、どうか徳大寺薊様をお招きするお許しをください」
そう言って俺は椅子から下りると床で頭を下げた。
「頭を上げなさい咲耶。それからお前も……、もういい加減許してやったらどうだ?」
「あなた……」
父が俺と母の間を取り成してくれている。父に言われたからなのか母の声のトーンも下がっていた。さっきの表情とヒステリックな声はかなりやばかった。あそこまで母がキレているとは俺の予想以上だ。やっぱり先に謝った方がよかったのかな?謝る前に徳大寺の名前を出したのはまずかったかもしれない。
「咲耶はサロンで徳大寺家の薊ちゃんと本当に仲良くしていますよ。あんな噂が一人歩きしていた時も薊ちゃんはずっと咲耶の傍にいてその噂を払拭しようと一緒に頑張ってくれていました。何か狙いがあってやってくるわけではないことは僕も保障します」
「…………」
兄も説得に加わってくれた。兄は俺が薊ちゃんを招くことはそれとなく知っていたのかもしれない。直接はっきり言ったのは今が初めてだけどサロンにいれば自然とそういう話も耳に入るだろう。俺が言わないから聞いてこなかったけどいくらか知っていた可能性は高い。
「咲耶、僕はあのパーティーの時に見ていたから何があったのかは知っている。だけどお父さんもお母さんも知らないんだ。二人が来た時にはもうあの騒動だったからね。だから咲耶の口から全て本当のことを話して欲しい。僕も見ていたけど咲耶の口から聞きたい」
「…………わかりました」
兄の言葉で俺も腹を括る。別にどうしても黙っておかなければならないことというわけじゃない。ただ言い訳がましいかと思って俺はあまり言いたくなかった。だけど事ここに至ってなお黙っているわけにはいかない。確かに迷惑をかけた父や母には俺から説明しなければならないだろう。だから全て包み隠さず話す。
「…………ということで料理を零してしまった薊様が咄嗟に対処出来なくなっていたので私が料理を零したことにして一度下がろうと思ったのです。ですが……」
「そこを利用されてしまったと……」
俺がどう言ったものかと悩んでいた言葉を父が引き継いだ。それを言ってしまえばそれは薊ちゃんの母親が悪用したと言うのに等しい。俺はそれを言うのを躊躇った。でも父ははっきりそう言い切った。俺の言い分を信じてくれたということだろう。でなければそんな言葉は出てこない。
「ですから私と薊様は何も遺恨もなく、そしてお互いに親しい友人なのです。このような状況は決して薊様の望んでいるものではありません」
「そんなことはわかっています!あなたがわざと他人に料理をひっかけようだなんて考えるような子ではないことは私が一番良く知っています!」
そう言って母はまた声を張り上げた。また興奮してきたようだ。でもその後の展開は俺の思ったものとは違った。
「うっかり相手に零してしまったのか、何らかの理由で庇っていることくらいはわかっています!ただ……、そうやって九条家を苦境に立たせた安易な行動が許せないのです!そしてそんな子供の気持ちを利用し踏み躙るような者達に好き勝手にされていることが我慢ならないのです!」
「「「…………」」」
そうか……。母も……、俺のことを信じてくれていたんだな……。そして母の言い分は正しい。
例えばこれが俺と兄の間のことだったなら、兄が俺を庇って料理を零したことを自分がしたと罪を被っても大した問題にはならなかった。兄が少し粗相をしたという俺が当初考えていた程度の評判の低下があっただけで済んだだろう。
だけど今回は周囲にそれを利用されてしまった。俺と薊ちゃんの間では俺と兄のパターンのように済ませようと思っていたとしても、周囲がその状況を利用して事実をすり替え主観を交えた誤った情報を広めて俺を貶めた。
俺も俺だ。そんな大きな問題になれば九条咲耶個人の問題ではなくなってしまう。九条家を攻撃したい者達にとっては格好の的だ。それなのに俺はその時そこまで考えが回らず安易に考えてしまった。結果九条家にも多大な迷惑をかけることになった。
「私は悔しい!咲耶はちょっと抜けている子ですけど人様にそんなことをする子ではありません……。それなのにあんな噂を流されて……、打つ手もなくただ甘んじてそんな批判を受けるなんて……。あんまりです。そしてそうなるように自ら選び口を噤んでいる咲耶も咲耶です!」
「はい……。ごめんなさい……」
母の怒りはご尤もだ。それなのに……、俺を信じてくれていたことを少しうれしく思ってしまう。『ちょっと抜けてる子』って要はアホの子ってことか?って思うけど……、それはまぁ聞かなかったことにしておく。
「本当に馬鹿な子……。ちゃんとわかっているんでしょうね!」
「はい……」
そこからは母のガミガミタイムが始まった。これも随分久しぶりだ。ようやく……、母らしくなってきた。怒られているのに少しだけ頬が緩みそうになる。
「聞いているのですか!」
「はい!聞いています!」
その後暫く続いた母のガミガミタイムを父と兄も一緒になって聞いていたのだった。
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ようやく母のガミガミタイムも終わり場が落ち着いた。もう食事どころじゃない気がするけどほとんど食べ終わっているからいいだろう。
「それで……、徳大寺家や東坊城家を招くんでしたね。いいでしょう……。是非呼びなさい。ぐぅの音も出ないほどに完璧に持て成して見返してやりなさい!」
「いや……、あの……、ですから薊ちゃんや茜ちゃん達は別に見返さなければならないことは何もないのですが……」
もう母の言っていることもよくわからない。薊ちゃん達を見返すも何もないだろう。
「ほう……。それが普段の呼び方か」
「え?……あっ!」
つい『ちゃん』呼びしてしまった。今まで『様』呼びしてたのに……。俺個人としては『ちゃん』と呼んで何が悪いのかと思うけどこういう家では皆『様』呼びしたりする。よほど親しければそうでもないみたいだけど、あまり親しくない相手や畏まった場では全て『様』呼びだ。
「どうやら本当に仲が良いようだな。再来週の木曜日だったね。それでは私も早く戻ってくることにしよう」
「えっ!お父様がっ!?」
この親父、薊ちゃん達と会おうっていうのか?それよりちゃんと仕事しろよ!小学校一年生の女の子達に興味があるのか?このロリコンめ!俺は紳士だから違うけどこの親父は危ない人かもしれないぞ!
「そうですね……。それでは二人揃ってお出迎えしましょうか。それからあれに……、これに……。ふふふっ。これから忙しくなりますよ!」
そして母は何かに燃えている。だけど待って欲しい。そんな変な持て成しは必要ない。普段の、普通の、本来の俺を見てもらいたいから家に呼ぶんじゃないのか?普通しないようなことをして持て成してもそれでは相手の家を訪ねる意味はなくないか?
「待ってください。薊ちゃん達とは飾ることなく本当の自分でお付き合いしたいのです。その時のためだけの特別な演出をしては意味がありません」
「「「…………」」」
俺がそう言ったら三人とも物凄い形相をしていた。何だこれは?どういう意味だ?
「本当の咲耶を……?」
「とんでもない!そんなことをしたら……」
「咲耶が抜けてる子だって広まってしまうわ!」
おい……。どういう意味だ……。両親と兄、三人揃ってそんなことを言っている夕食は久しぶりに賑やかだった。