第四十話「マダム達」
今日は高級フィットネスクラブ『グランデ』で水泳の練習だ。百地流でもたまに水練をさせられるけど百地流の水練とグランデの水泳は別物だからまだ両方やる必要があると思う。それに百地流の水練は回数や時間が少ない。グランデをやめてその分百地流に通えば水練を増やしてくれるかもしれないけど……、あれは増えて欲しくない。
最近はかなり温かくなってきたから水に入ること自体は苦痛ではなくなってきた。まぁ普通に考えたらまだ六月なわけで水に入るにはまだ早い。外の池なんて普通に水温が低すぎて今でも心臓麻痺でも起こすんじゃないかと心配になるくらいだ。
でもそれを置いておいたとしても百地流の水練はちょっとおかしい。ひたすら何時間も重りを上に掲げたまま立ち泳ぎを維持し続けるとか、伸し泳ぎさせられたり、全身に重りをつけられてひたすら泳ぎ続けるとか、水中に入ったまま射撃や投擲、弓なんかもさせられた。もう全然意味がわからない。
習い事の中ではこの『グランデ』での水泳が一番の心のオアシスだ。先生がもっこり海パンだからちょっとアレだけど……。でもそれは決して古堀先生が嫌だとか嫌いだという意味ではなく、ただ男のブーメランパンツのもっこりを見せられてもうれしくないだけで……。
あれ?そう言えば水泳は古堀先生しか見たことないな……?ジムの方なら色々なトレーナーがいるけど……。何でだろう?俺が見たことないだけで他にもいるのかな?まぁいいか……。別に俺には関係ないし……。
樽マダム……、じゃなくて通っているご夫人方も基本的には水泳は古堀先生に見てもらっているようだ。それが先生の人気なのかと思っていたけどもしかしたら他に人がいないだけという可能性も出て来たかもしれない。もちろん逆に古堀先生が人気すぎて他のトレーナーの出番がないだけなのかもしれないけど……。
そんなわけでやってきたグランデの受付を通り抜けて女性用更衣室へと入る。やっぱりそこにいるのは丸々とした樽ばかりだった。
う~ん……。顔ぶれも一緒だし俺より前から通ってて、俺が他の習い事に行っている日も来ているはずなのに何故このマダム達は変化がないんだろうか……。本当に真面目にやっているのか?
「あら咲耶ちゃん!」
「御機嫌よう」
ここのマダム達はこんなだけどこれでも良い所のご夫人方だ。実家も旦那さんも相当良い家ばかりで侮れない。こういう場は上流階級の社交場の一つにもなっているからこういう所で出会う相手に舐めた態度を取ったりおざなりな対応をしたら後でえらい目に遭うことになる。
「咲耶ちゃん今日も可愛らしいわねぇ。飴ちゃん食べる?」
「これから水泳なのでお気持ちだけいただいておきます……」
飴ちゃんあげようか?って大阪のおばちゃんか……?しかも俺はこれから水泳なんだよ……。
「あら?そ~ぅ?水泳の後には飴ちゃんがいいのよ?」
「あっ……、あ~……、そうですね。それではいただきます。後で食べさせていただきますね」
そう言われたら受け取るしかない。それに確かに幼稚園とか小学校低学年くらいの頃は水泳が終わると飴を食べさせられたような気がする。何でかは知らない。失ったエネルギー補給のためなのか、特に意味はなかったのか……。世代が違うとそういうことも変わっているかもしれないし良く知らないけど……。
ただ一度は遠慮したとしてもああやって再び勧められるかのようなことを言われたら次は断ってはいけない。国や地域や時代によっては二度断って三度目に受けるとか、一回目から断ってはいけないとか、色々あるだろうけどここではそんな厳しいマナーというわけじゃない。
ただああやって遠回しとはいえ断ってもまた勧めてこられたら受け取っておくべきだ。あまり固辞していると評判が悪くなってしまう。
「ほんとに咲耶ちゃんは素直で可愛いわねぇ」
「ほんとほんと。うちの子とは大違いよ」
「うちにお嫁に来てくれないかしら?」
「あはは……、ありがとうございます。それでは古堀先生をお待たせしているので失礼しますね」
そこらのおばちゃんのノリにしか聞こえないけどこれでも上流階級のご夫人方だ。あまり失礼にならないように、だけど適度に距離を保って離れるのが賢い。
「咲耶ちゃん、こちらにも色々と噂が届いているけれどもね」
「私達は咲耶ちゃんの味方よ」
「そうよ。咲耶ちゃんがそんな噂みたいな酷い子じゃないのは私達が知っているもの」
「ね?」
更衣室を出て行こうとした俺にご夫人方がそんな声をかけてくれた。立ち止まって振り返ると俺は頭を下げた。
「ありがとうございます!」
少しだけ頭を下げたまま時間をおいて……、頭を上げたらご夫人方を一人一人見詰めて視線を合わせて感謝の気持ちを表してから更衣室を出た。
やっぱりわかってもらうにはお互いに接するしかない。俺とほとんど接したことがない人は俺の噂を簡単に信じたりより悪く言ったりしてくる。でもこうして触れ合っている人達はそんなことがない。ちゃんとわかってくれる。
俺は今まで人間関係を避けてきていた。でもそれじゃ駄目なんだ。俺が周りに何もしなくても悪意は向こうからやってくる。だからそういう時にきちんと周りにわかってもらうには日頃の人間関係が重要なんだ。わかってたつもりでも今更思い知らされたそんなことに自分の頬を叩いて気合を入れなおした俺はまずは古堀先生の下へと向かったのだった。
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「ぷはぁっ!」
25mプールの端まで泳ぎきった俺は顔を上げて空気を吸い込む。
「咲耶ちゃん凄いね……。もう100mも泳ぎきるなんて……」
「ありがとうございます。ですがタイムはひどいものです……」
古堀先生は水泳のコーチじゃなくてスポーツジムのトレーナーだから色々と褒めてくれる。競技のコーチだったらシビアに記録や成績を追及してくるだろうけどトレーニングジムだと目的が違うからな。生徒を叱ったり厳しく追い込んだりせず、適当に褒めてやる気にさせて継続させることが目的だ。
もちろん中にはフィットネスやトレーニングでも生徒を徹底的に厳しく追い込む所もあるだろう。でもここはマダム御用達の高級フィットネスジムであってそういう所とは違う。
百地流でも水練をさせられているし体力的なものはそこそこついてきたと思うけど泳ぐ速度はどうしても遅くなってしまう。体も小さく筋力もない子供の体じゃ仕方ないか……。
「咲耶ちゃんなら本格的な水泳教室にでもいってもっと上を目指すべきだと思うよ」
「ありがとうございます。ですが私はここが良いのです」
古堀先生がそう言ってくれるのはうれしいけど半分はリップサービスだろう。俺程度の泳ぎじゃ到底水泳で上は目指せない。何せプールの横を歩いた方が早いくらいだからな。ここや百地流でのトレーニングのお陰で長く泳げるようにはなっているけど肝心の速度が出ていない。これじゃ水泳選手なんて目指せない。
そもそも俺は九条家のご令嬢であって水泳選手を目指すとかそんなことは不可能だ。そして今となっては学園の帰りにグランデに寄るのは非常に都合が良い。もっといい場所に水泳教室があるかどうか知らないけどここは帰りに寄りやすいし立地がいい。
最初高級フィットネスクラブを勧められた時はどうかと思ったけど良実君は良い仕事をしてくれた。ここはかなり理想的な場所だ。それに俺が通う教室を変えたいと言っても……、どうなんだろう?
前までならば母が俺のことに何かと口を出してきていた。だから母を説得出来る場所でなければ習い事も出来なかった。でも今は?母は俺とまったく口をきいてくれない。なら今ならば塾やフィットネスクラブ、百地流と違う所に通おうと思えば変えられるんだろうか?
何度も言うようにもちろん俺はもうこの三つを変える気はない。蕾萌会ほど都合の良い塾はそうそう見つからないだろうし、グランデほど都合の良いフィットネスクラブもないだろう。そして……、俺は百地流をやめるつもりはまったくない。
確かに表立って人に言えない流派なのかもしれないけど……、それでも師匠との修行は楽しい。いつか極めた暁には胸を張って百地流だと皆に言いたい。だからこんな中途半端な所で投げ出すわけにはいかない。俺は必ず百地流を極める!
「今日はあと二本ほど泳いだら終わりにしますね」
「あまり無理しちゃ駄目だよ」
「はい」
前までなら泳ぎすぎだとか色々と言われることもあったけど最近ではかなり俺の裁量に任されている。もちろん溺れないように見てくれているし練習のし過ぎになったら止めてくれる。ただある程度は俺の言うことも聞いてくれるようになった。最初の頃の浮きをつけようとしていた頃から考えれば随分な変化だ。
その後100mを二本泳ぎ切って今日の水泳は終わりにしたのだった。
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水泳が終わった後にマダムにもらった飴ちゃんを舐める。
「う~ん。甘い」
疲れた体にエネルギーが補給されるかのような感覚だ。もちろん実際にはそんな急に効果があるはずもないんだけど疲れた体に糖分が染みるというか何というか。
それに大阪のおばちゃんが飴ちゃんをくれたように渡されたけどこれは結構高級な飴だぞ。どこの店でどれくらいの値段がするものかはわからないけどスーパーや百円均一で売っているような安物の飴じゃないことは確かだ。
「咲耶ちゃんももうあがるのかしら?」
「はい。今日はもう帰ります」
「よかったら今度うちの息子とお見合いしない?」
「え~っと……、考えておきます……」
サラッとお見合いを勧めてくるから怖い。俺の感覚だとまだ小学校一年生だと思う所だけどこの界隈ではもう小学校一年生だ。この年で許婚候補の一人や二人がいないのは遅いと思われる。確実に決定はしていなくてもそれらしい候補なら何人か選ばれているはずであり、家や会社も含めて話し合いが行われているのが普通のようだ。
俺はそういう相手はまったくいないけど……、そう言えば同じ九条家でも良実君はどうなんだろう?跡継ぎだしもう小学校六年生だし婚約者の一人くらいいてもおかしくないはずだけど……。
それに薊ちゃんは?皐月ちゃんは?伊吹も槐も婚約者なんていない……。俺の周りだけ何だかおかしくないか?
もちろん同級生達はゲーム『恋に咲く花』の登場人物達だからわからなくはない。ゲーム開始時点で『昔から決められたラブラブの婚約相手がいます』なんてことになったら話が進まない。
まぁ……、『幼馴染でラブラブな婚約者』じゃなくて『本心では結婚したくないけど付き纏ってくるし家格的に仕方なくそれっぽく相手をしているご令嬢』なら出てくるけどな……。
伊吹と咲耶お嬢様はそれでいいとしよう。周囲を納得させるために伊吹が咲耶お嬢様を防波堤にしていたという側面もある。でも槐は?槐だって鷹司家というこの国でもトップレベルの家柄の御曹司だ。槐に許婚や婚約者がいないことは何か変な感じがする。
それに薊ちゃんや皐月ちゃんは?ゲーム『恋花』の年齢、高校生の頃になっていればほぼ全員がもう結婚相手が決まっている、みたいな設定だったはずだ。それなのに二人には婚約者もいない。二人だけじゃないぞ。世界観としてはそういう設定なのに明確に婚約者がいるということになっているキャラの方が少ない。
ゲームの時は色々とあったとは思う。例えば設定上はいるけど端役のそんな細かい設定までいちいちゲーム中に出てこなかっただけだとか、主人公に絡んでくるような登場人物達は恋愛乙女ゲーなんだからそういう固定の相手がいなかったとか、色々とあるだろう。
でもそれがもし現実世界になったなら?
ゲームの時はゲームの都合上薊ちゃんや皐月ちゃんに恋人や許婚、婚約者なんてのが現れなかった。でも現実となったこの世界なら今はまだしもある程度年が上がれば家が無理やりにでもそういうことを決めるんじゃないか?
今は徳大寺家は薊ちゃんを伊吹と結婚させようとしている。恐らく西園寺家もそうかもしれない。だから薊ちゃんも皐月ちゃんも今は無理に他の許婚はつけられていないだろう。でもこれから年を重ねて伊吹や槐と結婚出来ないとなったら?
ゾワリと……、そしてドクンと……、俺の中で何かがざわつく。
もしポッと出のわけのわからない奴に薊ちゃんや皐月ちゃんが奪われていきそうになった時……、俺はどうするだろうか……。二人はどうするだろうか……。
もしかしたらその結婚が二人のためになるかもしれない。そもそも部外者である俺が反対したり賛成したりするようなものでもないだろう……。でも……、この気持ちは何なんだろう……。とても……、奪われたくない……。
そのせいで二人に女性としての幸せが訪れないのだとしたら?それは俺が止めるべきことか?
そうは思うけど……、俺の胸はそんな想像だけでもチクチクと痛かった。