第三十八話「即復帰」
ふ~……。感動の結末で最終回かと思った……。まぁ現実となったこの世界でハッピーエンドで終わりなんてものがあるはずもなく、今日も明日も明後日も、俺が死ぬまで終わることなく続く。物語なら綺麗に終わってそれまでなんだろうけど現実はそんなに甘くないわけで……。これから後始末の方が色々と大変だ。
まず今出て行ったところだというのにどの面を下げてサロンに戻ろうというのか……。でも時間を置いた方が余計に戻り難くなるわけで……、戻るのなら今日のうちに戻って撤回した方が良いだろう。
でもなぁ……、あれだけ啖呵切って出て来たのに三十分と経たずに戻ってくるとかかなり恥ずかしいやつだよな。うわぁ……、どうしよう……。
しかも仮にサロンに戻るのは俺が少し恥ずかしい思いをするだけでスムーズに済んだとしても他の問題は何も解決していない。伊吹が何故薊ちゃんを突き飛ばしたのかとかそういう話を聞いてようやくわかった。どうやら色々と面倒なことになっているようだ。
あのパーティーの時に俺がわざと薊ちゃんのドレスに料理を零して汚した、というのは俺が考えていた以上に深刻なことらしい。俺はちょっと自分が怒られたり非難されたりで終わりかと思ったけど一種の貴族社会とも言えるこの界隈でそんな噂は致命傷になるようだ。
しかも何故か噂にはどんどん尾ひれ腹ひれがついて膨らみ俺は相当極悪性悪令嬢として名を轟かせているらしい。それを聞いて伊吹は噂を広めているのは被害者とされている薊ちゃんだろうと思って、あの時俺と薊ちゃんが口論になっていると思って助けに入って突き飛ばしたということだった。
まったく伊吹の早とちりは困ったものだ。そのお陰で余計に話がややこしくなったんだから笑えない。
まぁ伊吹の件はまずは置いておくとして先に薊ちゃんの件の整理の続きだ。それで俺が薊ちゃんを蹴落とすためにわざとドレスを汚すような極悪性悪令嬢として噂が広がっているということだけど、これは九条家の破滅フラグにもつながりかねない大スキャンダルなようなので出来れば払拭しておく必要がある。
そうは言うけど人の噂というのは止められない。人の口に戸は立てられないというやつだ。しかも人は他人の醜聞が大好きで勝手な憶測や、自分の願望や予想をまことしやかに付け足して噂を広めていく。薊ちゃんは自分の派閥の者達には噂を広めないように言ってくれていたようだけどそれでも止まらず……。
まず俺はこの薊ちゃんとの一件をどうにかしないことには今適当に五北会に戻ってもまた必ずどこかで何かの火種になってしまう。九条家の破滅フラグを回避するためにもどうにかしなければならないんだけど……。
普通に考えたら被害者とされている薊ちゃんにそうじゃないと否定してもらえばそれで済む話だと思う所だけど……、事はそんな単純じゃないから困る。もし今薊ちゃんがそんなことを言って噂を否定すれば俺が圧力をかけて噂を撤回させているんだと受け止められかねないらしい。
俺と薊ちゃんは全然そんなつもりはなくとも、それでも今の状況で薊ちゃんにそう言って否定してもらうのは俺が言わせているとまた曲解して広める者が出てくるだろうということだった。
じゃあどうすれば良いのか……。それがわかれば苦労はしない。すぐに効く有効な手段はない。こればっかりは長い時間をかけて俺はそういうことはしないと行動で示して信じてもらうしかないようだ。だから有効な手はなくすぐに噂を消すことは出来ない。
そして次の問題が伊吹の件だ。噂の方は徐々に下火になるのを待って、俺が行動で示して徐々に信じてもらうしかないとして、今は伊吹を投げ飛ばした事が新たな問題として浮上してしまっている。それこそ俺は薊ちゃんにそんな嫌がらせをした奴だと思われているから余計に噂の信憑性を高めてしまっている。
五北会を黙らせるのは難しくない。伊吹本人が俺をどうにかするつもりはないと明言している以上は最大門流の近衛門流に加えて、第三位の勢力を誇る九条門流、それから数は少ないながらもそれでも一派の門流の長である鷹司門流と五北家の三家が足並みを揃えればそれを覆せる者は存在しない。
もちろんどの門流の中にも不満を持っている者や反発する者、納得しない者はいるだろう。それでも門流の長である近衛、九条、鷹司が言えば表だって反対は出来ない。力ずくで押さえつけるというのなら出来なくはないというわけだ。
それに加えて勢力そのものは大きくないし、家格的には派閥の長とはいっても年齢が小学校一年生の入学したてだからリーダーではないけど徳大寺家の派閥も薊ちゃんがどうにかしてくれるという。
皐月ちゃんは門流の長でもないし当然リーダーでもないから派閥や門流全体を動かすのは難しいと申し訳なさそうに言っていたけど、それでも七清家の西園寺家の皐月ちゃんが味方してくれるだけでも大きい。
ただそんな上からの強引な命令で従わせるとか納得していない者の口を黙らせるみたいなやり方だと後々問題になりかねない。だからただ上から命令のように従わせるんじゃなくてもっと納得してもらう形でなければ決着出来ないだろう。
まぁ……、五北会のメンバーはまだ人数も知れているし直接語り合う機会さえあれば説明や説得も不可能じゃないかもしれない。だからそれほど大きな問題ではないだろう。権限や権力的には大きいけど……。
ともかくもっと問題なのは他の生徒達の噂だ。薊ちゃんのドレスの件と同様に俺が伊吹を投げ飛ばしたというのはご令嬢にはあるまじき醜聞のようで九条家にとってもかなり危ないようだ。薊ちゃんを守るためだったし後悔はしていないけどこれからは俺は手を上げる時はもっと気をつけるべきだな。
え?手を上げないように、じゃなくて手を上げる時は気をつけるのかって?そうだよ?当たり前じゃん。襲われたら身を守る、そんなことは当たり前のことだ。こちらから相手を傷つけてやろうとは思わないけど襲い掛かってくる相手に遠慮するつもりはない。
薊ちゃんとの噂のこともあって伊吹の件も既にかなり広まっているし俺がさらに白い目で見られているらしい。このままじゃまずい。だけど実際に殴って投げ飛ばしたのは事実であって……、ここがややこしい所だ。
誤解であろうが間違いであろうが俺が伊吹を殴って投げ飛ばしたという事実は変わらない。これを伊吹が『自分が先に手を出したから返り討ちに遭っただけだ』と触れ回ったとしても無意味だ。
そんなことで噂が止まるわけもなく、面白おかしく噂を流している者達は『何故そうなったのか』ではなく『こんなことをした』として噂をますます広めるだけとなってしまう。伊吹が本当のことを言って回るということは実際に俺が伊吹を殴って投げ飛ばしたと余計に広める行為になるだけで効果はないと言われた。
だからって今更なかったことにも出来ない。五北会のメンバーまでばっちり見てしまっているし、これだけ広まっているのに今更なかったことにしようとしたらそれこそまた隠蔽だの圧力だのという話になる。人の噂というのは実に厄介だ。
「これだけ話し合っても解決策は見つからない……」
「八方塞がりだな……」
六年生である兄と水木が中心となって色々と話し合ってみたけどやっぱりそんなすぐに良い解決策は出てこなかった。仕方がないのでまずはサロンに戻ることにして全員でサロンに戻る。
「近衛様!申し訳ありませんでした!」
「「「…………」」」
サロンに戻るとすぐに茅さんが伊吹に頭を下げていた。でも伊吹や槐の顔は明らかに不満がある顔だ。水木も額を押さえて首を振っている。
「お前は何もわかっていない!俺に謝ってどうする!」
「はい……。わかっております。九条様、申し訳ありませんでした」
伊吹に謝ってから、俺と兄の方を向いて茅さんは再び頭を下げた。あくまで最初に頭を下げるのは近衛家に対して、そしてこちらに頭を下げるのは伊吹の顔を立てただけで納得はしていない。そういう意思表示だろうな。
伊吹は自分の非を認めている。そして近衛家と九条家の正面衝突は両者にとって得策ではない。それを鑑みて一応形式的に頭を下げただけで自分は納得などしていない。わざわざそんな意思表示のためにこんなことをするなんて茅さんも相当なものだ。
五北家でも七清家でもない正親町三条家は五北会の中でそれほど家格が高いということはない。だからこそ茅さんは必死で気丈に振る舞っているんだろう。もし一度でも家格の差に屈してしまったらもう二度と這い上がれないから……。
「正親町三条様……、事情が何であれ確かに私は近衛様を殴り、投げ飛ばしました。その仇討ちのために手を上げた正親町三条様の腕を捻り上げました。きっと私はこの場には相応しくない乱暴者なのでしょう。ですが私には私の正義がありそれを行ないました。私は誰憚ることなく、何ら恥じることなく今でも胸を張って悪いことはしていないと言い切れます」
「…………」
下げていた顔を上げて茅さんが俺を真っ直ぐに見詰めている。その目は俺が何を言いたいのかと探っているような目だ。だから俺は続ける。
「そして正親町三条様にも譲れない信念と正義があってあのように行い、言葉を放ったのだということも理解しております。どちらが正義でどちらが悪でもない。お互いにとっての信じることがぶつかり合っている結果このようなことになっているのです。ですがそれは何も悪いことではありません。むしろ私はそれで良いと思います」
「これで……、良い……?」
俺の言葉がうまく伝わらず茅さんは顔を顰めた。まぁ今の状況でこれで良いと言えばまるで俺が勝ち誇っているようにも思えるだろう。伊吹は自らの非を認めて謝り、茅さんにまで謝れと迫った。そして今俺は謝られている。これでいいと言えばまるで俺が勝ち誇っているようだ。でも俺が言いたいことはそんなことじゃない。
「正親町三条様には正親町三条様の信念がある。私には私の信念がある。時にはそれがぶつかり合うこともあるでしょう。それを隠して本心でぶつかり合うこともせず、ただ上辺で合わせるだけの馴れ合いなど必要ありません。こうしてお互いの主張が言い合えるからこそ本心から相手のことが知れるのではないでしょうか?」
「…………」
再び俺の言うことを聞こうと耳を傾けてくれている。やっぱり茅さんも悪い人じゃない。近衛家に、伊吹に尽くしているからこそ家格が上である九条家にもこうして言いたいことを言ってくるんだ。
「正親町三条様はこれからも何かあれば思った通りに私に指摘してください。その中でお互いに意見を語り合い、時には自分の非を認めるかもしれません。あるいはどれほど語り合ってもわかりあえないかもしれません。それでもこれからもまた私にそうして正親町三条様の本心をぶつけて欲しいのです」
「これで決着とせずこれからもまだ揉めようと?」
怖い顔で睨みながらそんなことを言ってくる。だから俺は笑顔で応える。
「もし相手が間違っていると思ったらきちんと指摘して止めてあげる。意見の違いがあれば立場を超えて話し合う。相手とわかり合い、お友達になるためにはそれが出来なければなりません。ですからそれが出来る私と茅さんはもうお友達です」
「――ッ!なっ……、何を……」
うろたえている茅さんの手を握る。そっと両手を重ねてからじっと茅さんを見上げた。
「私と茅さんはもうお友達です。ですから私のことは『咲耶』とお呼びください茅さん」
「――ッ!――ッ!」
怒っているのか照れているのか。笑っているのか引きつっているのか。何とも言えない表情と顔色になった茅さんは手を引っ込めて俺から離れた。
「だ、だったら……、これからも何かあったらビシバシ指摘させてもらいますからね!さっ……、咲耶……ちゃん……」
顔を逸らして、赤い顔でそんなことを言う。何ていうか……、大きい薊ちゃんみたいだな。まぁ薊ちゃんにそんなことを言ったら怒るだろうけど……。
「はい。よろしくお願いいたしますね。茅さん」
「――ッ!早く入って扉を閉めなさい!いつまで開けっ放しにしているの!」
とうとう後ろを向いて俺の前から離れながら茅さんはそんなことを言った。
「ふふっ、早速怒られちゃったね咲耶」
「お兄様……。そうですね。それでは中に入って扉を閉めましょう。いつまでも開けっ放しにしていてはまた茅さんに怒られてしまいます」
「「あははっ」」
まだ何も解決はしていないけど、五北会のメンバー達がポカンとしている中で、俺はまた一人新しいお友達が出来たのだった。