第三百八十三話「妹様に叱られる」
今日は可愛い妹様が高等科の学校見学に行った日だ。もしかしたら高等科で自分に話しかけてくるかもしれないという淡い期待を抱いていた兄の、ほんのささやかな願いは叶えられることはなかった。
「ただいま戻りました」
「ああ、咲耶おかえり。学校見学は楽しかったか……い?」
こんな日にもいつも通りに習い事に通って遅くに帰ってきた妹様のその顔は、『楽しい』などという感情とは無縁だったのだろうと察して余りあるものだった。
「お兄様、少しお話しがあります」
にっこり笑っているのに笑っていない。言っていることは矛盾しているように聞こえるかもしれないがこれは両立し得ることなのだ。明らかに妹様は顔の形だけ笑顔を取り繕っているが、感情的には一切笑っていない。
他人と挨拶する時に、本心ではまるで楽しくもなく笑ってもいないのに笑顔を取り繕うことはある。良実も日ごろから取り繕った笑みを浮かべているし、この妹様もパーティーや社交場では愛想笑いも取り繕いもしている。今のように明らかに表情は笑っているのに笑っていないと不機嫌を露わにすることはない。
それなのに今はこれだけ不機嫌を隠そうともしていないということは、学校見学で相当なことがあったということだろう。良実はヤレヤレと肩を竦めてから妹様について部屋を移動することにした。
「それで?高等科で何かあったのかい?」
九条邸のサロンにやってきた二人は、用意してもらったお茶を飲んで一息ついてから良実の方から話を切り出した。何かあったのは明白。その内容も予想はついている。しかし自分から余計なことを言う必要はない。妹様が不満に思っているのならば、それを聞いて受け止めてあげるのが兄の役目だろう。
「お兄様……、高等科五北会の会長はどなたでしょうか?」
笑っていない笑顔でそう問い詰めてくる妹様の言葉を聞いて、良実はやはりその話題かと思いながら少し視線を逸らした。
「日野先輩だよ」
「日野木槿……、ですよね?」
そう言った瞬間、先ほどまで笑顔の形だけは取り繕っていた妹様の表情が消えた。その表情は長らく一緒に暮らしている実の兄である良実ですら滅多に見ることがない。それは妹様、九条咲耶が本気で怒っている時の表情だ。
「うん。そうだね。その日野木槿先輩だよ」
今更余計な誤魔化しを言っても仕方がない。今日帰ってくるなり話があるといい、呼び出されて最初の言葉がこれだったのだ。妹様は全てをわかった上で確認しているに過ぎないと判断するべきだろう。だったら余計なことや嘘や誤魔化しを言っても自分の信用が下がるだけだ。
良実は咲耶のことをとても可愛がっている。咲耶のためになることなら嘘でも平気で吐くが、咲耶のためにもならず、自分の信用をただ下げるだけの愚かな行いはしない。
そもそもすでに妹様はここまでお怒りなのだ。もうこの時点で日野木槿の運命は決まっている。良実にとってはどうでも良いわかりやすい小悪党程度の相手だったが、妹様がここまでお怒りならばもう日野木槿に助かる道はない。大して興味もなかったどうでも良い小悪党を庇うために自分が妹様の不興を買いたくはない。
「ということは中等科の時も日野木槿が会長ということですね?」
「うん。そうだよ」
やはり妹様は全てを理解している。とても初等科六年生とは思えない。昔から人並み外れた知能や察しの良さを持っていたが、今の歳にしても出来すぎている。
妹様が言っていることはこういうことだ。初等科は六年生まである。当然良実が一年生の時には六年生まで五学年も上の世代がいる。良実が一年生になった時点では前年に譲られた六年生が会長を務めているだろう。そして仮に五年生から二年生までの間に良実より年上で会長に相応しい者がいれば次はその者が会長に選ばれる。
逆にその間の年が不作の年で良実より相応しい者がいなければ良実が二年になる時に会長を譲られるだろう。それこそまさに近衛伊吹がそうだったように……。
良実が六年の時に伊吹や咲耶達が入学してきた。良実が卒業して伊吹達が二年に上がる時、伊吹より適任の者は誰もいなかった。それはそうだろう。家格最上位の近衛家の嫡男がいるのに、それを差し置いて五北会会長に相応しい者はいない。
もし仮に良実から伊吹に交代せず、間に誰か会長に成り得る可能性があるとすれば、それは伊吹より年上の五北家の嫡男でもいれば、という場合だけだ。五北家格の家の者で、嫡男で、伊吹よりも年上だったならばその者が務めることになっても誰からも異論は出ない。
それでももし伊吹と一学年しか違わなければ、三年から六年までの間ずっと会長をするというのも難しいだろう。別に明確な決まりがあるわけではないが、伊吹を差し置いてそれだけ会長を続けて、卒業時点でようやく伊吹に一年間だけ交代するというのはこの界隈での常識や通例的にあり得ない。
伊吹がある程度大きくなるまで、という建前や、年数的に二人が半々になるまで程度で家格が上の伊吹に譲ることになるだろう。しかしこれらが成り立つのは六年もある初等科だからこそだ。
中等科、高等科のように三年しかなければ、一学年か二学年下から後継者を選ばなければならない。日野木槿が入学して、二年になる時に前の会長から会長職を譲り受ければ、その後に良実が入ってきても木槿が二年、三年の二年間会長を務めることが出来る。
暗黙の了解や常識や通例から考えれば普通はあり得ない。確かに一度会長に任命されれば自分から辞めると言わない限り卒業まで続けられる。しかし五北家の嫡男である良実が入学してきたならば、普通なら自分が一年間で退いて良実に会長を譲るのが当然だ。しかし日野木槿はそれをしていない。
これはこの界隈では眉を顰められる行為であろうが、それはその話が問題になった場合の話だ。良実が木槿に異議でも申し立てない限りは、他の者がわざわざそれを問題にすることはない。木槿の態度をどうかと思っている者はいるだろうが、だからといって自分からわざわざ渦中に飛び込んだり、余計な対立の火種をつけようとは思わないはずだ。
中等科の時も木槿が二年、三年の二年間会長を務め、良実は木槿が卒業してからようやく会長を譲られていた。高等科でももう三年の卒業間近だがまだ譲られていない。結局木槿が二年間会長を務めている。
妹様は、咲耶はそんな状態に腹を立てているのだろう。日野木槿の行いは九条家を、そして兄を軽んずる行為だ。可愛い可愛い咲耶は兄を心配して……。
「お兄様がそのような態度だから日野木槿もあのように横柄に振舞っているのではないですか?」
「…………ん?」
俯いてプルプルしていた妹様の怒りは……、良実にまで向いていた。
「お兄様がもっと五北会のリーダーとしてしっかりされていれば、日野木槿やその一派があのような下品で傍若無人な振る舞いは出来なかったでしょう!よもやお兄様は日野一派の行いをご存知ないなどとは申されませんよね!」
「あっ、はい……」
おかしい……。何故か自分が怒られている。しかしこの状態の妹様に逆らうのは得策ではない。それに言っていることも間違いではない。中等科の頃はまだしも高等科に入ってからの日野一派の振る舞いは目に余るものがあるのは確かだ。本来であれば自分がそれを抑えなければならなかったと言われればその通りだろう。
本来日野木槿は五北会の会長などになれるような器ではない。五北会メンバーが確定しているのは五北家、七清家、大臣家までだ。それより下の羽林家、名家の上位の家は定員が割れている場合に上位から順番に選ばれるだけであり、本来の五北会のメンバーとは言い難い。
実質的に名家最上位と言っても差し支えない日野家ならばほぼ確実に五北会メンバーに選ばれるだろうが、それでも咲耶や伊吹達の年のような当たり年になれば選ばれない。定員オーバーしようとも絶対に選ばれる上位の確定の家と、あくまでも定員が足りない場合の予備的な家では隔絶された違いがある。
しかし日野木槿は運が良かった。上の世代にも同級生にもそれほど有力な者がいない年に丁度当たったのだ。しかも邪魔になる良実達よりも一学年上だ。中等科や高等科では三年生が卒業する際に、任せる後輩として一番有力な者が木槿しかいない。だから木槿に会長が譲られる。
本来であれば良実が入学してきた一年間だけ会長を引き受け、二年目からは自分は降りて良実に譲るべきだろう。だが木槿は譲らなかった。中等科で五北家ですら自分の下なのだという快感に酔い痴れた木槿は会長を譲らず、さらに中等科で問題にならなかったために高等科でも同じことを繰り返した。
木槿はまさに今我が世の春を謳歌しているのであり、ますます調子に乗っているのだ。
ただし木槿自身は大人達の前では取り繕っているつもりのようだが、学園に通っている生徒達全員の口を塞ぐことなど出来るはずもない。大人のいる所でだけ取り繕っているつもりでも、あちこちから木槿の行いの噂は流れており、どの道遠からずその報いを受けることになっていただろう。
だからこそ良実も自らの手で木槿を血祭りに上げることなく、成り行きに任せつつ証拠集めや状況作りだけは行っていたのだ。だがそれを妹様に怒られてしまった。良実はシュンとする。
しかし何も悪いことばかりではない。妹様はこうして兄の身を心配してくれている。そして兄にもっとリーダーらしく振舞って欲しいと期待しているのだ。そう思うと元気が出てきた。
「お兄様がきちんと日野木槿を躾けてくださっていないから、爪弾き者や外部生を集めてあのように下品な行いをしているのでしょう!」
「はい…………」
確かに我が世の春を謳歌している木槿だが、実際に木槿についてきている者は少ない。逆らえない日野流の他の家の者や、チンピラのような外部生を引き連れてサル山の大将を気取っているだけだ。本来の上流階級の家の者達はそのうち木槿が沈められることを理解している。だから下手に近づかない。皆遠巻きに見ているだけだ。
それを自分達の力を恐れているからだと木槿は幸せな勘違いをしている。もしその気になれば、良実が木槿の行いを糾弾すれば一瞬で破滅することになる。
「お兄様が日野木槿を放置されているから茅さんが付き纏われて迷惑されているのですよ!」
「あああぁぁぁ~~~~~っ……。そっちかぁ…………」
最後に出てきた妹様の言葉を聞いて、良実は心の中で両手両膝をついて崩れ落ちた。妹様がこれほどお怒りだったのは自分のためではなかったのだ。妹様がお怒りだったのは、自称『正親町三条茅の許婚』と名乗り付き纏っていることに対してだったのだ。
それはそうだ。妹様は正親町三条茅と随分親しかった。木槿の茅への付き纏いも良く知っている。茅本人が気にも留めず平然としているから良実は放置していたが、咲耶があれを知れば反応するのも当然だろう。
「正親町三条さんから助けを求められたのならともかく、派閥も門流も違う上に助けも求めていない相手を助けることは出来ないからね」
気を取り直した良実はとりあえず説明だけはしておく。証拠集めや木槿を潰す段取りは用意しているが、茅に関しては向こうが助けを求めていないのにこちらから助けの押し売りをすることは出来ない。そもそも恐らく茅には手助けは必要ないだろう。
確かに財力で言えば日野家は正親町三条家を遥かに凌ぐが、この貴族社会というのは金があれば良いというものではない。大臣家は伊達に大臣家なわけではないのだ。そして茅と木槿の格の違いもあれば多少金持ちだの、一門が多いなど大した問題ではない。
咲耶は茅のことが心配すぎて過保護になっているが、茅が木槿を大して相手にしていないのにはそれなりに理由と根拠があってのことだ。
「それはわかりますが……」
ようやく妹様の眉尻が下がり視線を逸らした。咲耶も心の中ではわかっているのだろう。ただ理性が理解していても感情がそれを許せない。そういうことはよくある。
「正親町三条さんも自分でどうとでも出来るから放ってるんだよ。それに僕も頼りないかもしれないけど、一応それなりに考えてはいるんだけどな」
「わかっています……。お兄様のことですからただ指を咥えて見ているだけではなく、裏では準備を行っていることはわかっていますが……、やはり心配なのです……」
あの正親町三条茅に対して『心配』などと言えるのはこの妹様くらいのものだろう。普通の者ならむしろ正親町三条茅に狙われる相手の方を心配するに違いない。
「大丈夫だよ」
「それとお兄様にはお兄様のお考えあってのこととは理解しておりますが、やはり対外的な印象などもありますので、あまりあのような者を野放しにされるのはどうかと思います」
「ごめんごめん。気をつけるよ」
「お兄様のことは九条家の嫡男として期待しているのです。能力を隠しておられるのはわかっておりますが、あまり他の方に侮られるようなことは避けてくださいね」
そう言われた瞬間、ブルルッと良実の体が震えた。
「お兄様?今何か……」
「なんでもないよ。まぁそんなに咲耶が心配することはないよ。僕と正親町三条さんに任せておいて」
「はぁ……」
まだ納得がいっていない表情をしていたが咲耶の背中を押してサロンから無理やり追い出す。これ以上我慢するのは難しい。振り返る暇を与えずに咲耶をサロンから追い出した瞬間良実の表情が崩れた。にんまり上がる口が止められない。どうしてもニマニマとしてしまう。
「ふふっ。うちの妹様も期待しているみたいだし……、そろそろ日野先輩には踊ってもらおうかな」
先ほどまでのうれしそうなニマニマ顔とは違う。まるで獲物を甚振る猫のような顔になった良実はこれからどうしようか楽しそうに考えを巡らせていたのだった。