第三百八十一話「茅の許婚」
下品な男子生徒達には思う所があるけど、とにかく今の俺は茅さんを見守ることしか出来ない。準備運動やランニングをしている茅さんをしっかり見守らなければ!
ポヨンポヨン、バインバイン、バルンバルン……
茅さんが動いたり走ったりするたびに派手に動く。そりゃ男子達は立てなくなるわ……。こうして見ている俺もつい前屈みになってしまいそうだ。茅さんの胸部緩衝ユニットは一体どうなっているというのか。着替えも覗いてた、ゲフンゲフン、いや、見守ってたから下着を着けていたのは間違いない。下着で留めているのにそれでもあんなに動くものなのか?
昔から茅さんに抱きしめられて、あのふくよかな胸に包まれてきたけど、俺が抱きしめられていた時はもっと何か硬くてごわごわしていて痛かったはずだ。それなのに上着やシャツが制服から体操服に変わるだけであんなに変わるとは……。今度はぜひ体操服で抱きしめてもらいたい。じゃなくて……、あれはまずいなぁ。
年頃の男子が女子をそういう目で見るのはある程度仕方ないとしても、さすがに茅さんのアレは男を刺激しすぎる。下品にウホウホ言ってたのも頷ける光景だ。
とはいえ勝手に育った胸をどうにかしろというのは無理だし……。一体どうしたものか……。
そんなことを考えながら茅さんの体育を見守っているとあっという間に体育の時間が終わってしまった。今までの三時間分は物凄く長いと思ったのに、何故か体育の時間だけはあっという間に終わってしまった気がする。もっとじっくり見たかった……。
まぁ終わってしまったものは仕方がない。皆が着替えに更衣室へと戻ってきたので俺もまたあのスポットへ向かって見守る。これは茅さんを見守るために仕方ないことであり、決してやましいことをしているわけではない!あくまで茅さんを見守るための行いだ!…………ふぅ。
「正親町三条様!一緒に食事にしませんか?」
ふむ……。そう言えば次はお昼休みか……。俺は一食や二食抜いた程度どうってことはないけど、自分の食事についてはまったく考えていなかった……。食べなくてもどうってことはないけど、まったく考えもしていなかった自分の考えの足りなさに溜息が出る。
今回はちょっと一日茅さんの様子を見守るだけだから良いけど、もしもっと長く対象に張り付いて監視しなければならない状況だったならば?自分の補給のことも考えずに行動していたなんて馬鹿にも程がある。
今回は短いからいいじゃないかではなく、最初にそのことに考えが至らなかった発想のなさ、考えの至らなさが問題だ。そういう考えがないともし次に長い監視の任務になった時にまた忘れてしまうだろう。今回のことを教訓にしっかり覚えておかなければならないことだな。
「ごめんなさい。私は食堂は利用しないの」
「あっ、はい……。そうですよね……。すみませんでした」
茅さんにピシャリと断られて落ち込んだ表情ですごすごと引き下がる。茅さんの言うことはそうなんだろうけど、それにしても何かあそこまできっぱり断られると少し可哀想な気もしてしまう。茅さんが他のクラスメイト達とイチャイチャしている所を見せられるのも嫌な気がするんだけど、茅さんの評判が下がったり、嫌な人だと思われるのも何か嫌だ。
ちなみに中等科と高等科の新しい食堂は来年度からオープンらしい。だから現時点ではこちらの食堂はまだ古い前のままだ。
着替えを終えた茅さんは恐らく教室へ戻るんだろう。廊下の移動中まで全て見守れるわけじゃないから、その間に何かあったらと思うけど、出来るだけ見守れる場所だけは見守って、どうしても無理な所は予想で先回りして待ち伏せるしかない。
更衣室から教室へ戻る間も他の生徒達に見られてはいたけど、特に何か絡まれることもなく無事に教室へと戻ってきていた。俺もまた三階の二年のクラスの窓に張り付く。もちろん外側から……。昼はもしかしたら校舎裏にも来る生徒や教職員がいるかもしれない。午前中のように教室内だけに気を配れば良いというわけにもいかないだろう。
「茅お嬢様、お食事をお持ちいたしました」
「ええ、ありがとう」
そんなのことを考えていると正親町三条家で何度か見たことがあるメイドさんが茅さんの机に昼食の用意をし始めた。あれも一応名目上は『お弁当』ということになるんだろうけど、明らかにどこかで調理して運んできているんじゃないだろうか。
初等科にも調理実習室以外に何故かあちこちにガスや調理場が完備されている部屋が多数存在する。恐らく上位の家の子は学園に言えばそういう場所で調理させた物を昼食にすることも出来るんだろう。
俺達はそういうことをするのが嫌だからと利用したこともないし、具体的にどうすれば良いとか、誰が利用しているというのはまったく知らない。恐らく俺達の学年で言えば伊吹や槐はそういう所で調理させた物を運ばせてどこかで昼食を摂っているんだろう。
茅さんがそういうことをしているのを知るとちょっと衝撃は受けたけど、むしろ俺達の方がおかしいわけで、普通の上位の家ならこれが当たり前なんだろうな……。
「茅、こんな所で食べていないでいつも僕の所へ来るように言っておいたはずだけど?」
「…………」
何だあのチャラそうな男は……。このクラスに押し入ってきたかと思うと茅さんに無遠慮に近づき、何かむかつくことを言ってくる男がいた。もちろん俺も顔は知っている。パーティーなどで何度も会った覚えがある相手だ。あれは……、日野木槿……。
日野家と言えば藤原北家真夏日野流嫡流の名家だ。名家には主に二つの大勢力が存在する。一つは藤原北家高藤勧修寺流。こちらの嫡流は九条家門流の名家で大勢力を築いているとはいえ、他の門流に属する家も多く一枚岩とは言い難い。それに比べて日野流はほとんどの家が近衛門流に属している。
名家は勧修寺流と日野流が多数を占め、その影響力は計り知れない。さらに日野流は近衛門流に関わる者が多く近衛家ですら無視し得ない相手だろう。何故ならば……、日野流嫡流の日野家は……、名家でありながら大臣家はおろか七清家のほとんどの家すら上回るほどの財力を持っているからだ。
日野流は室町幕府との繋がりが非常に強かった。一門から将軍の嫁、御台所を六人も出したほどの家と言えばその繋がりの強さや影響力の強さがわかるだろうか。さらに浄土真宗開祖の親鸞もこの日野家の出だと言われている。本願寺門主の大谷家も日野家の一門であり、こちらも大勢力となっている。
また室町幕府への繋がりなどもあってか、江戸期には徳川家康に仕え名家としてはあり得ないほどの破格の所領を賜っている。そのために日野家の財力は現在でも飛び抜けたものであり、五北家、七清家の一つ菊亭家(今出川家)を除いて日野家、同じく日野流の烏丸家が群を抜いて大きい。
ちなみに日野流の名家で近衛門流に属していないのはこの烏丸家と、椿ちゃんの家である北小路家だけだ。烏丸家は一条門流に属し、北小路家は無所属ということになる。
「無視かい?僕達は許婚だろう?わかったらさっさと来るんだ」
そういって日野木槿は茅さんの机の上に並べられていた皿を掴むとひっくり返し、ベチャリと料理を床に落とした。こいつ……、こんな奴だったのか……。
日野家の長男である日野木槿は高等科三年生だ。確か弟もいたはずだけど弟の方もあまり印象にない。高等科二年である兄や茅さんは俺達が一年生の時に六年生だったからギリギリ同じ学校に通っている。それだけに顔を合わせることも多かったし接点もそれなりにある。
それに比べてそれよりさらに一つ上の木槿と俺はほとんど顔を合わせたことがない。ギリギリ同世代と呼べるのは兄や茅さんくらいまでで、それより上の世代は別の世代という認識だ。パーティーなどで顔を合わせることはあるけど、世代が違うと簡単な挨拶以外はほとんど付き合いがない。
だから俺は木槿がこんな奴だって知らなかったけど、兄や茅さんにとっては木槿は昔から一つ上の学年にいる目の上のこぶだったことだろう。パーティーでは他の大人の目もあるから大人しくしているようだけど、学園でのこの態度は何だ。こんな傍若無人が許されて良いのか?
「貴方と許婚になった覚えはありません。嘘を吹聴しないでください」
おおっ!?茅さんが……、あの茅さんがあんなことをされても静かに、冷静に対処している!?
俺のイメージだと茅さんがあんなことをされたらすぐに怒り狂うかと思っていたけど、料理をこぼされても木槿を無視したまま次の料理を静かに食べていた。木槿はむかつく奴だけど茅さんもこういう対応が出来るんだな。それにどうやら日野家が勝手に茅さんを許婚と言ってるだけのようだ。
「僕にそんな態度を取って良いと思っているのかい?名前だけの正親町三条家なんて、僕がその気になればなくなってしまうかもしれないなぁ?ねぇ?茅?」
いやらしい笑みを浮かべて木槿は茅さんの髪に手を伸ばす。そういうことか……。
さっきも言った通り日野流の影響力や日野家の財力は馬鹿に出来ない。何しろ西園寺家や徳大寺家、久我家ですら上回る財力を持つ。さらに名家の一大勢力であり、そのほとんどが近衛門流に属しているために近衛家でも下手な対応をするとまずい相手だ。ただし家柄は劣る。
公家というのは単純に財力が上だから上に立つとは限らない。まぁ武士なんかもそうだろうけど、家柄とか役職というのが非常に重きをなす。どれほど金を持っていようと成金は成金、立場が低ければ頭も下げなければならない。社長より部長の方が金持ちでも部長が社長に頭を下げるのは当たり前というわけだ。
現代社会ではそんな地位や家柄や役職なんて関係ないと思うかもしれない。でもどちらの方がより金持ちであろうと社長が部長に頭を下げることはない。そういう位置関係は今でもある。もちろん日野家だって昔から続く名門の名家だけど、立場の上では大臣家や七清家には敵わない。
だからその名誉を手に入れることにしたんだ……。茅さんを娶ることで正親町三条家という看板を……。
近衛家としても日野家の伸張は笑って見過ごせない事態だろうけど、他の派閥門流の家と繋がられるよりは、同じ近衛門流同士で結びついてくれる方が安心出来る。正親町三条家としても日野家の財力や日野流の影響力は欲しい。近衛、正親町三条、日野の各家にとってはこの婚姻は最善ではないにしても次善くらいには良い手だ。
茅さん……。こんな男に言い寄られていたのか……。しかもこれじゃ茅さんは断れない。家格で正親町三条家の方が上でも、実力的には日野家の方が上だ。しかも近衛家の許可があるとなれば正親町三条家は断れないし、断る理由もない。茅さんの気持ち以外……。
ついに木槿の手が茅さんの綺麗なストレートの髪に触れそうに……。
「私に触らないで頂戴!私に触れて良いのは、咲耶ちゃんやそのグループの子達だけよ!」
「ぐあぁっ!いでででっ!やっ、やめろ!放せ!」
木槿の手が茅さんの髪に触れそうになった瞬間、茅さんはその手を取って捻り上げ、立ち上がって木槿を周りにあった机に押さえ付けた。いくら茅さんでも日野家の嫡男にそんなことをしたらタダでは済まないはずだ。だから料理をこぼされても耐えていたはずなのに……。
「私と貴方は許婚でも何でもありません。それは貴方が勝手に吹聴しているだけです。そして私に触れて良いのは私が心を許した者とお友達だけです。貴方のような汚らわしい者に触られるなど想像するだけで虫唾が走ります」
やだ、茅さん格好良い……。何か胸の辺りがキュンキュンしちゃう!
「さすが正親町三条様ね!」
「茅お姉様素敵~っ!」
あっ、やっぱりね。周囲からも黄色い声援が上がっている。皆も茅さんを応援しているようだ。まぁあの日野木槿の態度じゃなぁ……。
「はっ、放せっ!」
「…………」
茅さんはパッと木槿を放した。すると木槿はクルリと茅さんに向き直ってから三下みたいな台詞を口にした。
「ぼっ、僕にこんなことをしてタダで済むと思うなよ!」
「…………」
「覚えていろ!」
そう言われても冷たい表情を一切崩さない茅さんの圧力にたじろいだ木槿はそう言って教室から出て行った。周囲からワッと声が上がる。どうやら周囲のほとんどは茅さん寄りのようだ。でもこれはまずいな……。
確かに家格は正親町三条家の方が高い。でも財力では圧倒的に劣る。そして近衛門流内での影響力も日野家の方が強い。いくら茅さんが強気に出ても、正親町三条家と日野家のどちらが有利かは明白だろう。正親町三条家だけで日野家と争うことは出来ない。でも味方を巻き込んで争うと大事になる。何より日野流は数も多く勢力が大きい。どちらにしろ結果は明白だ。
「正親町三条さん!格好良かったよ!」
「茅お姉様ぁ~っ!」
「日野先輩は前から気に入らなかったんだ!スカッとしたよ!」
まぁ……、今くらいは茅さんの格好良かった所を覚えておけば良いか。問題はまた後で考えよう。どうせこんなのも昨日今日始まったことじゃないんだろうし……。
茅さん、格好良かったよ。ちょっと胸がドキドキしてキュンとしてしまった。本当に茅さんは格好良い女性だね。
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放課後まで茅さんのことを見守っていたけど、結局日野木槿はあれ以来ちょっかいをかけてくることもなく静かなものだった。キリッとした表情の茅さんが颯爽と高等科の校舎から出て行く。まだホームルームも終わっていないのに、最後の授業が終わってすぐに教室を出た。やっぱりこういうことをしていたようだ……。
そして初等科のサロンにやってきた茅さんは……。
「どうしてぇ~~~っ!?何故咲耶ちゃんがいないのぉ~~~っ!」
ビービー泣いていた……。
さっきまで格好良いと思っていたのに……。最後の最後で全部台無しになってしまった。俺のクラスのグループの子達には今日はいないと伝えていたけど、そういえばサロンの子達や茅さんには言うのを忘れていた。
何か最後でまた茅さんの可愛い姿が見られたけど……、それでもやっぱり頼りになるお姉さんというのは変わらない。許婚を名乗る日野木槿の問題もあるけど、今日は茅さんの色々な表情が見られてよかった。それに……、日野家との問題も知れてよかった……。
今まで茅さんはそんな様子を微塵も見せていなかったけど、やっぱり俺達に心配をかけないように気丈に振舞っていたのかな……。でも心配しないで茅さん。俺が知ったからにはどうにかするから……。