第三十七話「追放」
扉を開け放ったまま俺達三人が驚いて立ち止まっていると茅さんの視線がギギギッとこちらを向いた。あれは完全に俺がロックオンされている。それくらいは俺にだってわかる。
「あなたが!あなたのような人が!」
そう言いながらツカツカと茅さんが俺に向かって歩いて来た。そして手を振り上げる。
「ヒョイっと」
「――ッ!」
あ……、つい咄嗟に避けてしまった……。茅さんは何故か俺の目の前に来てからビンタをするように手を振り上げてきた。まさか五北会のメンバーが大勢の人の前で、それも六年生が一年生相手に暴力を揮うとは思えないけど……。今のはどういう意味だったんだろう……。やっぱり俺をビンタするつもりだったのか?何故?
さっき断片的に聞こえてきた会話からすると茅さんは俺がこのサロンにいることが許せないということかな。近衛家の門流である正親町三条家の茅さんは俺が伊吹に掌底をお見舞いして背負い投げしたことを怒っているようだ。そんなことをした俺がサロンでのうのうとしているのは許せないと……。
でも茅さんも今俺に暴力を揮おうとしたよね?それだと俺が人に暴力を揮うような者だから五北会に相応しくない、ということじゃなくて、近衛伊吹に暴力を揮ったから許せない、でも近衛門流は他の者に暴力を揮っても良い、という意味になってしまうんじゃないだろうか?
俺から言わせれば伊吹をあんな目に遭わせたのは伊吹にも原因があったと思う。女の子である薊ちゃんを意味もなく突き飛ばしたんだからな。伊吹には伊吹なりの理由や事情があったとしてもいきなり問答無用で薊ちゃんを突き飛ばしたのは伊吹であって反撃されても文句も言えないと俺は思う。
ただ俺だっていくら反撃とはいっても伊吹に同じようなことをしたわけで俺が暴力を揮ったという批判は甘んじて受けよう。だけどこれが『近衛伊吹に暴力を揮った』から許されないのであって『近衛門流の者は他の者に暴力を揮っても良い』というのなら黙っているわけにはいかない。
「こっ、このっ!何を避けて……」
「正親町三条様……、今のは私を叩こうとしたということでよろしいですか?」
また手を振り上げようとしていた茅さんを真っ直ぐ見詰めながらそう問いかける。その手が途中で止まって茅さんが口を開いた。
「近衛様にあのような狼藉を働いた者に相応の償いをさせて何が悪いのです!」
「私が近衛様に掌底を叩き込み背負い投げしたことは否定しません。それで私が暴力を揮うような者だから五北会に相応しくないというのなら出て行きましょう」
「ふっ、ふんっ!今更そんなことをいってご機嫌を取ろうとしてもそれだけで許してもらえるとは思わないことですね!ですが自発的に出て行くというのなら多少は情けもかけてあげましょう」
俺の言葉を聞いて茅さんは得意満面という感じに手を組んで踏ん反り返っていた。でも俺はそこで終わって出て行くというだけのつもりはない。
「暴力を揮うような者がこの場に相応しくないと言われるのでしたら今まさに暴力を揮った正親町三条様も五北会から追放されるということでよろしいですね?」
「…………は?」
茅さんは言葉の意味がわからないという感じでポカンとしている。でも次第に言葉の意味が理解出来てきたのか徐々に顔は怒りに染まり出した。
「私は近衛様に暴力を揮ったあなたを成敗しようとしただけです!」
「ならば誰かが誰かに襲われたことへの反撃であるならば許されるということですか?」
「そうです!近衛様が襲われたのですからこれは正当な行為です!」
ふむふむ……。もう半分墓穴だな……。まぁ普通の小学校六年生くらいだったらこんなもんか。
「皆様がどこから見ておられたのかは知りませんが近衛様は何の理由もなくいきなり薊ちゃんを後ろから突き飛ばし私にまで襲い掛かってきました。ですから私は正親町三条様の言われる反撃で正当な行為で近衛様の魔の手を振り払っただけです」
「なっ……」
「「「「「…………」」」」」
俺の言葉に茅さんだけじゃなくてサロンに居た者達のほとんどがうろたえて視線を彷徨わせた。チラチラと伊吹を見ている視線がある。
「確かに俺の方が先に徳大寺薊を突き飛ばした。悪かった!」
周囲の視線を受けて伊吹は薊ちゃんの前に来てから頭を下げた。何か謝ったっていう感じはしないけどそれでも『俺様王子』伊吹が自らの非を認めて頭を下げるというのは相当なことだ。サロンのメンバー達も驚きを隠せないとばかりに動揺している。
「私はもう気にしていませんから頭をあげてください」
薊ちゃんは余裕の態度で伊吹に頭を上げるように言う。少し前までの薊ちゃんからは考えられない。少し前までの薊ちゃんはもっと……、色々余裕がないというか、計算尽くで行動していたというか……。
母親に近衛家と結婚しろと強迫観念を植え付けられていた薊ちゃんなら、こんなことがあればうまく利用して伊吹との結婚に有利に結び付けなければとか考えて無理していたんだろう。でも今の薊ちゃんはそんなことを考えていないから本来の裏表がなくてさっぱりした性格が表に出ている。これこそが薊ちゃんの魅力だろう。
「そっ、それが何だというんです!例え近衛様が徳大寺家に手を上げたのだとしても!近衛様に手を出すことは許されません!」
そう言って再び茅さんは手を振り上げてきた。今度は避けずに掴んで捻る。ここまで言って、ここまでしてくる相手にはもう遠慮はいらない。師匠の教え通りにやるなら腕を捻って壊しながら投げ飛ばして追い討ちに一緒に倒れこんでアバラに肘を落として折ったり、倒れた相手の上から急所を蹴ったり殴ったりする。
まぁさすがにそこまではやりすぎだろうと思うから軽く腕を捻って身動きを封じるだけだ。怪我をさせないようにやんわりと身動きを封じてやった。
「手を出されれば鼠でも猫を噛むことがあります。手を出すということは相手から反撃される可能性もあるということです。このように……」
「くっ!」
後ろに手を捻って動けなくした茅さんの後ろからお腹をポンポンと触る。流石に六年生と一年生だから身長差があって顔を殴るのは面倒だからだ。出来なくはない。後ろから膝を蹴って跪かせれば良い。というか最初の拘束の時点で普通なら地面に這い蹲らせたりするものだ。
今はそこまでしていないから手の届きやすいお腹をポンポンしただけにすぎない。決して、俺が、いやらしい気持ちで、女の子のお腹を触ったとか、そういうことは決して!決してない!断じてない!
そもそも?ちょっとおっぱいが膨らんできたり女の子から徐々に女性になりつつあるとはいっても所詮小学校六年生だし?俺からすればただの子供だ。俺はロリコンでもペドでもないからな。違うから!
「私が人に暴力を揮ったから五北会のメンバーに相応しくないと言われるのでしたら甘んじて受けましょう。ですがそれはつまり薊ちゃんに手を出した近衛様も、私に手を出した正親町三条様も、皆がこの五北会のメンバーに相応しくないというのならの話です」
「近衛様は五北会の中心ですよ!何をふざけたことを言っているのです!」
腕を捻られて後ろから俺に身動きを封じられている茅さんは、それでもそう言い切った。
「それは即ち例えやられたから身を守っただけだとしても近衛様や近衛門流の方に反撃しただけの者でも許されず、近衛様や近衛門流の方は他の門流の者に暴力を揮っても許される、そう主張されているということでよろしいですか?」
「――ッ!それは…………」
茅さんはそこで言い淀んだ。心の中ではそうだと思っているのかもしれない。一番数が多く、一番力があり、これまで一番藤花学園や五北会に貢献してきた近衛家や近衛門流は他の門流より上であり何をしても良い、と思っているのかもしれない。
でもここでそれを言ってしまうということがどういうことであるのか……。頭に血が昇っていた茅さんでもそれくらいはわかったのだろう。そこから先の言葉は紡がれることがなかった。今の俺の言葉を聞いて明らかに他の門流の人達の茅さんを見る目が厳しくなっているからだ。今の雰囲気もわからずに『ソレ』を言ってしまうほど茅さんも愚かではなかったということだろう。
掴んでいた茅さんの腕を離して拘束していた体を自由にする。もうちょっと女の子のお腹を触っていたか……、ったわけじゃない。俺はそんな変質者でもないし別に茅さんのことが好きということもない。どうせなら薊ちゃんや皐月ちゃんの方が……、でもなくてですね!わたくしはロリでもペドでもないんでね!
「それでは皆様、短い間でしたがお世話になりました。御機嫌よう」
俺はそう言って頭を下げてから五北会のサロンをあとにした。振り返りはしない。だって……、今振り返ったら…………。
このニヤニヤしている顔を見られてしまうから!
いやっほぅい!これで五北会から抜けられるぞ!しかも向こうからやめろというんだから誰憚ることもなくやめられる!
そりゃこれからの学園生活で『五北会を追放された者』という目で見られるのは色々と都合が悪いだろう。それにいくら向こうから追放してきたと言っても母は怒るかもしれない。あのパーティー以来未だに口をきいていない母がますます怒ることになるだろう。最悪俺は家から勘当されるかもな。
そうなると藤花学園にも通えなくなって……、薊ちゃんや皐月ちゃん、茜ちゃんも椿ちゃんとも……、皆……、皆と会えなくなって……。これから出てくるはずのまだ出会っていない『恋に咲く花』の登場人物達とも出会えず……。
あれ……。何だろう……。面倒な五北会から離れられるはずなのに……。うれしいはずなのに……。この気持ちは何だろう……。
俺はやっぱり……、『恋に咲く花』が……、好きなんだ……。
その大好きな『恋花』の世界で生きることが出来てうれしかったんだ。伊吹に絡まれるのは面倒だと言いながら、槐が白雪どころか腹黒じゃないかと言いながら、そんなことですらどこか楽しいと思っていた。遠い昔に忘れてしまった子供の頃の馬鹿騒ぎのようで……。
それにようやく本当の意味で仲良くなれた薊ちゃんとも会えなくなる。まだちょっと距離を感じる皐月ちゃんと仲良くなる機会も失われてしまう。他の取り巻きの子達ともまだ本当の友達になれたわけじゃない。これから出てくるはずの他の攻略対象やライバル令嬢達、それに……、ゲームの主人公……。
もう……、会えないんだ……。俺は……、ここでゲームオーバー……。
「待って!」
後ろから人が駆けてくる音が聞こえる。その声が誰のものであるのか確かめるまでもない。
「待ってください咲耶お姉様!」
「薊ちゃん……」
追いついて来た薊ちゃんは俺の前に回って両肩をがっちりと掴んできた。真っ直ぐにこちらを見詰めてくる。
「咲耶お姉様が五北会をやめられるのであれば私もやめます!」
「薊ちゃん……、ありがとう……。でも駄目でしょう?薊ちゃんは薊ちゃんのために行動しないと、ね?そうでしょう?」
俺のことで薊ちゃんまで巻き添えにするわけにはいかない。だから出て行くのは俺だけでいい。
「咲耶ちゃん…………」
さらに、後ろから声が聞こえた。その声の主も振り返って確認するまでもなく……。
「九条さん」
「咲耶」
槐が、そして兄の声も聞こえる。皆……、追いかけてきてくれたんだ……。それだけで胸が一杯になって詰まりそうだ。
「おい!誰が抜けさせるなんて言った!勝手にやめられると思うなよ!」
「ほらまた伊吹は……。そんな言い方ばっかりするからお前は女の子にモテないんだよ」
伊吹の言葉に水木がヤレヤレと応える。確かに水木は小学六年生とは思えないような女垂らしだけど……。
「皆さん……」
俺が振り返ってみればそこには……、薊ちゃんが、皐月ちゃんが、兄、良実君が、怪しい水木が、何か裏がありそうな槐が、そして……、面倒臭いことこの上ない、俺の一番の天敵、伊吹が……。
「咲耶をやめさせたりはしない!俺が許可しないんだからやめられると思うなよ!」
「私は咲耶お姉様が行かれる所へついていくだけです」
「鷹司の票は全て僕の言う通りにさせるよ」
「そうそう。勝手には決められないからね。決を採るならこれだけの派閥が集まれば何でも通るよ」
「もちろん九条門流は全て咲耶の追放に反対させるよ」
「私に出来ることはあまりありませんが……、それでも咲耶ちゃんを追放なんてさせませんよ」
「――ッ!」
皆の心遣いが……、沁み込んでくる。あんなに嫌だったはずなのに……、抜けられて清々すると思っていたはずなのに……。
「ありがとうございます皆さん……。私は……、そこに居ても良いのでしょうか?」
「「「「「「もちろん!」」」」」」
流石に涙は流さない。だけど……、晴れやかな気持ちで俺はまた皆の輪の中に加わったのだった。