第三百七十六話「三人衆密会」
抜き足、差し足、忍び足……。咲耶が修学旅行から帰ってきたその日の夜、九条家の屋敷の廊下をコソコソと進む不穏な影があった。
カチャッ……、キィ……。
静かに扉を開けてスルリと室内へと忍び込む。またそっと静かに扉を閉めてその影が目指す先は、広い部屋に置かれた天蓋のついた大きなベッドだった。
「(ハァ……、ハァ……)」
そっと息を殺して眠っている人物の顔を覗き込む。灯りのない暗い部屋でははっきりとは見えないはずだが、それでも薄っすらとした月明かりの下でも眠っている人物が、常識では考えられないほど美しい天使と見紛うほどの美少女であることがわかる。
「(ハァ……、ハァ……。ゴクリッ)」
その美しい寝顔を見ているだけでご飯何杯でもいけてしまう。しかし今はそれどころではない。異常に勘が鋭いこの少女を相手に下手なことをしていてはすぐにバレてしまう。
「(いっ、今はそれよりも……)」
部屋に侵入した影は再び足音を立てないようにベッドの足側へと移動した。そしてモゾモゾと布団の中に入っていく。布団の中に頭を突っ込んだ影はそこでようやくペンライトを取り出した。目的を果たすためにはさすがに布団の中は暗すぎる。布団に包まれていればこの程度の灯りなら外には漏れないだろう。
影はモソモソと布団の中を這って進み、ようやく目的の場所に辿り着いた。それは眠っている少女の下半身。そっと手を伸ばしてそのパジャマと下着に手をかけようとして……。
「――ッ!?」
伸ばした手をガシッ!と掴まれて影が驚いた。
「椛……、何をしているのですか?」
顔を上げてみれば、布団の前から先ほどまで眠っていたはずの美少女、九条咲耶がじっとりした目で布団の中を覗いていた。
夜中に咲耶の部屋に侵入した椛は、咲耶の布団に潜り込み、今まさにパジャマと下着を脱がせようとしていた。その手を咲耶に掴まれた椛は焦って……、は、いなかった。
「何やら修学旅行の間に咲耶様が『大人』になってしまわれたのではないかという疑いがありましたので、『膜』を確認しに参りました」
「…………は?」
椛の言葉に咲耶はポカンとしたまま固まる。
「ああ!仮に咲耶様の『膜』がもう誰かに奪われてしまったのだとしても私の咲耶様への忠誠心は変わりませんよ!私が愛しているのも忠誠を誓っているのも『膜』ではありませんからね!」
「椛……」
「はい!」
「出て行きなさい!」
「え……?え……?」
感動に打ち震えた咲耶に抱きしめられると思っていた椛は、半ば強引に部屋から放り出されて放心状態となった。
確かに咲耶の『膜』を確認しようとは思っていたが、『膜』がなくなっているからといって咲耶への愛も忠誠心も変わらない。ただ少し確認したかっただけなのに……。自分は良いことを言ったはずなのに何故咲耶様があれほど真っ赤になって自分に怒鳴り、部屋から追い出したのかわからない。
わからない椛は夜中一晩中咲耶の部屋の扉の前で途方に暮れていたが、早朝に他の家人に見つかってどこかへ引き摺られていったのだった。
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「…………ということがあったのです。どうして咲耶様は私を追い出されたのでしょうか……」
ほぼ一週間かけて修学旅行に行き、昨日の土曜日に咲耶達は帰ってきた。修学旅行の疲れもあるであろうことから今日は咲耶は一日休みとなっている。本来ならば家でゆっくり休んでいるはずの咲耶の傍で一週間ぶりにあれこれしようと思っていた椛は、今日一日咲耶に暇を出されて九条家の家から放り出されてしまった。
「自分の立場を利用して咲耶ちゃんの寝室に忍び込むだなんて!貴女それは犯罪よ!」
「そうね……。普通にメイドの立場を利用した犯罪よね……」
椛に呼び出された茅と菖蒲のアダル……、ともかく三人衆は、正親町三条家のサロンでお茶を飲みながら話していた。その場には三人衆ではないが杏の姿もある。
「私の予定では咲耶様が帰られた昨日は共にお風呂に入り、旅行での汚れを隅々まで私が洗い流し、久しぶりに戻られた咲耶様が私に抱き付いて甘えたまま一晩を同じベッドで過ごすはずだったのです!それなのに一緒の入浴も断られ、同じベッドで眠ることも断られ、止むを得ず『膜』だけでも確認しようと思ったらこのような仕打ち……。一体咲耶様はどうされてしまったのでしょうか」
「いや……、貴女の頭がどうなってるのか心配だわ……」
菖蒲は『はぁ……』と溜息を吐いて首を振る。椛は普通ではないとは思っていたが思っていたよりもヤベー奴じゃないのかと考えを改めることにした。
「一条椛!貴女は犯罪者よ!その自覚もなく咲耶ちゃんの傍に仕えているなんて!貴女は危険だわ!」
茅の言葉に菖蒲もウンウンと頷く。どうやら茅は最低限の常識くらいは弁えているらしい。
「でも一つだけ良い情報を教えてあげるわ!咲耶ちゃんの『膜』は無事よ!それどころか咲耶ちゃんが次々に手下達を手篭めにしたようよ!これがその時の映像よ!」
「うんう……、え?」
さらに頷きそうになった菖蒲は何かおかしいと思って途中で止まった。そして椛と共に茅が差し出した画像を見てみれば……。
「えっ!?これって……」
「咲耶様が手下達の背中を流しておられるなんて!」
違う。そうじゃない。
そこじゃない。驚くべきことは何故六年生達の修学旅行の写真を茅が持っているのかということ。しかもそれは温泉か何かの大浴場内の写真だ。これは明らかに盗撮写真だろう。完全に犯罪だ。メイドの立場を利用して咲耶の部屋に忍び込んだのも犯罪だろうが、この盗撮は言い訳のしようもなく完全なる犯罪だ。
「咲耶ちゃんがあんな小娘達に手篭めにされるわけないでしょう!」
「それもそうですね……」
二人は自分達が何をしているかわかっているのだろうか。菖蒲が二人を危険な存在として見ていると杏と目が合った。もしかして杏はまだ普通かもしれない。菖蒲はその期待を持って杏とアイコンタクトをしてみたが……、杏はニコッと笑ってカメラを構えた。
(あっ……、駄目だ、こいつら……)
こんな犯罪者集団に関わっていたら、いつか自分まで犯罪者として捕まってしまう。これはこの三人衆も解散してさっさと離れた方が良い。菖蒲はそんな算段をつけ始める。
「ところで……、この写真はどうしたのですか?」
「私にもあちこち目や耳がいるのですよ」
つまり……、今回の修学旅行のどこかに茅の手の者が入り込んでいたということだろう。咲耶のクラスメイトの中に茅の言いなりにされている者がいるのか、旅館やホテルの従業員を買収したり脅したりしたのか、手段や誰がかはわからないが、何らかの方法で修学旅行中の咲耶達を撮影したり監視したりしていたということになる。
「この写真や映像……、私にもよこしなさい」
「あら?どうして私が苦労して手に入れたお宝を貴女に分けなければならないのかしら?」
「ぐぬぬっ!」
「うぬぬっ!」
椛と茅の視線がぶつかる。しかしそこでふっと椛が余裕の笑みを浮かべた。
「そんな態度を取って良いのですか?貴女の写真や映像など所詮はコピーすればいくらでも増やせます。その手間など知れたものでしょう。ですが私が提供出来る物はコピーして増やすなどということは出来ない唯一無二の物……」
「ふんっ!貴女が一体何を出すというのです?」
椛の挑発に茅が乗る。そしてその先の言葉を聞いた瞬間、茅は打ちのめされていた。
「修学旅行中に咲耶様がご使用になられた下着とタオル……。小学六年生の修学旅行で使用した品というのはもう二度と手に入りません。そのうちの一部……、データと交換に譲って差し上げても良いと思っていたのですが、どうやら貴女には必要ないようですね」
「まっ、待って頂戴!交換!交換しましょう!ね?」
椛が言う通り、データのコピーなど簡単だが実際に咲耶が使った品々というのはコピーして増やすというわけにはいかない。それも特定の思い出の品となればもう二度と手に入らない一品物だ。日ごろ使用している下着やタオルでも同量の金と同じだけの価値があるというのに、特定の思い出の品ともなればその価値は計り知れない。
最早勝敗は決した。確かに盗撮するのは難しかったかもしれないが、その苦労をしたのは撮影してきた者達だ。茅は実際に自分で何の苦労もしていない。しかも簡単にコピーして増やせるのでその価値は薄れる。咲耶が修学旅行で使用した品々とでは価値が違う。
(本格的にこの子達駄目だわ……)
菖蒲はどうやってこの集まりから逃れるか。自分も巻き込まれて捕まる前に一刻も早く離脱しなければならないとますます決意を固めた。
「動画もあるんでしょう?写真だけじゃなくて動画もコピーしてね。それと私はバスタオルと下着だけでいいわよ」
「「「…………」」」
菖蒲の言葉に椛、茅、杏の視線が突き刺さった。
「貴女は何も苦労していないでしょう?」
「それに何も出さないではありませんか」
菖蒲の要求に椛と茅が冷めた視線と言葉を向ける。確かにデータのコピーは簡単だが、だからといって何も貢献せず、何も対価を出さない者にホイホイとあげる理由はない。また修学旅行で使用したタオルや下着には数に限りがある。椛もデータとの交換なら多少放出することは止むを得ないと思うが、何の貢献も交換もない菖蒲に差し出す理由はない。
「あ~ら、それなら今までのことを全て咲耶ちゃんに話してみましょうか?」
「ぐっ!」
「なっ!?」
菖蒲の言葉に椛と茅の表情が歪む。その言葉はどんな言葉よりも破壊力を持っていた。
「咲耶ちゃんがこのことを知ったらどうなるかしら?貴女達だって咲耶ちゃんに知られたらまずいという自覚くらいはあるから、こうして裏でコソコソしているのでしょう?咲耶ちゃんに知られたら……、データも持ち物も全て没収された上に軽蔑されるでしょうね。もしかしたら今後もう二度と顔も合わせてくれないかも?」
「ああぁぁぁっ!」
「そんな……、そんなっ!」
椛と茅は菖蒲の言葉で一瞬にして恐慌状態に陥った。二人にとっては咲耶と接することが出来ない世界など何の意味もない。それは人類滅亡や世界の破滅よりも重大なことだ。
「それに貴女達短絡的すぎない?私だって私だけが咲耶ちゃんから得られる物もあるのよ?今ここで私を排除するというのなら……、今後は私から貴女達に提供出来る物だって私が独り占めしてしまうわ。それを皆でシェアしましょうというのがこの集まりの意義ではなかったかしら?」
「それは……」
「う~ん……」
椛と茅は計算する。データが広まりすぎれば価値は下がる。しかし自分達は外にデータを拡散させたりはしない。この三人、いや、四人で共有しているだけだ。取引ごとにデータをちらつかせてこのメンバー相手に高く売りつけることも出来るかもしれないが、一人に売ればその一人がもう一人に別の物と引き換えにまた売るかもしれない。
どうせどちらかにデータを売った時点でコピーしてもう一人にも流れる可能性があるのならば、今この場で取引出来る材料がなかったとしても、同時にデータを売っておいて貸しにでもしておく方が自分にとって利益があるかもしれない。
椛にとっても日々積み重なる咲耶の使用済みの品はかなり多い。確かに修学旅行の品というのはもう今後二度と増えない貴重な物ではあるが、五泊六日もしてきた品にはそれなりに余裕がある。それならば先渡しという形にはなるが菖蒲に先に物を渡して貸しにしておいてもそれほどデメリットはない。
「いいでしょう」
「貴女にもデータをあげましょう」
椛も茅も菖蒲の利用価値を考えて先渡しすることに同意した。あまりに貸しばかり積み重なれば今後先渡しすることを渋るかもしれないが、とりあえず今先渡ししてもそれほど困ることはない。
「自分には咲耶たんの使用済みはもらえないんすか?」
「「…………」」
「わかりました。貴女にも一組渡しましょう」
杏の言葉に椛は頷いた。今回の映像は恐らく杏が撮ってきたものではないだろう。杏が同行していたり潜んでいたのなら咲耶に気付かれたはずだ。だから今回の撮影者は別だとは思うが、だからといって杏が必要ないわけでもない。
日ごろ茅が集めているデータの撮影者は杏が多い。その杏を引き止めておくことは今後の写真や映像を入手する上で重要な意味がある。
「ふっふっふっ」
「うふふっ」
「おほほっ」
「へっへっへっ」
結局菖蒲も他の三人と同じ穴の狢だ。お互いに悪い顔をしながら四人の密会は続いたのだった。