第三百五十六話「自分の体臭はわからない」
リレーでの伊吹の行いのお陰で色々と面倒なことになった。学園ではひそひそとその話題が上っているようだし、俺に直接何かを言ってくる者はいないけどひそひそと俺達に関する噂話をされていたら良い気はしない。
それでも被害者側である俺が伊吹に何も言っていないから、周囲の噂話も徐々に下火になってきているようだ。最初の頃は伊吹に対して眉を顰めていた者も多かったみたいだけど、俺が何も言わないんだから周りが何か言うことでもない。
運動会明けの初日こそ結構話題になっていたけど、こちらの初動が良かったお陰かすでに噂話も沈静化しつつある。まだ油断は出来ないけどこのまま収まりそうだ。
「御機嫌よう、菖蒲先生」
伊吹のことについてはまだ頭を悩まされているけど、とりあえず学園とは関係ない蕾萌会なら少しはゆっくり出来るだろう。
「咲耶ちゃん!話は聞かせてもらったわ!近衛家は破滅する!」
なっ……、なんだって――――!!
じゃなくて……。
「菖蒲先生……、どうして突然そのような……」
何故そんなことを言い出したのかはわかる。たぶん伊吹の運動会での行いを聞いたんだろう。ただ問題はそれと近衛家の破滅に一体何の関係があるのかということだ。
「それはね……」
「それは……?」
声を潜めた菖蒲先生の言葉に耳を傾けながらゴクリと唾を飲み込む。一体何を聞かされるんだろうか……。
「それは……、何となくよ」
「何となく……」
何となく?なんとなく……。
「えっ!?それだけですか?」
「ええ。それじゃ今日はこのテキストから始めましょう」
「えっ!?」
駄目だ……。菖蒲先生が何を言っているのかさっぱりわからない。俺にはわからない何かの暗号なんだろうか?とにかくこの急展開についていけないまま、でもいつも通りにテキストを解いていったのだった。
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運動会が終わって少し経ち、あの話ももうかなり下火になってきている。まだ場合によっては話題に上ることもあるんだろうけど、最初の頃ほど大きな話題にはなっていないようだ。
伊吹の方は槐が抑えてくれているからか、ここのところはかなり大人しい。それに本人も『つい』にしろ『咄嗟』にしろ、あんなことをしてしまったという負い目があるようだ。ついでにこのままずっと大人しくしてくれていたら俺としても大変助かるんだけど……、まぁそこまでは甘くないだろう。
リレーの件に関してはもうこちらから何か言わない限りは問題になることはなさそうに思う。これで俺の狙い通り鎮静化してくれたのなら万々歳という所だろう。
これでようやく二学期の大イベントのうちの一つ、運動会も終わったと言える。後は十月下旬の二条家のパーティーと、十一月の修学旅行に備えていけばいい。でも……、本当にそれだけでいいんだろうか?
学園行事としては修学旅行、五北会メンバーとしては二条家のパーティーが重要だというのはわかる。でも俺には一つ心残りがある。それは睡蓮との関係についてだ。
六年生もあっという間に過ぎてもう十月も中頃になっている。もう六年生の半分が終わってしまっているということだ。それなのに俺と睡蓮の関係は昔のまま進展がない。
別に俺は睡蓮と恋人同士になりたいとか、甘い関係になりたいと思っているわけじゃない。でもこのまま卒業してしまって良いのか?今のままで良いと言えるのか?これは俺が五年生の末頃に思ったことと同じことだ。
五年生のあの時、俺は五北会であんな風に周囲から避けられたまま卒業して良いのか?と思った。だからこちらから積極的に話しかけることにして、今では五北会のメンバー達とも派閥、門流を超えて普通に話せるようになったと思う。それは俺が自分を変えることを誓い、皆に話しかけていった成果だと思っている。
それに比べて睡蓮と俺との関係は最初の頃からあまり変わっていない。確かに睡蓮とも話せるようになったけど、睡蓮の性格からすると元々話しかければ今くらいに話してくれていただろう。だから当初の距離感から何も変わっていないとすら言える。
俺はこのまま残りの半年間を過ごして睡蓮と別れて後悔しないだろうか?俺は絶対に後悔すると思う。
お互いの相性というものはどうしてもある。別に喧嘩したわけでもないのに妙に合わない、気に食わない相手というのはいるだろう。でも俺と睡蓮はお互いに相性が悪いかどうかすらわからない地点で止まってしまっているように思う。
せめてお互いに歩み寄ろうとして、それでも無理だったら諦めるという形にしたい。最初から何もせずただ相性が悪いと決め付けて、そのままうやむやのうちに初等科を卒業して離れ離れになるというのは嫌だ。それだと俺はずっと心残りで後悔するに違いない。
「それでね咲耶ちゃん。この前の件について今度のお休みの日にお姉さんと二人っきりでじっくり話し合わないかしら?」
サロンのいつもの席で少し考え事をしているとつい茅さんの言葉を聞き逃してしまった。何のことを言っているのかわからないけど、いきなり次の休みの日に会う約束をしようと言われてもそんな暇はない。
「茅さん……、申し訳……」
「だめですぅっ!茅お姉ちゃんは睡蓮と遊ぶんですぅ!」
「ぅっ……。睡蓮は黙っていなさい……。今は私と咲耶ちゃんがお話ししているのよ」
「だーめーですぅっ!」
何かここのところ睡蓮の強引な茅さんへの迫り方が酷くなっている気がする。今も俺の向かいに座っている二人だけど、睡蓮が茅さんにくっついてもたれかかるようにしながら無理やり話に割り込んできている。
どちらにしろ俺は茅さんと会うことは出来ないし、今の話の間に割って入られたことは問題ないんだけど……、いや、待てよ?この状況をもっとうまく利用出来ないだろうか?
睡蓮が茅さんに懐いているのは一目瞭然だ。大好きなお姉ちゃんに構ってもらいたい甘えん坊の妹みたいな感じになっている。睡蓮からすればその大好きなお姉ちゃんとの間に入ってきているのは俺だと感じているんだろう。だから俺に反発してくることが多い。でも……、この状況は利用出来そうな気がする。
思い立った俺はすぐに席を立ち茅さんの席の隣に立った。そして睡蓮を一度持ち上げて俺の膝の上に乗せながら茅さんの隣に座る。
「少し失礼しますね」
「なっ!何をするんですかぁっ!」
「睡蓮……、なんてうらやましい……」
ちょっと強引に抱き上げて膝の上に座らせたから睡蓮が若干暴れる。でも逃がさないように押さえ込みつつ座って、後ろから少しだけギュッと抱きしめると暴れていたのが嘘のように大人しくなった。
「うぅ……」
「ふふっ、茅さんも……」
大人しくなった睡蓮を挟んで茅さんと体を近づける。俺の膝の上に乗せられた睡蓮は、俺が茅さんに向き直って体を近づけたことで前後を俺と茅さんに挟まれプレスされている。
「おっふ」
「え?茅さん?」
睡蓮を挟んで茅さんと抱き合うように手を回して体を近づけると何か茅さんの口から変な音が漏れた気がした。不審に思って茅さんの方を見てみれば……。
「えっ!?ちょっ!?茅さん?大丈夫ですか?茅さんっ!?」
茅さんの方を見てみれば……、白目を剥いて上を向きながらビクンビクンと何やら危険な痙攣を繰り返していた。てんかんや癪の発作でも起こったのかと思うほど何か危険な症状に見える。
「ちょっ!?誰か!あっ!睡蓮ちゃんは?」
ビクンビクンと変な痙攣を繰り返している茅さんをどうにかしなければと思って睡蓮のことを忘れていた。少しだけ茅さんと体を離して間に挟まっていた睡蓮がどうなっているか。場合によっては睡蓮に助けを呼んでもらおうとそちらを見てみれば……。
「うへへぇ……。茅お姉ちゃんと咲耶お姉様の体……、とっても温かいですぅ……」
「睡蓮ちゃん……?」
睡蓮は睡蓮で何やら恍惚とした表情を浮かべて、熱に浮かされたように何やらうわ言を呟いている。まさか睡蓮にも何かあったのか?茅さんも睡蓮も同時にこんなことになるなんて……。俺は平気なようだけどここに何かあったんだろうか?吸い込んだら危険なガスが漂っていたとか?まさか俺が臭くて二人ともおかしくなったなんてことは……。
いや!違う!そんなことはない!俺は臭くない!はず……。たぶん……?
「咲耶お姉様!?何をしておられるのですか!?」
「あぁ、竜胆ちゃん、良い所に……。二人の様子がおかしいのです。助けを呼んでください」
「様子がおかしいって……。そりゃ咲耶お姉様にこんなことをされたらこうもなりますよ!?どうしてこんなことになってるのですか!?」
えっ!?それってどういう意味?……やっぱり俺が近づいたら臭いのか?自分では自分の体臭がわからないっていうし……、もしかして本当に……。
「そっ、そんな……。わっ、私は……、――ッ!」
「あっ!咲耶お姉様!?」
衝撃の事実を知らされた俺はあまりのショックに、そっと睡蓮を膝から降ろすと席を立ってサロンから飛び出したのだった。
~~~~~~~
あぁ……、ショックだ……。まさか俺の体臭が臭かったなんて……。今まで誰も教えてくれなかったから自分では気付かなかった。椛も菖蒲先生もグループの皆も、誰もそんなこと教えてくれなかった……。やっぱり直接は言いにくかったのかな?そりゃそうだよな。俺だってそういう子がいても直接は言えないもんな。
そうかぁ……。今まで皆が俺を避けていたのは色々な噂とか九条家とか、いっそゲーム『恋に咲く花』の設定とか咲耶お嬢様とかすら関係なかったんだ。俺が皆から避けられていたのは体臭がアレだったからなんだなぁ……。
結局サロンを飛び出した俺はもうサロンにも戻れずそのまま帰路に着いた。いつも通りに百地流の修行に励んでから家に帰ってきたけど……、何か何もする気がしない……。もしかして師匠も俺が臭いと思いながら修行をつけてくれていたんだろうか。
「はぁ……」
「咲耶様、いかがされたのですか?」
「椛……」
いつも通り自室のベッドで寝転がっていると椛が心配そうに声をかけてくれた。もっと早く椛や家族が教えてくれていたら……。ついそう思ってしまう。でも椛や家族のせいじゃないだろう。俺だって兄の体臭がアレだったら正直に言える気がしない。そういうデリケートな問題をストレートに言うのは難しい。だから誰も悪くはない。悪くはないんだけど……。
「椛はそんなにいつも私の傍に控えていて臭くないのですか?」
「…………は?おっしゃっておられる言葉の意味が……」
つい、ポロッと出てしまった俺の言葉に椛が首を傾げる。無理をして俺の臭いを我慢してくれているんだろうか?それとももう慣れてしまったということだろうか?
「だって!私は!私の体臭はアレで臭いのでしょう!?」
「…………え?あの……?」
これだけ言っても椛はまだとぼけたような態度を崩さない。俺はもう知ったんだよ!もう隠さなくていいんだよ!臭いなら臭いって言ってくれ!
「もう隠さなくて良いのですよ!私の体臭が臭いことはもうわかっているのです!椛!本当のことを言ってください!」
「え~……、何のことを言っておられるのかさっぱりわかりませんが……、誰に何を言われたのかは知りませんが咲耶様が臭いなどということはありません」
「嘘っ!もうそんな嘘はいらないの!本当のことを言って、椛!」
はっきり言ってくれたらそれなりの対応も考える。でもそうやって嘘で誤魔化されるのはもう嫌だ!本当のことを教えて欲しい!
「……わかりました。それでははっきり申し上げましょう……」
「…………」
少し雰囲気の変わった椛に我知らずゴクリと喉が鳴った。ついに……、本当のことを言われてしまうんだ……。覚悟は出来ている……。出来ているはずなのに……、やっぱり聞くのが怖い。
「咲耶様は……」
「…………」
「咲耶様に臭い所などありません!むしろ良い匂いがして、一度嗅いでしまえば離れられないくらいです!」
「嘘!もうそんな嘘は……」
「嘘などではありません!」
「きゃっ!」
まだ椛が嘘を吐くのかと思ってヒステリックになった俺に……、椛が覆いかぶさってきた。ベッドに押し倒された俺の上に椛が覆いかぶさっている。そして……、その顔を俺の腋に……。
「ちょっ!?椛!何を……」
「臭くなどありません!むしろとても良い匂いです!クンクンペロペロしたいです!もっと!腋も、首筋も、おへそも!手も足も指の間も、どこもかしこも!全てを!」
「おーい、咲耶?ご飯だって随分前から呼んでるはずだけど?」
「――ッ!?お兄さ……、ひゃぁぁっ!」
椛が俺の腋や首筋に顔を埋めてスンスン、クンクンと俺の匂いを嗅ぎまくる。とても恥ずかしい。そんな状況で扉がノックされて兄が声をかけてきた。俺は慌てているのに椛はさらに腋に顔を突っ込んで、少しペロリと舐められてしまった。そのくすぐったさに声が漏れて悲鳴を上げてしまった。
「咲耶っ!?大丈……、え?」
「あっ……」
俺の悲鳴を聞いて扉を開けた兄とばっちり目が合う。俺は今、椛に組み伏せられて、腋や首筋に顔を突っ込まれている。この状況は……。
「…………」
「…………」
頭が真っ白になって何も思い浮かばない。何か言わなければ、言い訳、いや、本当のことを伝えなければと思うけど何をどう説明すればいいかわからない。
「…………咲耶、もうご飯だよ。……咲耶も椛も、ほどほどにね?」
「あああぁぁぁぁ~~~~~っ!おっ、お兄様!違うのです!違うのです!」
「いいんだよ……。でも本当にほどほどにね?」
「ああああぁぁぁぁぁ~~~~~~っ!!!」
フッと表情を変えた兄は、視線を逸らせてポリポリと頬を掻きながら扉を閉めた。絶対に兄に変な勘違いをされた!それなのに椛がまだどかない!椛もすぐに離れて事情を説明してくれていたらよかったのに!これじゃ……、って椛がずっと静かだ。何かおかしい。
「……椛?」
「…………」
「ちょっ!?椛?椛~~~っ!?」
何かずっと静かで動かないと思った椛は、まるで仏様のようなうっすら笑ったような表情を浮かべ、鼻血を垂らしながら気を失っていた。俺は椛にのしかかられたまま身動きも取れず、しばらくして他のメイドさんが来てくれるまで椛の下で鼻血をずっと垂らされ続けていたのだった。