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第三百四十七話「咲耶無双」


 蕾萌会のビルにて、菖蒲は咲耶が来るのを今か今かと待ち受けていた。いくら咲耶がもう蕾萌会で勉強する必要がないほど出来るといっても夏期講習を申し込んでいた。その夏期講習の後半に急に来れなくなったと連絡があった時はがっかりしたものだ。


 菖蒲にとっては授業がどうこう、勉強や成績がどうこうというよりも、こうして授業と称して咲耶と会えることが何よりも楽しみだった。その咲耶が急に夏期講習の後半に一日も来ないようになるなど、その驚きと落胆、そして精神的ダメージは計り知れないものだった。


 夏期講習は残念ではあったが、しかし今日は普通の授業がある日だ。だからようやく久しぶりに咲耶に会えると思って菖蒲はウキウキしながら待ち受けていた。


「御機嫌よう、菖蒲先生」


「はぅっ!?」


 ようやく待ちに待った咲耶がやってきた。しかしその挨拶を聞いた瞬間、いや、その姿が視界に入った瞬間に菖蒲は存在全てを丸ごと咲耶に飲み込まれてしまった。


 歩く姿は美しく、纏う空気は神々しい。薄っすら微笑んだその表情に、軽く流した視線を受ければもうそれだけで菖蒲は昇天してしまいそうになっていた。それなのにその涼やかな声までかけられては耐えられるものではない。


 これがあの九条咲耶ちゃんだというのか。ほんの少し前までの咲耶とはまるで違う。今までは年上の余裕で可愛がってあげていた子猫ちゃんが、今では自分を完全に翻弄してしまうお姉様となっている。菖蒲ですらついうっかりすれば『咲耶お姉様』と呼んでしまいそうになる。それだけの魅力と余裕に溢れていた。


「お久しぶりです。突然夏期講習をキャンセルしてしまって申し訳ありませんでした」


「ああぁぁ~~~っ!まっ、眩しすぎる!だめよ咲耶ちゃん!こんなところで!あぁっ!」


 深々と頭を下げた咲耶の所作一つ一つ、言葉一つ一つが菖蒲の中に入り込み、虜にしてしまう。


「べっ、別に良いのよ……。それにキャンセルしても払い戻されるわけじゃないから私は何も困ってないから!」


 各期の講習、集中講座の類は申し込んで予約を入れた時点でキャンセル不可となっている。授業料は振り込まれ担当講師に歩合給は支払われるので、急にキャンセルされたから菖蒲の給料が減った、などということはない。


 菖蒲からすれば給料よりも咲耶と会えると思っていたものが会えなくなったことの方がダメージが大きかったが、それだって別に辛抱出来ないほどのことではなかった。そう……、この夏休みが明けて今日咲耶と会うまでは……。


 今までの咲耶との付き合いならば、確かに会えないのは寂しいと思ったが我慢も出来た。菖蒲ももう良い大人だ。子供のようにわがままを言ったり、理屈より感情を優先したりするようなことはない。大人ならば相手の都合も考えたり、理由や事情というものも慮る。だが今は違う。


 今の咲耶を見た瞬間から、菖蒲はもう二度と咲耶と離れたくないような、全てを独占し、常に一緒にありたいと思うような子供じみた欲求を抑えられなくなっている。


「さぁ、それでは授業に参りましょう」


「えっ、えぇ……。そうね……」


 菖蒲はドキドキしながら咲耶と連れ立っていつもの席へと向かう。この胸の高鳴りは何なのか。これではまるで初恋をしている少女のようだ。もうすぐアラサ……、な高辻菖蒲ともあろうものが、まるで無垢な少女のようではないか。


(あら?でも……、そういえば初恋っていつ誰にだったかしら……?)


 菖蒲はふと思い出す。初恋をしている無垢な少女のようだと言いながら、果たして自分にそんな時があっただろうか?そもそも自分はいつ誰に初恋をしたのだろう?いや、そもそも今まで恋をした記憶が……。


(うっ……。頭が……)


 菖蒲は自分に恋の記憶がないことを記憶がないことのせいにした。そもそも記憶がないわけではないのだが……。


 そんなことを考えているうちにいつもの席に着き授業を始める。そう言えば菖蒲の初恋とはもしかしたら昔に、この蕾萌会に九条咲耶という女の子がやってきた頃に体験したのかもしれない。あの時の思いはまさに初恋と言えるようなものだろう。


 成熟した大人の恋ではなく、ただ可愛い相手を見てほんのりと『ああ、良いな』と思うような、恋と呼ぶにはあまりに弱く未熟な思い。そういうものこそが初恋と呼ぶに相応しいだろう。


 それから菖蒲は初恋の相手とこれまで五年半ほども一緒に授業を行ってきた。その間に次第にその初恋は普通の恋のような、子供の初恋とは違う感情へと変わり始めていた。しかし今日、その相手に二週間ぶりほどに会った瞬間……、この感情は淡い初恋でも、未熟な恋でもなくなった。これは……、そう!まさに『愛』!


 今までの感情が『恋』だったとすれば今芽生えている感情は『愛』だ。子供の好きだ嫌いだという恋ごっこから、大人の愛へと変わった。それが確信出来る。ならば……。


「ねぇ咲耶ちゃん……」


 子供の恋ではなく大人の愛だというのならば、それには相応のやり方というものがある。菖蒲は自分をアピールするために隣に座ってテキストを解いている咲耶の腕に自分の胸を押し付けた。前に咲耶が倒れた時に少しだけ理解出来たのだ。ずばり咲耶はこういった性的アピールに弱い!


 ライバルの小娘達は皆若い。自分が咲耶の周りにいる女達の中で最年長だろう。もちろん咲耶の周りにはもっと年上の女性もいるがそれらは恋愛のライバルではない。だから恋愛のライバルにおいては自分が一番最年長だ。


 若さや年齢においては絶対に勝てないが、しかし逆に自分がその若い小娘達に勝っている部分もある。それはまさに大人の色気だ。この成熟した大人の体と色気は他の小娘達には真似出来ない。そして咲耶はそれに弱い!ならば自分にとってこれはチャンスだ!そう思って必死に咲耶にアピールする。しかし……。


「菖蒲先生……、いたずらしてはいけませんよ。それでは私も……、えいっ」


 咲耶の腕に自分の胸を押し付けてアピールしていた菖蒲だったが、咲耶にやんわり窘められた。そして逆に菖蒲は腕を取られて咲耶にぎゅっとその腕を抱きしめられた。その瞬間菖蒲の全身に衝撃が走った。


 まだ小学六年生でありながら思いのほか立派に実ったたわわな双丘が菖蒲の腕に押し付けられる。その膨らみに菖蒲の全ての神経は集中させられた。そして……。


「ふぅ……」


「あっ……。菖蒲先生。菖蒲先せ……」


 前回とは逆に、今度は菖蒲が意識を失ってしまったのだった。




  ~~~~~~~




 二週間以上も合宿に行かれて、ようやく戻ってきてくださったと思っていた咲耶様は、合宿に行かれる前とはガラリと雰囲気が変わってしまわれていた。いつも傍に控えていた椛はそのことをはっきりと感じていた。夏休みの後半に百地流の合宿に行かれてから咲耶様の様子がおかしい。明らかに以前の咲耶様とは変わってしまった。


 もちろん椛はそれを悪いことだと思っているわけではない。悪い方に変わったのではなく、良い意味で変わったと思える変化もたくさんある。ただ急にこれほど変わられては、何だか寂しくも感じてしまう。


 長い時間をかけて、とか、自分の手で少しずつ、咲耶様が変わっていかれたというのならむしろそれは喜びだっただろう。しかし自分のあずかり知らぬ所で、それもたったこれだけの短時間の間にこれほど変わってしまったとあっては、まるで自分の知っている咲耶様が別人になってしまったような寂しさを覚える。


「咲耶様、お食事の用意が出来ております」


「ありがとう椛。今行くわ」


 ふっと笑ってそう答える咲耶の笑顔に椛の頬がポッと赤く染まった。たった一言そんなやり取りをするだけでも椛の心臓が高鳴ってしまう。一体いつの間に咲耶はこんなプレイガールになってしまったというのか。いや……、それは元々だったか……、とも思うが今は細かいことは置いておく。


 今までも女性達を虜にしてメロメロにしてしまっていたが今の咲耶はそんな比ではない。女誑し、いや、人誑しだ。本人が知ってか知らずかはわからないが、明らかに今まで以上にあちこちで人を誑している。このままではやがて世界中の人間が咲耶のファンになってしまうかもしれない。いや、いっそ咲耶が女神として祀り上げられ宗教が出来るのではないかとすら思える。


「咲耶、百地先生との合宿はどうだったのですか?」


「……はい。とても有意義な合宿でした……」


(恐ろしく速い取り繕い。私でなきゃ見逃しちゃうね)


 母、頼子の言葉に一瞬咲耶の頬がヒクッと引き攣ったのを椛は見逃さなかった。しかしそれは本当にあまりに短い出来事であり、長年咲耶を観察し続けた椛をもってして何とか気付けたほどの僅かな変化だった。


「いやいや!聞くまでもないだろう!あの咲耶が完璧なレディになって帰ってきたじゃないか!他の予定を全て急遽キャンセルしてでも行かせてよかった!そうだろう?」


「そうだね。咲耶、随分雰囲気が変わって帰ってきたね」


「ありがとうございます。これも全て百地師匠の合宿のお陰です」


 にっこりと微笑みそう答える咲耶に、家族ですらドキッとさせられてしまう。もちろん変な意味や恋愛感情的なものではないが、それでも美しいご令嬢の美しい所作と雰囲気を浴びせられて、家族ですら驚きや興奮を与えられてしまう。


 久しぶりの家族団欒での食事を終えて咲耶が下がる。咲耶と共に下がった椛は暫くしてからお風呂の用意が出来たことを咲耶に告げた。


「咲耶様、お風呂の用意が整いました」


「わかりました。今行きます」


 いつも通りに食休みをしてから程よい時間に咲耶をお風呂に案内した。脱衣所に入った咲耶に椛はふと思い立ってある提案をしてみる。


「咲耶様、百地様との合宿でお疲れでしょう。今日は私がお背中をお流しいたします」


 いつもの咲耶ならば、赤くなって慌てて断っていただろう。椛もどうせそういう対応になるだろうと思いながら、それがわかっていてもあえてそう言ってみた。いや、自分でも無意識にそうしていつもの咲耶らしい反応を期待して言ったのだろう。だが返ってきた答えは思っていたものとは違っていた。


「そう?それではお願いしようかしら。たまには二人で親睦を深めるのも良いものね」


「…………は?」


 人は、自分が予想していた展開や言葉とあまりに違いすぎる展開や言葉が返ってきた場合、瞬時に理解が及ばなくなる。とても簡単な答えを言われただけだとしても、それが想像もしていなかったものだったならば、虚を突かれ、思考が追いつかず、意味が理解出来なくなる。椛は何が起こったのか理解出来なかった。




  ~~~~~~~




 椛は今、自分の身に起こっていることが理解出来ない。何故こんなことになったのか……。


「あの……、咲耶様……、これは一体……」


「どうせならば背中を流してもらうだけではなく、こうして一緒にお風呂に入った方が楽しいでしょう?」


 そう言ってにっこり微笑む咲耶は裸だ。そして自分も裸だ。お風呂に入っているのだから裸で当たり前だろう。椛は今何故か咲耶と並んで湯船に浸かっていた。お湯は入浴剤が入っているので透明ではない。だからお互いに裸とはいえ体が見えているわけではないが、それでも波打つお湯が咲耶の肩や胸を寄せては返し、浚い、ちらちらと見せてくる。


 九条家の広い浴槽ならば咲耶と椛が入ってもまだまだ余裕がある。二人で向かい合って浸かっているわけではなく、横に並んで浸かっているが、椛はついチラチラと隣に浸かっている咲耶を盗み見てしまうのを止められなかった。


「それではそろそろ体を洗いましょう」


「はっ、はいっ!」


 自分から言い出したことなのに……、かつては何度もそういうことをしたことがあるはずなのに……、一体今日はどうしてしまったというのか。いつもは咲耶がガチガチに緊張して、椛が咲耶を翻弄するように弄んでいるはずなのに、今日はお互いの立場が逆転してしまったかのように咲耶に終始リードされている。


「そっ、それでは失礼いたします」


「ええ。お願いね」


 洗い場に座った咲耶の後ろから椛が手を伸ばす。泡立てたボディタオルでやさしくその背中を洗い始めた。しかし咲耶の背中は絹のボディタオルよりもさらに滑らかで触り心地が良い。椛はいつの間にかボディタオルではなく手で咲耶の背中を撫で回していた。


「ふふっ、椛、少しくすぐったいですよ」


「あっ!もっ、申し訳ありません!」


 夢中で咲耶の背中を撫で回していたことに気付いて慌てて手を引っ込める。綺麗に流して自分の役目は終わったと思ったが、そこに咲耶から待ったがかかった。


「待ってください椛。今度は交代ですよ」


「え?あの……?」


 椛が戸惑っている間にも咲耶にてきぱき準備をされてしまい、今度は自分が座らさせられ咲耶に背中を洗われ始めた。


「あっ!あの!咲耶様にそのようなことをさせるわけには……」


「いいから任せて、椛」


 咲耶のしなやかな手が優しく椛の背中を洗ってくれている。それだけでもう椛は昇天しそうだった。しかしそれだけではなく……、目の前の鏡にチラチラと咲耶の姿が写っていた。そう……、椛の背中を洗っているために胸を隠していない咲耶の上半身がチラチラと……。


「ブッ!!!」


「あっ……、椛?椛……」


 その咲耶の姿を見た椛は、今までの比ではないほどに鼻血を噴き出し意識を失った。しかし意識を失った椛の表情はとても良い笑顔だったと助けに来た他のメイド達は後に語っていたのだった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 唐突に椛が団長の手刀を見逃さなかった人になったw
[一言] 数日後には揺り戻しが来て戻ってる説( ˘ω˘ )
[一言] 無双っちゅーか無敵っちゅーか・・・ 咲耶様はいったいどうなっちゃってるんだよ どこまでーどこまでー女の子を魅了するんだーい? 師匠、いったいなにをしたんですかw
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