第三百四十話「ニャンニャン」
重い気分のまま学園にやってきた。日中は普通に皆と楽しくおしゃべりして、それなりに過ごせたけど放課後になると途端にブルーになる……。
「はぁ……」
「どうかされましたか?咲耶様」
「薊……、咲耶ちゃんは例のあの人のことで辟易してるのよ……」
「あぁ……」
最初はわからなかったらしい薊ちゃんも、皐月ちゃんにそう言われて察してくれたらしい。それにしても伊吹は二人の間では『名前を呼んではいけないあの人』みたいな感じになってるのかな?しかもあの人と言われたら薊ちゃんも察してくれたということは、あの人への対応が疲れるというのは身に染みて同感ということなんだろう。
「結局パーティーに出席してペアのパートナーということになってしまいました……」
「あはは……」
「そうでしょうねぇ……」
二人とも苦笑を浮かべて困ったようにそう答えていた。二人から見てもこうなるという結果はみえみえだったということだろう。俺だってこうなると思ってたからな……。
「せめてもうちょっとまともな方ならパーティーでペアになることくらいどうということもないのですが……」
「ですねぇ……」
「私も出来ればお断りしたいですね……」
三人でしみじみ思う。俺達だってご令嬢としてパーティーの時に誰かとペアのパートナーになることくらいは仕方がないと思っている。ペア指定のないパーティーでわざわざペアを組みたいとは思わないけど、普通のパーティーだと女性は男性にエスコートされるのが一般的だ。
結婚相手や許婚がいればその相手と、いなければそれなりに親しい男女でペアになるのは珍しくない。鷹司家のパーティーのように絶対ペアで来いというパーティーだってあるし、俺達はこれから成長すればますます男女ペアで行動しなければならないシーンが増えてくる。それを嫌だとか否定しようというつもりはない。
ただそれでも相手がどうかというのは重要だ。俺は別に伊吹も槐も桜も好きじゃない。どちらかと言えば三人とも嫌いだ。でもペアを組まなければならないとなった時に槐や桜ならまぁ我慢出来る。理由は二人は別に強引に何かを強要してきたり、決めようとしてこないからだ。でも伊吹は違う。
伊吹は強引にでも、何か汚い手段を使ってでも自分の意見を通そうとしてくる。結果的に伊吹の意向と同じことをしなければならないとなったとしても、そうやって無理やり決められたのと、止むを得ず合意したのではこちらの心証も違うというものだ。わかりやすく言えば伊吹は自分で自分の好感度を下げている。
「薊ちゃんも皐月ちゃんもまるで人事のように言っていますが、昔は二人とも近衛様の結婚相手を狙っていませんでしたか?」
「え~っとぉ……」
「ほほほっ……」
二人とも視線を逸らして露骨に誤魔化した。もちろん二人にとっても本人の意思じゃなくて家の意向とかだったんだろうけど、最初の頃は伊吹のことを狙ってたよね。『近衛様』『近衛様』って言ってたし……。
「ほっ、ほら!サロンに着きましたよ!」
「まぁいいですけど……」
薊ちゃんが誤魔化してそう言ったけど実際にサロンに到着したから俺は肩を竦めてから扉を開いた。
「御機嫌よう」
「おう!咲耶!お前は俺のパートナーだ!」
「はぁ……」
扉を開けた俺に向かって、満面の笑みを浮かべた伊吹がやってきて開口一番にそんなことを言った。わざわざこんな場面で聞こえよがしに、というかわざとサロン中に聞こえるように言うことじゃないだろう……。そもそも近衛家のパーティーは別にペア必須じゃない。
以前にも近衛家のパーティーで伊吹のペアを務めたことはあったけど、別に近衛家のパーティーはペア必須でもないし、ペアになったから何かあるということもない。規模が大きくて呼ぶ家が多すぎるからペアの意味もほとんどないし、精々が最初にダンスする相手という程度の意味しかないだろう。
まだ色々と話しかけてこようとする伊吹をどうにか抑えて、他の皆と挨拶しつついつもの席に着いた。こういう時に伊吹避けの頼りになる薊ちゃんと皐月ちゃんはいつもの派閥に行ってしまっている。このまま放っていると一度は抑えた伊吹がまたやって来かねない。
「あっ!睡蓮ちゃん!」
「なんですかぁ?」
何とか伊吹が近づいてこないように、誰かと話そうと思って必死に探したけど今手が空いてそうだったのは睡蓮しかいなかった。薊ちゃんも皐月ちゃんも、そして竜胆すらそれぞれの派閥にいるから他に呼べそうな相手がいない。
「えっと……、あっ!良いパティスリーを見つけたんですよ。今度茅さんも誘って睡蓮ちゃんも一緒に行きませんか?」
「――ッ!?茅お姉ちゃんと!パティスリーに!いきまぁす!いきますよぉっ!」
おぉ……、すごい食いつきだな……。適当に言っただけだけど睡蓮は慌てて俺の前にやってきてその話に思いっきり食いついてきた。もちろん思いつきで言っただけだけど、お薦めのパティスリーについては心当たりがある。いつかグループの皆と行くか、お土産として買っていこうかなと思っていたけど仕方がない。ここで使わせてもらおう。
「咲耶ちゃん、何のお話かしら?」
「ああ、茅さん、御機嫌よう」
「茅お姉ちゃんこんにちはぁ~」
俺と睡蓮がパティスリーの話をしていると茅さんもやってきた。元々は口からでまかせだったけど、何なら茅さんと睡蓮を連れて俺のお薦めのパティスリーに行ってみるのも悪くない。
「咲耶お姉様!何のお話ですか!私も混ぜてください!」
急に飛んできた竜胆も話に加わってくる。派閥の方は良いのかな?と思って見てみれば、さっきまで話していた派閥の子達は全員呆然とした顔をしている。明らかに向こうの話を放ってこちらに来たんだろう。榊がフォローしているようだけど……、向こうも大変だな……。
「それではこの四人で今度一緒に私のお薦めのパティスリーに行きましょうか」
「ええ!是非行きましょう!お姉さん楽しみにしてるわね!」
「えへへぇ~。茅お姉ちゃんとケーキ……」
「咲耶お姉様のお薦めのお店をご紹介いただけるなんて感激です!」
最初のきっかけはちょっと不純なものだったけど、トントン拍子に話が進んで、この四人で夏休みに一緒にパティスリーに行くことが決まったのだった。
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近衛家のパーティーや夏休みに向けてバタバタとしている間に、あっという間に一学期最後の日がきてしまった。終業式を終えて明日からは夏休みだ。
「それでは咲耶ちゃん、御機嫌よう」
「さようなら咲耶様!」
「咲耶ちゃんまたねー!」
「皆さん御機嫌よう」
今日は五北会もないからさっさと帰る。とはいえ学園から出るのが早いだけで俺はこのまま百地流の道場に直行だ。今日からはまた当分百地流の修行と蕾萌会の夏期講習ばかりの毎日になる。
今年も例年通り家族旅行があるから、家族旅行までに修行と夏期講習が集中して、旅行に行って帰ってきたら近衛家のパーティーがあって、パーティーが終わったらまた後期の夏期講習と修行の日々になる。家族旅行は良いけど近衛家のパーティーは本当に邪魔だなぁ……。まぁ俺って何かほとんど偶数学年の時しか出席してないような気はするけど……。
道場に着いて着替えて準備を済ませてから、ふと例の件を師匠にも少し相談してみようかと思って聞いてみることにした。
「師匠……、肉体的な原因ではなく精神的な原因で気を失ってしまう場合の対処法などはありますか?」
「ふむ。もちろん百地流に不可能などない。よし。それでは今日から早速精神修行を加えるとしよう」
「えっ!?あの……、そういうことでは……」
「まずはこの剣山の上を歩いて端から端まで渡れ!これが出来れば精神力も強化される!」
「その前に足の裏がずたずたになりますよ!?というかこれのどこが精神修行ですか!?」
「いいから歩け!」
「ヒィッ!」
散々無理だと頼んで剣山は回避してもらった。でも焚き火のような、焼いた石の上のような所を歩けと言われて本当に歩かされてしまった。こんなことで女の子のニャンニャンを想像しても気絶しなくなるんだろうか?何か師匠にはちゃんと伝わっていない気がする。でも恥ずかしくてニャンニャンについては言えないまま修行をさせられたのだった。
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夏休みになって、最初に師匠にあんなことを相談してしまったから、百地流の精神修行とやらが増えたけど相変わらずニャンニャンで気絶する体質は直っていない。まぁそもそもからして目的とかが違うと思うしね……。あれじゃいくらやっても直らないだろう。俺は相談する相手を間違えたようだ。それとも相談の仕方が悪かったのかな……。
ともかくこのままでは俺の気絶症が直らない。今後危険な場面で突然気絶したりしたら大事故にも繋がりかねないしどうにかしたいんだけど、そのどうにかする方法がまったくわからないままだ。
先生である百地師匠に聞いても直らないというのなら、ここはもう一人の先生に聞いてみるしかない。他に頼りになりそうで相談出来そうな相手はほとんどいない。他だと年上で頼れそうなのは椛か茅さんくらいだろうけど、あの二人にこんな恥ずかしい相談は出来ない。それに言ったら何をされるか不安もある。
「菖蒲先生、少し相談したいことがあるのですが良いでしょうか?」
「あら?咲耶ちゃんが?珍しいわね。何かわからないことでもあった?」
解いてるテキストでわからない所があったと思われたのか、一緒になって菖蒲先生がテキストを覗き込んでくる。その時に片手で髪を掻き揚げて耳にかけていた。チラリと首筋とうなじが少し見えてその仕草が何とも妙に艶かしい。ついつい生唾をゴクリと飲み込んでしまった。
「いえ、テキストの問題ではないのですが……」
「そうなの?何かしら?」
一緒にテキストを覗き込んでいた菖蒲先生はキョトンとした顔でこちらを見ていた。菖蒲先生って最近何だか妙に色っぽいな……。女性として成熟してきたからだろうか。ただ若くてピチピチしているだけの子達にはない妙な色気を感じる。
「え~っと……、とても恥ずかしいことを考えた時などにフッと気を失ってしまったりする場合にはどのように対処すれば良いでしょうか?」
「えっ!?咲耶ちゃん、急に意識を失ったりするの?病院で調べてもらった方が良いんじゃない?」
普通はまぁそれを心配されるよな。でもそういう意識の失い方とは違うからなぁ……。
「病院で精密検査しても何の問題もなく、そういった病気の類ではなく原因というか、そうなる場合の理由がわかっているケースのお話なのですが……」
「そうなの……?それはどういう状況なのか説明してもらえる?」
うぅ……。そりゃ俺がこんな相談をしているんだから相手からすればちゃんと詳しく説明しろと言うのは当然だよな……。でもあれを説明するのか……。とても恥ずかしすぎて言い難いんだけど……。というかまさかこれを言おうとしいている羞恥だけで気絶したりしないだろうな?
「じっ、実はですね……」
「うんうん」
「私は……、その……、とても大切な相手、菖蒲先生も会ったことがあるグループの子達や、椛や茅さんや……、そして菖蒲先生など、とても大好きで大切な相手の方と……、その……、ニャンニャンなことをしていることを想像したりすると……、恥ずかしさのあまり気絶してしまうのです……」
「咲耶ちゃんは私が大好きで大切で……、ニャンニャンしている想像をして……、恥ずかしくなっちゃうのね!?」
何か菖蒲先生の表情がクワッ!と変化したかと思うと肩を掴まれてそんな確認をされてしまった。そう言われたら余計に恥ずかしい。
「うぅ……、間違いとは言えませんがそのような言い方をされては恥ずかしいです……。ですが概ねその通りです……」
「なるほどね……。それでその恥ずかしさのあまり気を失ってしまうのね?」
「はい……」
もう穴があったら入りたい……。俺はその対象の一人でもある相手に何を言っているんだろう……。本当に恥ずかしい。どこかへ消えてしまいたい……。
「わかったわ。よく相談してくれたわね!それは私と一緒にこれから克服していきましょう!」
でも……、菖蒲先生は笑うこともなく、馬鹿にすることもなく、俺の目を真っ直ぐ見てそう言ってくれた。もしかしたら……、本当に菖蒲先生なら俺のこの恥ずかしい体質をどうにかしてくれるかもしれない。
「はい!菖蒲先生!ありがとうございます!よろしくお願いします!」
頼りになる先生に相談してよかった!これで俺のこの体質もどうにかなれば万々歳だ!
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咲耶が夏期講習の授業を終えて帰った後、菖蒲は咲耶を見送ってからボソリと呟いた。
「咲耶ちゃんが私のことを大好きで大切に想ってくれているのはわかったけど……、ニャンニャンを想像して気絶するって、ニャンニャンって何かしら?今時の若い子達の使う言葉はよくわからないわ……。どうしましょう……」
結局……、菖蒲にも咲耶の言っていることはきちんと伝わっていなかったのだった。