第三十三話「女の子を突き飛ばすとか最低」
薊ちゃんに迷惑をかけてしまった。俺が深く考えもせず恩着せがましくあんなことをしてしまったせいで大変な思いをしただろう。そう思って頭を下げたら何故か薊ちゃんが泣きながら俺に抱き付いてきた。
え?え?俺は何か悪いことをしてしまっただろうか?
こういう時にどうしたらいいのかわからない。泣いている女児のあやし方なんて知るはずもなく、そもそもどうして薊ちゃんが泣いているのかもわからない俺にはどうしようもない。ただ頭を撫でて背中をさすって落ち着くまで宥める。
少し落ち着いた薊ちゃんが語り出した言葉の意味はいまいちわかりづらい。前後や相関関係がわからず誰のことを言っているのか、何を指しているのかは非常にわかりづらかった。それでもじっと聞いていると段々わかってきたことがある。
ざっくり言うと、たぶん薊ちゃんは母親、家の意向で近衛家と結婚するようにと随分言い含められているようだ。そして薊ちゃんも近衛家と結婚しなければならないと強迫観念のように思い込まされてしまっている。そんな中で近衛家のパーティーであんな失態をしてしまった。
別に料理を零すことくらいは誰にでもある。マナー的にはもちろん零さないのが一番ではあるけどたまに料理を零すなんてのは誰にでも起こり得ることだ。だからこそ料理を食べる際にナプキンをかけるわけで、誰だって料理やソースを零すことがある。問題なのは零すことそのものじゃなくて万が一零してしまった際の対処の方だ。
だけどどうやら薊ちゃんはあの時頭が真っ白になってうまく対応出来なかったらしい。だから俺が零したことにしてドレスを拭きに下がろうと思ったわけだけど……。どうも薊ちゃんの母親はそれが零したのが俺であろうが薊ちゃんであろうがどっちでもよくて、とにかく薊ちゃんの評判が下がらないようにそのまま利用するようにと薊ちゃんに言っているようだ。
俺としては別にそうしてもらっても構わない。ただ俺が薊ちゃんに料理を零してしまって粗相をしたというだけなら甘んじて受けよう。だけどどうも薊ちゃんの母親はそれを近衛家と薊ちゃんの結婚にまで何とか利用できないかと考えているようだ。
まだ小学一年生の薊ちゃんの説明は拙いし、泣いていてきちんと整理された説明じゃないからよくはわからないけど何となくそういうことだというのはわかった。
何故俺がわざと薊ちゃんに料理をひっかけたことにしたら薊ちゃんと近衛家との結婚がうまくいくと思っているのかはよくわからないけど……。
つまりあの時、パーティー会場で怒って俺を突き飛ばし薊ちゃんを庇って出て行ったのはただの『フリ』だけだったようだ。
薊ちゃんの母親に少し思う所がないわけではない。子供の気持ちも考えず、ましてや結婚なんて重要なことに対しても薊ちゃんがこんなに悩むほど強迫観念を持つほどに迫って擦り込んで何て親だと思わなくもない。でもそれはこの界隈なら普通のことであって薊ちゃんの母親だけがそうとも言えない。
それに徳大寺家の親子関係なんて俺が安易に口を出して良いことではなく、徳大寺家の家族の問題は本人達が乗り越えるしかない。相談されれば相談に乗るくらいは出来るけど今の状況で直接俺が口を挟むのはお門違いだ。
俺に出来ることはただ薊ちゃんの話を聞いてあげて、答えられることなら答える。薊ちゃんが望むように応えてあげることだけだ。
暫く泣き続けながら心の中にあった辛いものを全て吐き出したらしい薊ちゃんは大分落ちついて来ていた。これならもう大丈夫そうだ。
「ごめんなさい……。本当は私がもっと前にきちんと言わなければならなかったのに……」
「いいのですよ、そんなこと。ただ……、私が余計なことをしてしまったために薊ちゃんをこんなに苦しめてしまってごめんなさい」
「違う!咲耶は何も悪くない!私が……」
何故か薊ちゃんが謝ってきた。何故薊ちゃんが謝らなければならないのかわからない。悪いのはでしゃばった真似をした俺と、それを利用しようとした周囲だ。面白おかしく無責任に噂話を脚色している者達だ。薊ちゃんは何も悪くない。
だけど二人で、自分が悪い、いやいや自分の方が悪い、と譲らずに言い合っていた。それが何だかおかしくて……。
「ぷっ」
「ふふっ」
「「あははっ!」」
いつしか二人で笑いあう。ああ、いいなこういうの……。これでようやく本当に薊ちゃんとお友達になれたような気がする。今までの表面的な取り繕った付き合いじゃなくて、お互いに心から信頼し合えるような……。
そうか……。これが薊ちゃんが言っていた『友達なら無理やりでも話を聞いてあげるものだ』ってやつか。俺が無理にでも薊ちゃんに話を聞いたからこそこうしてお友達になれたんだな……。
俺は……、前世では大人にまでなっていたのに何もわかっていなかった。ただ年齢を重ねたから大人になれるわけじゃないんだ。こんな……、小学校一年生の女の子に教えられるまで何もわかっていなかった。俺は小学校一年生以下の人付き合いしかしてこなかったんだ。
前世の俺はこんな上流階級育ちじゃなかったけど少しだけこの藤花学園に通う子供達の気持ちもわかる。前世の俺にとっても周囲は競争相手でありライバルだった。一つでも上にいくために蹴落としてでも這い上がるための障害でしかなかった。
この子達の競争と、前世の俺の競争は比べるものや必要なスキルは違う。この子達にとってはより良い家との婚姻関係を結ぶことだったり、他の家よりも良い評判を得ることが大事なんだろう。前世の俺にとってはただ勉強を頑張って一つでも順位を上げて受験に勝てばよかっただけだ。
他人との接触なんて希薄なもので必要最小限しか接しない。クラスメイトの顔も、同じ塾に通う他の生徒達の顔もおぼろげで今じゃ思い出せもしない。俺は……、前世で学生時代に友達なんていなかったんだ……。
自分ではそんな自覚はなかった。適当に周囲とうまくやれているつもりだった。でもそれは本当に友達だと言える関係だったのか?ただ学校で顔を合わせている間だけ適当に合わせていただけじゃなかったか?
本当の友達っていうのは薊ちゃんが周囲にしているように接することを言うんだ。前世の俺と周りとの付き合いなんてそんなものは友達なんて呼べるようなものじゃない。今生になって……、初めて俺はそんなことを知った。前世も今生も入れて……、本当の意味で初めて出来た最初のお友達……、それが薊ちゃんだ。
薊ちゃんは良い子すぎる。それに可愛すぎる!このまま連れて帰ってずっと一緒にいたいくらいだ。もうhshsしてクンクンペロペロしてずっと一緒に居たい!
いや……、落ち着け……。初めて本当の友達が出来てテンションがおかしくなっているのはわかるけど落ち着け。それは流石に犯罪だ。
そもそも俺はロリでもペドでもないわけで……。それにこんな純粋無垢な薊ちゃんを俺の欲望で穢すようなことはしてはいけない。
そう、これはあれだ。尊いものだ。崇め奉らなければならないようなものだ。欲望で穢すようなものではなく拝み、崇め奉る。真のキャッキャウフフを実現するためにはそんな男の欲望で穢れたようなことをしてはいけない。そんなことに流されないように俺は自分自身を戒める必要がある。
こうして……、薊ちゃんと笑い合っていたのに……、ふと視線を向けてみれば伊吹がバルコニーに出てきていた。
「おい!」
「あっ……?」
ズンズンとこちらに近づいてくると薊ちゃんを突き飛ばし……、って、え?
こいつ……、今何をした?駄目だ……。頭が回らない。あまりの出来事に一瞬頭が回らずただ呆然としてしまう。突き飛ばされた薊ちゃんはバルコニーに倒れていた。
「咲耶!もう大丈夫だ!」
「…………は?」
俺は何故かガバッ!と伊吹に締め上げられていた。ベアハッグで俺を締め上げるつもりのようだ。でも正直俺がどうとかはどうでも良い。こいつは……、こいつは薊ちゃんを突き飛ばしやがった!ようやくそのことに頭が回った俺はカッと頭に血が昇った。
「なっ……、何を!」
「ぁ?」
伊吹のベアハッグからスルリと抜け出す。師匠との修行で色々とやらされた俺は掴まれた状態から抜け出すことなど造作もない。痴漢対策なのか何か知らないけど掴まれたり縄で縛られたりした状況から抜ける修行も散々やらされた。子供にベアハッグされた状態から抜けるなんて簡単だ。
「するの!」
「おふ……」
抜け出た俺は伊吹の死角から掌底を顎先に叩き込む。見えない所から顎先を殴られて脳を揺すられた伊吹に隙が出来た。すぐさま襟と腕を掴み背負う。
「ですか!」
「げふっ!」
背負い投げでバルコニーに叩きつけた伊吹が若干ビクンビクンしている。本来ならここで投げ倒された相手を追撃する所だけどそんなことはどうでも良い。これで少しは時間が稼げるだろう。今のうちに薊ちゃんを助け起こさなければ……。
「薊ちゃん!大丈夫!?」
駆け寄った薊ちゃんはお尻を打ったようで少しお尻をさすっていた。それ以外に外傷はないようだ。膝とか擦り剥いてなくてよかったね薊ちゃん。
「あの……、咲耶……、あれは近衛様だったのでは?」
「伊吹はもうぶちのめしたから大丈夫よ!伊吹が起き上がってくる前に逃げましょう!このままじゃ何をされるかわからないわ!」
伊吹め……。いきなりどういうつもりだ。パーティーで俺を社会的に抹殺出来なかったから実力行使に出て来たということか?このままここにいたらバルコニーから突き落とされたりするかもしれない。俺はともかく薊ちゃんは守らなくちゃ!
「って、あっ!咲耶……、あなた近衛様になんてことを……」
「あれくらいどうってことないわ。私の大切な薊ちゃんにこんな酷いことをしたんですもの!本当ならもっとぶちのめしてやりたい所よ!」
薊ちゃんは近衛家と争うことになったらまずいと考えてるようだけど向こうから手を出してきたんだ。こちらは正当防衛だし黙っていたら伊吹に九条家ごと潰されてしまう。やるならもう徹底的にやるしかない。
「…………それって」
「ん?」
薊ちゃんが俯いてプルプルしている。やっぱりどこか痛いのかな?あの伊吹の野郎!女の子を突き飛ばしやがって!やっぱりもっと追い討ちしてやるか?
「近衛様より……、私の方が……、その……、大事……、ってことなの?」
「当たり前じゃないですか!伊吹なんかより薊ちゃんの方がずっと大切です!それに意味もなく女の子を突き飛ばすなんて最低です!絶対に許せません!」
俺の可愛い薊ちゃんを突き飛ばしやがって!思い出すだけでも腹が立つ!やっぱりもっとボコボコに……。
「咲耶!ううん、咲耶お姉様!薊は……、薊は感激です!」
「えっ?ちょっ!薊ちゃん?」
ちょっと追撃で伊吹をボコボコにしてやろうかと思っていたら薊ちゃんが抱き付いてきた。意味がわからずに混乱している俺を他所に薊ちゃんの言葉は止まらない。
「近衛様を敵に回してでも薊を守ってくださるだなんて……。あぁ私の咲耶お姉様!もう離しません!咲耶お姉様~!素敵です!好きです!」
「ちょっと……、薊ちゃん!落ち着いて!それに同い年で同級生なのにお姉様はないでしょ!?」
いや、突っ込む所はそこじゃないのかもしれないけど……、でも俺も頭が混乱していてどう対処すれば良いのかわからない。
「えぇ……、咲耶お姉様とお呼びしてはいけないのですか……?」
急にシュンとした薊ちゃん……。ちょっと可愛いと思ってしまったけどそういう場合じゃない。大体薊ちゃんは急にどうしてしまったんだ。まぁ……、可愛い女の子にギュッとハグされて嫌な気持ちなんてするわけもなく、薊ちゃんの方から来てくれるというのならいくらでもウェルカムなんだけど……。
「さすがに同級生でお姉様はおかしいでしょう?」
いや……、そこじゃない。そうじゃないはずなんだけど……、俺も薊ちゃんに押されてどうすれば良いのかわからず……、とにかくまずはそこをどうにかしようとそう言うことしか出来ない。
「う~ん……。わかりました!それでは咲耶様にしますね!でも……、二人っきりの時くらいは咲耶お姉様とお呼びしても良いですよね?」
「ぅ……」
潤んだ瞳で上目遣いに見詰められて何も言えなくなってしまった。この子……、やばい。絶対これはわかっていてやっているに違いない。まだ小学校一年生だというのに女を武器にしている!?侮りがたし薊ちゃん!
「これは一体何事です!?」
そして……、俺と薊ちゃんがそんなことを言っている間に校舎からバルコニーにゾロゾロと五北会のメンバー達が出てきていたのだった。