第二百九十四話「杏にお礼を」
週刊誌退治も運動会も終わって休日にほっと一息つく。百地流の朝練は行って来たけど、今日は来客というか招いた客が来ることになっているから日中の修行時間は減らしてもらっている。
「ほっ、本日はお招きいただきありがとうございますっす!」
うん、何か惜しい……。その『っす』は絶対につけなければならないのだろうか?口癖?
「ようこそお越しくださいました、杏さん。どうぞお上がりください」
「オジャマシマス……」
何かカチコチになっている杏を迎え入れてとりあえず応接室に通す。今日は杏に大切な話があるからこちらから呼び出して来て貰った。本来ならこちらから訪ねて行くのが筋かもしれないけど、俺が今大路家を訪ねるといったらかなり強く拒否されてしまった。それで仕方がないから杏をうちに招く形になったというわけだ。
「そう硬くならずに……。まずはお茶でも飲んで落ち着いてください」
「いただきまっす!」
そこは『いただきますっす』じゃないんだな……。さっきは『ございますっす』だったのに……。その違いはなんだろう?その時の気分とかノリか?
「ほぅっ……」
お茶を飲んだ杏がふぅっと一息ついた。少しは落ち着いただろうか。前にも九条家に来たことがあるのに何故そんなに緊張しているというのか。それもうちの家族が出てきたら緊張もするかもしれないけど俺と二人っきりだし……、そんなに緊張する所はないと思うんだけどな。
「本日杏さんをお招きしたのは他でもありません。先日のマスコミへの対処をご教授いただいたばかりか、色々と手助けしていただいたことへのお礼のためです。ありがとうございました。お陰様で一つの決着はつきました」
「頭を上げてください、咲耶様!私は当然のことをしたまでっす!」
当然のことか……。俺に協力してくれることを当然と言ってくれる人が一人でもいるというのがこんなにもうれしいことだとは……。
「それで……、何かお礼がしたいと思うのですが、今までこのような経験もなく杏さんへのお礼をどのようにすれば良いかわからないのです。そこで何かご希望があればお聞きしたいのです。何か希望がありましたらご遠慮なさらずにお教えください」
杏が果たしてくれた役割は非常に大きい。押し付けた負担も多く、働きも大きなものだった。プロの仕事だったと言える。普通なら大人のプロにそれだけ働いてもらえば対価を支払うのが当然だろう。ただ俺達の関係や年齢や立場でお礼として対価に現金を支払うというのはおかしすぎる。それに杏に失礼だ。
杏が大人で、そういうことを仕事にしているプロだというのなら対価を支払わないのは失礼になるけど、俺達は子供でそれを仕事にしているプロでもなく、そして今言ってくれたように杏は友人として俺の手助けをしてくれた。そんな相手に対して現金を支払うなんて失礼にあたる。
でももちろんだからって何のお礼もしないというわけにはいかない。杏は中等科の授業も抜けていたはずだ。俺のせいで杏が授業も休んでいたというのに俺が杏のために何もしないというのは許されない。何らかのお礼はしなければならない。でも大人のプロのように現金を支払って終わりともいかず……、どうすればいいかわからない。
本当にちょっとした手伝いというだけなら菓子折りでも良いだろう。でも今回の件はそんな安っぽいことじゃなかった。こちらがちょっとしたお礼の品を用意して渡しますで済ませて良いレベルじゃないと思う。
「見損なわないで欲しいっす!そんなつもりで手伝ったんじゃないっすよ!」
杏は怒り出した。それはそうだよな。友達が困っているからと思って手助けしたらお礼だの何だのと言われたら、そりゃ怒るよ。でもそう言われてもやっぱり今回の杏の働きにはしっかり報いなければならないと思う。
「そうですか……。あのカメラとか……、あのレンズとか……、何が良いか考えていたのですが……」
「えっ!?あのカメラっすか!?それにあのレンズっ!?」
「あるいは何か私でお手伝い出来ることがあれば可能な限りお手伝いしようかとも思ったのですが……」
「なっ、何でもっ!?」
そうだよな……。物やお金で片付けようなんて失礼だったよな……。
「あのカメラが……、いやいや、それよりやっぱりあっちのレンズを?」
「……杏さん?」
「ちょっと待つっすよ!そんなすぐに決められないっす!あのカメラも捨て難い……。上限はいくらっすか!?」
杏さん……、物で釣られてませんかね?まぁいいけど……。
「上限など気にされなくても良いですよ。これは私だけではなく父からのお礼も含まれています。ですので品や金額はお気になされる必要はありません」
「ふおおぉぉぉっ!どっ、どれでもっすか!?どっ、どれを選べば……。やっぱりあれを……。いやいやいや!こんな機会は二度とないっす!もっとじっくりカタログを見て選んだ方が……」
本当に杏はカメラとかその手の機材に目がないんだな。最初に格好良いことを言った杏は消え去ってしまったけど、これはこれで杏らしくて良い。
「いや……、ちょっと待つっすよ……。咲耶たんが何でもしてくれるとも言ったっすよね?じゃあ!水着モデルとかしてもらっても良いってことっすよね!?」
「えっ!?ええっ!?みっ、水着モデル!?」
俺が?水着モデル?…………やばい!想像しただけで恥ずかしくなってきた。しかも何の水着だ?どんな水着だ?その写真をどうするつもりだというのか!?競泳水着なら着慣れているけどビキニとかは絶対着れない!あんなの恥ずかしすぎる!
「そうっすよ!ねっとりじっくり、ねぶるように!可愛い水着からエロティックな際どい水着まで!咲耶たんの水着撮り放題!萌え~~~っ!」
「まっ、待ってください!その写真をどうするつもりですか?どこかに公表されるのでしたらそのようなことに協力出来ませんよ!?」
雑誌に投稿されたりしたら大変だ。そんなことになったら俺はもう二度とお日様の下を歩けなくなってしまう。確かに出来ることなら何でもするって言ったけど出来ないことは出来ない。
「ああ!公表はしないっすよ!咲耶たんファンクラブでちょっと共有するだけっす!」
「さっ、咲耶たんファンクラブっ!?」
何それ怖い……。自分が知らない所で自分に関わる何かがなされていたら誰でも怖いだろう?つまりはそういうことだ。
「ああ……、どうしようっす……。カメラもレンズも捨て難いけど咲耶たんの撮影会も……。ああっ!?」
「えっ!」
また杏が大声を出すから驚いた。今度は何だ……。もう杏の相手は心臓に悪い。今度はどんな無茶を言われるのかと思うと俺の方がもたないよ……。
「それって……、例えばっすけど……、一日咲耶たんとデートとか……、そういうのもありっすか!?」
「えぇっ!デッ、デートっ!?」
ナンダッテー!?
…………別に普通だな?杏と一日お出掛けするっていうことだろう?それくらいなら別にどうってことはない。変な所へ連れて行かれるとか、変なことをさせられるんじゃなければ、普通に町に出てショッピングしたり何かの鑑賞や観劇したり、そういうことならいくらでもお付き合いしよう。むしろそれじゃお礼としてまったく足りない。
「変な所へ行って、変なことをするのでなければ……、普通に二人で町にお出掛けするだけならばそれでも構いませんよ。むしろそれではお礼にならないくらいでしょう」
「何言ってるっすか!?咲耶たんと一日デート出来るなんて咲耶たんファンクラブのあの人やあの人に知られたら私が消されるくらいの凄いことっすよ!」
何かよくわからないけど……、とりあえず杏にそう力説されてしまった。まぁ……、価値観とかは人それぞれだし……、俺にとってはつまらないことだと思うことでも、人によっては重大なことだという場合もあるだろう。それについてはとやかく言うことじゃない。本人達の価値観をこちらが尊重すれば良いだけだ。
「え~……、それでは杏さんとお出掛けするということにしますか?」
「確かにそれも捨て難いっす!でも良いカメラやレンズを手に入れて今後の咲耶たんの撮影に活かす方が最終的には良いような?あるいは撮影会でお宝写真を大量に……。あぁっ!すぐには決められないっす!」
俺からするとそんなに悩むことか?と思うけど……、とりあえず杏の中でも色々と葛藤があるらしい。無理に急かして今すぐ決めろというものでもないし、借りは借りとしていつか本当に杏が困っている時に返すものだろう。
「今すぐ決められる必要はありませんよ。いつでも何かお困りのことがありましたら相談していただければ、私の可能な限りお手伝いいたします」
「そうっすね!今すぐには決められないっす!じっくり考えさせていただくっすよ!」
本当に杏なら遠慮なく色々と言ってきそうだ。これもまた杏の魅力の一つなんだろうな。俺の周りにいる他のご令嬢達だったら遠慮したり、そんなこと気にしなくて良いと言って辞退するだろうけど、こうして遠慮なく素直に言ってくれる人というのもそれはそれでとても魅力的だ。
杏はまだあれこれ悩んでいるようだけど、一先ず保留というかまた後で決まれば教えてもらうことになったのでこの話題は置いておく。杏も落ち着いてきたようだからお茶を飲みながら少し雑談をしている時に思い出した。
「そう言えば杏さん、先日の初等科の運動会で実況をされていましたよね?」
「もちろんっすよ!」
いや……、何がもちろんなのかはよくわからないけど……。微妙にかみ合っていない気がするけど詳しく聞いてみる。
「中等科の授業があったはずですが……」
「そんなもの咲耶たんの撮影のためなら欠席っすよ!それに私は正親町三条様のお陰でそういう時に欠席しても欠席扱いにならないっす!」
あ~……、前にそんなことを言ってたな……。しかも茅さんが学園に圧力をかけたって自分達でも言っちゃってるよ……。俺も察していながらあえて触れてなかったのに、自分からはっきり言っちゃったら駄目だよね……。
「それでは学園公認だったと?」
「そうっすよ!当然っす!いくら私でも許可もないのにマイクジャックなんてしないっす!」
う~ん……。公認だったらマイクジャックするのか?それもどうなんだ?それからまた運動会のことについてなど他愛無い話で杏と盛り上がる。そこでふと俺は気になったことを杏に聞いてみた。
「そういえば……、今回のマスコミの件ですが……、どうして突然初等科に取材が殺到したのでしょうか?何かきっかけが?」
「…………え?咲耶様本気で言ってるっすか?……これを知らないんすか?」
そう言って杏がスマートフォンを操作して何かの映像を見せてくれた。それは都心のとある屋外大型ビジョンの映像だ。誰かがカメラで大型ビジョンを映している。
「えっ!?これはっ!?」
そこに映っていたのは俺達のコンサートの様子だった。その映像では一曲目の途中からと、そのあとすぐに続けて演奏した二曲目までが大型ビジョンに映されていた。その二曲が終わると大型ビジョンの映像は普通のニュースに戻っていた。町の人はかなり騒然としている。そりゃそうだろう。いきなりあんな映像が流れていれば何事かと思うはずだ。
「あのコンサートの、夜の部の最初から二曲分はこうして全国の近衛財閥が所有する大型ビジョンに生放送されたらしいっすよ。地区によっては大型ビジョンがないので、トラックに大型ビジョンを載せて運んで放送された地区もあるらしいっす。それで一躍全国で話題になったんすよ」
「なっ……、なっ……」
何しとんじゃ近衛靖子っ!あのババアっ!こんな……、こんなことをして許されると思っているのか?曲や映像を俺達に無断で勝手に配信したってことじゃないのか?
「ちなみにっすけど……、映像や曲の配信については私達が同意してサインした契約書に書かれているっす……。近衛家がこれを放送するのに何の法的問題もないっす……」
あっ……、あのババァっ!しれっと契約書にそんなことを書いていたのか!っていうかまさかあんなホールで演奏して、全国で生中継されるなんて思ってもみなかった。契約に書かれていたのなら確認したり訂正を求めなかったこちらの落ち度だ……。してやられた!
「それで全国で話題になって、しかもあんなライブまでやったものっすから、あのバンドも芸能界デビューするって噂で持ち切りっすよ。それでマスコミが詰め掛けてきたっす」
「そうでしたか……」
杏のお陰で貴重な情報を知ることが出来た。俺は明日近衛母と会うことになっている。向こうからアポを取ってきて日曜に会うことになっていた。何を言うつもりなのか知らないけど、明日近衛母と会う前に杏にこの話を聞けてよかった。明日の面会に向けて色々と考えなくてはな……。