第二十八話「事件」
いつまでも観ていたいと思えるような九条咲耶の素晴らしい踊りは伊吹、槐、良実の三人で終わってしまった。残念に思いつつも少し休憩を挟んだらまた踊らないかと思って期待している者達もいたがその気配はない。
他の者とは踊るつもりはないとばかりに下がり壁の花になっている咲耶に何人かの子供達が声をかけているがほとんど相手にされていなかった。そんな中一人の女の子が九条咲耶へと近づいていたのだった。
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薊はギリリと爪を噛む。伊吹と咲耶の踊りは素晴らしいものだった。途中から自分の踊りも忘れて二人の踊りに見入ってしまっていた。
薊は伊吹と結婚しなければならない。どんなことをしても、誰に何を言われても、必ず伊吹と結婚しなければならないのだ。その覚悟はあった。絶対に誰にも譲らないと心に誓った。それなのに……。
伊吹と咲耶をお似合いだと思ってしまっている。自分など敵わない。咲耶に太刀打ち出来ないと認めてしまっている。そんな自分が何より許せない。
どんなことをしても……、必ず伊吹と結婚しなければならない。そう誓ったはずなのに……。
だから薊は壁の花になっている咲耶の下へと向かった。ズカズカとお嬢様らしくない歩き方になっているが気にしている余裕はない。
「九条咲耶!」
「あっ……、薊ちゃん、御機嫌よう」
「ぁ…………?」
頭に血が昇って、とにかくただその身の内にある激情のままに咲耶に詰め寄ろうとした薊は……、にっこりと微笑まれて挨拶されて一瞬で頭が冷えた。
自分は今何をしようとしていたのか。咲耶に詰め寄って一体どうするつもりだったのか。
ひっぱたくつもりだったのか?それとも声を荒げて罵倒するつもりだったのか?咲耶には何の落ち度もないのに?
確かに薊は咲耶に敗れたのだろう。何よりもう心が認めてしまっている。そして薊にはそれが許せない。自分の覚悟のなさが……。あっさり敗北を認めてむしろそれを応援したい、続きが見たいとすら思っている自分が許せない。
しかしそれは咲耶に詰め寄ることだろうか?それは自分の問題だ。咲耶に言うべきことではない。
九条咲耶は……、自分がいくら無視しようとも、意地悪しようとも、いつもその柔らかい笑顔を自分に向けてくれている。そんな相手に自分は……。
「あっ?」
ガシャンと……、ヨロヨロと後ずさった薊はテーブルの上に並べられた料理を落としてしまった。そして料理がドレスにかかって汚れる。
「ぁ……」
大失態だ。料理を零してドレスを汚してしまうなど徳大寺家の娘にあるまじき大失態を演じてしまった。
どうすれば良いか頭が回らない。こういう時の対処法もあったはずだ。しかしただ頭が真っ白になって次の行動が取れない。確かに零してしまうのは大失態だが絶対にないということもない。誰だってたまにはそういうこともある。だからその後の対処が大切なのだ。万が一零してしまった場合にも相応に対処すれば大きな減点にはならない。
しかし今の薊は頭が真っ白で何をどうすれば良いのかがまるで出てこない。何度も習ったはずなのに咄嗟に動けなかった。理由は色々ある。普段のお稽古の時ならばいつも通りに対処出来ただろう。ただ今の薊は冷静ではなかった。
伊吹と咲耶の姿を見て激情に駆られていた。その後咲耶に詰め寄ろうとして咲耶に微笑まれて挨拶されて自分の行動に後悔していた。そんな中で起こったことでありいつものように冷静に対処出来ない。どうすれば良いのかわからない。
「ぁ……、ぁ……」
「申し訳ありません徳大寺様。私の不注意でドレスを汚してしまいました。真に申し訳ありません」
いきなり目の前の咲耶が大きな声でそう言いながら深々と頭を下げた。
「…………え?」
薊には何のことだかわからない。これは薊が勝手によろけて勝手に零したものだ。そこに咲耶は何の関係もない。それなのに何故咲耶が頭を下げているというのか。
「どうしたんだ?」
「九条家の娘が徳大寺家の娘に料理をひっかけたらしい」
「何でまた?」
「ほら……、徳大寺家は近衛家の伊吹君の……」
「あぁ……。一番の許婚候補だったから……」
周りの大人達のヒソヒソ声が聞こえて……、薊は青褪めた。
「ちっ、ちがっ……」
何故咲耶があれほどよく聞こえる声で謝ったのか。それは自分の失態を庇って言われなき失態を被ったのだ。しかも話は勝手に思わぬ方向に動いている。
内容は全然合っていない。実際に徳大寺家は伊吹の許婚候補筆頭などではなかった。あれは徳大寺家が勝手に流した噂だ。そうして周囲からそういう雰囲気を醸成しようとした策略だった。社交界デビューで会って以来薊は伊吹にアプローチしてきたが本人から良い感触は返ってきていない。そして徳大寺家と近衛家の話し合いも進んではいなかった。
そこへきての咲耶の登場と伊吹への急接近で焦っていた薊は藤花学園でも咲耶に色々と食って掛かっていたのだ。だから違う……。咲耶が薊にわざわざ料理をひっかけてこんなことをしなければならない理由などない。
しかしそんなことなど知らない周囲はまた面白い噂話のネタが出来たとばかりに面白おかしく勝手に脚色していく。これは伊吹の許婚の地位争いだとか、薊が許婚候補だったのに咲耶が奪って未だに薊を敵視しているのだとか、好き勝手な予想、いや、予想や想像ですらなく何の根拠もない妄想が広がっていく。
それなのに……、周囲の声が聞こえているはずなのに……。咲耶は何一つ言い訳しない。言い訳どころかそもそも料理を零したのは薊の不注意だ。咲耶は何の関係もなかった。それなのに何故……。
「申し訳ありませんでした徳大寺様。下がってドレスを……」
頭を上げた咲耶は薊を連れて下がろうとした。咲耶は悪くないと言わなければならないのにどうすれば良いのかわからない。元々混乱していたのにさらなる混乱によって薊は何の対応も出来なかった。それを薊が悪いとは言えないだろう。何しろまだ六歳ほどの子供なのだ。ここできっぱり完璧な対応が出来る方がおかしい。
「ちょっと!何をしているの!」
「お母様……」
薊を連れて下がろうとした咲耶をドンッと押し退けて女性が薊の腕を引っ張った。
「あなた!うちの薊に何てことをしてくれたの!九条家だからって、五北家だからといって何をしても許されると思ったら大間違いよ!そっちがそのつもりならこちらにも考えがありますからね!」
「ぁ……、ちがっ、お母様……」
説明しなければ……。咲耶は何も悪くない。それどころか自分の方が悪い。それを説明しなければこのままでは咲耶は言われなき罪で批難されることになってしまう。しかし小学一年生程度の子供がこんな時に大人達を相手に冷静な対応など出来るはずもない。
そもそももしそれを正直に話せば自分が何故咲耶に詰め寄ろうとしたのかまで話すことになる。料理を零すという失態程度はまだしも、嫉妬に駆られ、自らの激情の赴くままに咲耶に詰め寄ろうとしていたなどと自ら告白するのは子供には酷なことだった。
「咲耶!あなた何をしたの!?」
「お母様……。徳大寺様、申し訳ありません。私の不注意により薊様のドレスに料理を零してしまいました。まずは下がってドレスのシミを……」
九条家の夫人までやってきて場はますます混乱してくる。しかし咲耶が自らそう言って頭を下げたことで薊の母も咲耶の母も全てを把握した。薊の母は会場に居たから周囲の声を聞いて大体は把握していたが、咲耶の両親は今しがた到着したばかりだ。到着してそうそうの騒ぎに母が飛んできたのだった。
「咲耶!あなたなんてことを……。徳大寺様、うちの娘が申し訳ありません。ドレスの弁償をさせていただきます」
「触らないで!薊!行くわよ!」
「まっ、お母様っ!ちがっ!」
薊の目の前で咲耶は自身の母親に頭を押さえつけられて下げられる。薊の胸がギュゥッと苦しくなった。それでも咲耶は何一つ言い訳しない。母親に引っ張られながら会場から離れていく薊は最後まで咲耶のその姿を見ていたのだった。
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徳大寺家の母娘がいなくなるまでずっと頭を押さえつけられていた九条咲耶はようやく九条家の夫人からその手が離されて顔を上げた。
「咲耶……、あなたはもう帰りなさい」
九条家のご夫人の言葉は感情の欠片も篭ってはいなかった。親が子にかける声ではない。怒りとも呆れともとれる、全てを振り切ってもう完全に冷め切っているような、そんな冷たい声だった。
「はい。皆様、お騒がせして申し訳ありませんでした」
最後に咲耶は周囲にそう言って頭を下げるとパーティーホールを出て行った。会場中は完全に静まり返っており咲耶の歩く音と扉が開き閉められた音しかしなかった。
咲耶が出て行ってもしばらく静まり返っていたホールはまた少しずつ音を取り戻していく。
「最初はすごいご令嬢だと思ったものだが……」
「やっぱり噂通りの人物か」
「それはあれなら九条家が社交界に出してこれないわけだ」
「あれではな…………」
あっという間に今の出来事の話題で持ちきりとなる。九条家の当主夫妻はあちこちで平謝りしている。しかしそんなことで今の汚名が雪がれるはずもない。
今夜のパーティーは思わぬ出来事の連続で非常にスキャンダラスな夜だった。最初は九条家の美しいお姫様を巡る近衛家と鷹司家の奪い合いかと思ったがそんな話はもう吹っ飛んでしまった。
人々は他人の醜聞が大好きだ。美談よりも他人の醜聞を好んで聞き広める。今夜の出来事は完全にそういうことを面白がる者達の興味を刺激してしまった。
九条家の咲耶と徳大寺家の薊の確執。小学一年生でありながら近衛家の許婚の座を巡る血みどろの争い。パーティーの最中に相手のドレスをわざと汚すという小学生にあるまじきドロドロの足の引っ張り合い。それを面白おかしくさらに脚色してお互いに話し合う。
ああでもない。こうでもない。もしかしたらこうかもしれない。あちこちで人々が勝手な妄想を加えて話が加速し、ありもしない争いを周囲が勝手に囃し立てる。
やがて九条咲耶は五北家の一角であることを傘に着て七清家の徳大寺薊に嫌がらせをした人物として社交界、上流階級において噂が広まることになった。
この日の出来事により九条咲耶には『近衛家と鷹司家で奪い合われている』という噂と『他人を蹴落とすためならばどんな汚いことでもする』という噂が駆け巡ったのだった。
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母親に腕を引っ張られて控え室へと下がった薊は母親に本当のことを話そうと口を開いた。
「お母様!聞いてください!これは九条咲耶がしたことでは……」
「そんなことはどうでも良いのよ!あなたは黙っていなさい!」
「…………ぇ?」
母の腕を掴んで必死にそう訴えようとした薊はニチャァッと笑う母の顔を見て息を飲んだ。
「いい?薊。これを誰が汚したか、どうして汚れたかなんてどうでも良いことなのよ。あれだけの人の目がある中で九条家が徳大寺家に謝った。その事実が大事だということよ。薊、あなたは今夜あったことを人に話すんじゃないわよ?九条咲耶に料理をひっかけられてドレスをわざと汚された。そう言いふらしなさい。いいわね?」
「な……に……を?」
薊は目の前の物体が発している音の意味が理解出来ない。ただ不快な音として聞こえるだけだ。頭がその音の意味を理解することを拒否している。
「今夜のことを最大限利用するのよ!近衛家との婚姻も、九条家との関係でも、全てに、最大限に!利用出来る限り利用してやるわ!本当のことなんてどうでも良い!あの鼻持ちならない九条家があれだけの衆人環視の中でこちらに頭を下げたのよ!スカッとしたわ!これからもっと、もっともっとこの件を利用してやる!覚えていなさい九条家!」
「ぁ……、ぁ……」
薊は……、目の前の物体の発している音の意味が理解出来ない。ただ恐怖に囚われて何もいえなかった。逆らえない。逆らうわけにはいかない。そもそも自分は近衛伊吹と結婚しなければならない。だから……、例えこのまま無実の罪で咲耶を貶めてでも……。自分の意思とは裏腹に薊は母の言う通りに動くしかない。
ただ……、薊の脳裏にはいつもの柔らかい笑顔で微笑む咲耶の姿がチラついて、胸がギュッと苦しくなったのだった。