第二百八十三話「学園前にて」
俺はスキップしそうなくらいルンルン気分で廊下を歩く。食堂での一件と、その収拾のためにあちこちに連絡して段取りはついた。いつまでも濡れたままというわけにもいかないので俺一人だけ食堂を出て保健室へと向かっている最中だ。
グループの皆には付き添おうかと言われたけど、皆まだ食事の途中だったし、ただ少し濡れただけで大したことはないからと断って一人で来た。何より今夜のことを考えると楽しみで仕方がない。今はまだ喧嘩状態というか少し揉めてる状況とはいえ、可愛い二年生達がたくさんお泊りに来てくれるんだ。楽しみにならないわけがない。
各家にも連絡したし、俺も習い事を早く切り上げるために師匠にも連絡しておいた。もしいつも通りの時間まで修行していたらお泊り会の意味がなくなってしまう。二年生達がもう寝る時間になってしまうだろうからな。
そんなことを考えているうちに保健室に到着した俺は、タオルとかを借りて簡単に体を拭かせてもらった。緊急時用の着替えとかもあると言われたけど断って、簡単に乾かしてから俺は少し遅れて教室へと戻ったのだった。
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「大丈夫でしたか?咲耶ちゃん」
「ええ。大丈夫ですよ」
お昼の間には戻れなかったから皆に心配されてしまった。でも本当にただ少し水をかけられただけだからどうということはない。時間がかかったのも服を乾かすのに少し手間取ったからだ。別に体調不良でも病気でもないし何も問題はない。
あっ……!でもそう言えば昼食は食べ損ねてしまったな。少しは食べたけどまだ食べ始めて間もなく射干達がやってきたからほとんど手をつけていなかった。一食、二食抜いたからって死にはしないけど、咲耶お嬢様の体は燃費が悪いのか、食いしん坊なのか、結構たくさん食べる方だ。放課後の修行も考えたら何か食べておいた方が良いと思うけど……。
「咲耶ちゃん!これを食べて!咲耶ちゃんのために食堂で用意してもらっていたの!」
「まぁ!ありがとうございます!」
蓮華ちゃんが出してくれたのはサンドイッチだった。俺が昼食を食べられていないから、食堂で頼んで作ってもらったらしい。あまり食いしん坊と思われるのも恥ずかしいけど実際にお腹が空いている。お上品ぶって遠慮するよりもお腹を膨らませることが優先だ。
「うん。おいしいですよ。皆さんもいかがですか?」
「いえ……」
「私達はお昼にいただいたので……」
皆申し訳なさそうな顔をしながら断ってきた。何名かはちょっとお腹を触ったりしている。本当にお腹がいっぱいなのか、ダイエットとかを気にしてるのか……。年頃としては微妙な年頃に入ってきたからどちらとも判別はつかないけど、無理に食えと食わせるわけにはいかない。
「はー!それにしてもこんな時まで咲耶ちゃんのおさほーは綺麗ですごいねー!私なんて普通に手で摘んでヒョイって食べてるだけなのに怒られたりするよー!こんな感じー」
そう言って譲葉ちゃんは一つ摘んでヒョイと口に運んだ。確かに別にどこもおかしくはない。至って普通だ。そう……、庶民からすれば……。譲葉ちゃんのは本当にただ摘んで食べるだけ。極一般的であくまで普通。ただ確かにお嬢様がそういう風にすれば怒られるだろうなとは思う……。俺達の中でそんなことを咎める子はいないけど……。
「ちょっと譲葉!それは咲耶様の分でしょ!」
「いいのよ薊ちゃん。薊ちゃんも一ついかが?」
「いえ……、その……、私はもうお腹が……」
そう言いながら薊ちゃんもつい自分のお腹を触ってしまったらしい。本当にお腹が一杯なのか、食べたいけど太るのが気になっているのかはわからない。パーティーとかでは皆割りと小食だけどそういう風に装っているだけというのは有り得る。どこのご令嬢がパーティーに行って人目も憚らずドカ食いするというのか。
だからパーティーであまり食べないからといってその人が小食だと判断するのは早計だ。俺だって実は結構健啖家と言って良いくらい食べると思う。でもパーティーでは少ししか食べない。外聞もあるし、後でダンスをしなければならないのに食いすぎて動けませんなんて言えないしね。
林間学校では皆たくさん食べていたと思うし、実はうちのグループも健啖家がちらほらいるんじゃないのかな?俺達はお嬢様だしあまり深く追及しちゃいけないからしないけどね。
「ありがとうございました蓮華ちゃん」
「いいえ!咲耶ちゃんのためなら私は何だって出来ますから!」
うん?まぁ何だってって言っても言葉の綾だろうけど深く追及する必要はない。蓮華ちゃんのお陰で落ち着いたし午後の授業も頑張れそうだ。
「あっ!そうでした。私は今日は五北会のサロンには行かずにそのまま帰ります」
「はい。わかりました」
「本当なら私達も……」
「お泊り会いいなー!楽しそー!私も参加したーい!」
「あはは……」
皆も参加したいとか楽しそうと言ってくれるけど、さすがに皆まで今日いきなり呼び出してお泊り会というわけにはいかない。人数が多くなりすぎればある程度仲の良い子同士で分かれてしまって、全体として親睦を深める効果も下がるだろう。
何より今日の目的は二年生達の問題を解決することであって俺は二年生の子達と話をしなければならない。皆が来ていたらホストとしてあちこちの相手をすることになる。それでは本来の目的が達成出来ない可能性がある。
「ごめんなさいね。今日はあの子達の問題が重要ですから……。皆さんとはまた別の機会にお泊り会でもしましょう」
「本当ですか!絶対ですよ咲耶様!」
「必ず!必ずしましょう!」
「いや……、あの……、あはは……」
皆の圧が凄い。もちろん社交辞令で言ったつもりはない。普通の人が相手だったらする気もないのに社交辞令で言ったかもしれないけど、皆とは本当にいつかお泊り会もしたいとは思っている。思ってはいるけど……、皆がこんなに食いついてくるとは思わなかった。それにかなり気圧される。
こんな楽しい会話はあっという間に時間が過ぎてしまい、すぐに次の授業が始まったのだった。
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放課後、いつもなら薊ちゃんと皐月ちゃんと三人で五北会のサロンに行く所だけど、今日はこの後の予定を切り詰めるためにサロンの時間は削ることになっている。
「それでは薊ちゃん、皐月ちゃん、御機嫌よう」
「お疲れ様でした!咲耶様!」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
皆と別れの挨拶を済ませて玄関口のロータリーへと向かう。サロンに行く時間を削ってこのまま百地流の修行に行かなければならない。さらに今日の修行時間まで減らしてもらっている。何しろいつも通りだったら夜になってしまうからな……。折角二年生達を呼んでいるのに、俺が帰ったら皆もう寝てましたじゃ洒落にならない。
「お?おいっ!出て来たぞ!」
「え~!こちら藤花学園前から中継です!」
「番組は予定を変更してお送りしております。いつもならばまだ学園から出てこられないはずの九条咲耶さんが出てこられました!生放送のため番組を変更して中継をお送りしております!」
……あ?
パシャパシャパシャ!
「うっ……!」
眩しい……。俺が学園の玄関口から出ると門の外にマスコミが殺到していた。前の多仁の事件があった直後はこんなことがあった気がするけど、それ以来こんなことは収まっていたのに今日はまた大勢のマスコミが門の外で待ち構えている。
狙いは明らかに俺だ。俺が出てきたら突然動き始めて俺を撮影している。偶然とか学園生なら誰でも良いわけじゃなくて明らかに俺が狙いだとわかる。でも何故だ?俺はマスコミにこんな風にされるような覚えはない。何か問題を起こしたわけでもないし、そもそも確かマスコミと学園で協定があったんじゃなかったか?
……そうだよ。前の騒動の時に学園とマスコミで協定が結ばれてこういう無秩序な撮影や取材は禁止になったはずだ。それなのに今回また同じようにしてマスコミが殺到している。こんなこと許されるのか?何故学園はこれを放置している?
「九条咲耶さん!一言お願いします!」
「芸能界デビューされるという噂は本当でしょうか?」
「ファンに向かって一言!」
いや……、いやいや……。え?何これ……?何なんだ?意味がわからない。何が起こっているんだ?
まず何故急にまた俺の周りにマスコミが現れたんだ?原因は?理由は?目的は?何もわからない。多仁の件が終わってしばらくしたらいつの間にかあの騒動は収まっていた。所詮あんな話題は一過性のもので、また教師の不祥事かとマスコミが騒いだだけだ。だから次の話題に次々移っていく。旬を過ぎれば誰も見向きもしなくなった……、はずだった。
それなのにこれは何だ?何故またマスコミがこんなに殺到してきているんだ?俺が何かしたか?それとも何かされた?
わからない……。何も思い当たることはない。どうすればいい?逃げる?いや、でも……、マスコミがしつこいのは前でわかっている通りだ。飽きて次の話題に飛びつくまではいつまでもしつこく付け回される。それまで逃げ回るのも手かもしれないけど、俺は何も悪いことをしてないのに何で俺が不自由を押し付けられて逃げ回らなければならないのか……。
「マスコミ各社の皆様、ここは藤花学園という学び舎です。その学園の門前を占拠し、他の生徒達に迷惑をかける行為をされて何も思われないのでしょうか?報道の自由とやらのためならば学園に通う生徒達に迷惑をかけ、近隣で騒ぎを起こしても良いとお考えなのでしょうか?今一度良くお考えください。このようなことをされる方々にはお話することは何もありません。御機嫌よう」
パシャパシャパシャ!
「え~……、一度スタジオにお返しします」
「九条咲耶さんの一言でした。それでは引き続き……」
「九条咲耶さん!芸能界デビューについて一言!」
俺が一言言ってもまるで効果はなかった。ただ単に吊るし上げられるネタを提供しただけかな……。でも言わずにはいられなかった。この近隣でへたり込み、弁当の食べた容器やペットボトルを入れたレジ袋があちこちに放置されている。それにそこらにへたり込んでタバコを吸っているマスコミ関係者も大勢だ。
報道の自由だ、知る権利だと言いながら彼らは自分達は何をしても良いと思っている。報道のため、ジャーナリズムのためだと言えば自分達は何をしても許されると思っている。
撮影のためだといって許可もなく道路を占拠し、近隣住民やそこに関わる人の迷惑も考えずやりたい放題。昔はそういうことがあっても被害者しかわからないことだった。でも今ではそういう実態が明らかとなり証拠が簡単に撮られてしまう時代になった。それでも彼らは昔からのそういう体質から抜けきらない。だからこそ衰退しているという自覚もなく、原因が自分達にあると考えもしない。
どうしてこんなことになっているのか……。原因もわからないからどうしようもないけど……、無駄に疲れた……。これなら早く修行にでも行く方がマシだ。
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いや、確かに俺はマスコミに殺到されるくらいなら修行の方がマシだって言いましたよ?でもこれはないでしょう!
「ぐえぇっ!しっ、しむ……」
「この程度で死ぬようなヤワな鍛え方はしておらん!」
「ぐえぇっ!」
今日の修行は……、滅茶苦茶ハードすぎる。死ぬ……。本当に死んでしまう……。
「しっ、師匠っ!今日は厳しすぎます!」
「時間がないんじゃろう?だったら内容を濃くするしかあるまい!口を開く暇があったらとっとと続けろ!」
「はひぃっ!」
今日の修行をサロンに行ってる時間程度に短縮してくれとは言った。でも……、これは厳しすぎる……。もう……、無理……。
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あ~……、死ぬかと思った……。今日の修行はハードすぎた。体中が痛い……。痣でも出来てしまっているのではないだろうか……。この咲耶お嬢様の美しい体に痣なんて出来ていたら大変だ。あとでボディケアしなければ……。
「ただいま戻りました……」
「さくやおねーちゃん!おかえりなさい!」
「くじょうさまおかえりなさい!」
ほわぁっ!かっ、かわいいっ!何だこれは?何なんだこの可愛い生き物達は!
「う~ん!可愛すぎます!ぐりぐりぐり!」
あまりに可愛く出迎えてくれる秋桐達を抱き寄せて頬擦りをする。あぁ……、癒される……。これなら咲耶お姉ちゃんはまたいくらでも頑張れるよ!
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咲耶が学園から帰った頃、五北会サロンでは伊吹が花束を持ったままソワソワしていた。
「おはようございます」
「御機嫌よう」
「…………あ?」
ようやく扉が開いて待ち望んでいた人物がやってきたかと思った。しかし……、いつもは三人のはずのそのグループには二人しかいなかった。
「近衛様?こんな所に突っ立ってられたら邪魔なんですけど?」
「まぁまぁ薊、いくら本当のことでもあまりはっきり言っては角が立ってしまいますよ。近衛様……、近衛様の常識では理解できないかもしれませんが、下々の者にとっては人の動線の上に立っているというのは避けるべきことなのです。立って待っておられるのでしたらあの辺りにでも立っておられた方がよろしいかと……」
そう言って皐月が指したのは部屋の隅の方だった。明らかに近衛財閥の御曹司が立っているべき場所ではない。
「皐月……、あんたの方がきついじゃない……」
「そうかしら?常識も知らないボンボンに常識を教えて差し上げているのですから感謝していただきたいくらいですが……?」
「…………」
二人はそんなことを言いながら自分達の派閥へと向かって行った。伊吹は何も言えず……、いや、それでもめげずに口を開いた。
「おっ、おいっ!さっ、咲耶はどうした?」
伊吹の精一杯の問いかけに……。
「咲耶様は今日はサロンに寄られず帰られましたけど?」
「いくら待っていても咲耶ちゃんは来ませんよ?」
「なっ!?」
二人の言葉に……、伊吹は花束を落として崩れ落ちたのだった。