第二十七話「社交界デビュー」
その日、近衛家主催のパーティーが開かれていた。名目は藤花学園に入学した新入生達が早く馴染めるように交流を深めるための親睦会ということになっている。しかしそんなものは取ってつけた名目に過ぎないだろう。
ここの所この界隈では一つの噂がまことしやかに囁かれていた。近衛家ほどの家の跡取り息子が藤花学園に入学するような年になってもまだ婚約者もいない。普通近衛家ほどの家ならば、いや、五北家や七清家のような高位の家格を持つ家ならば少なくともとっくに許婚候補くらいは選ばれているはずだ。
特定の一人と完全に決まっているわけではなくとも、何人かの候補が選ばれており話し合いが進んでいるくらいにはなっていなければおかしい。
それなのに近衛家の跡取り息子である伊吹にはまだ婚約者も、それどころか許婚候補ですら表に出てきていない。果たしてそんなことがあるだろうか?
裏ではもう決まっているが何か公表出来ない事情がある。いやいや、本当は婚約者が決まりそうだったのにご破算になったのだ。今候補者を選定中だ。
様々な憶測や誰かの主観が入った出所が不明どころか出所すらなく周囲が好き勝手に考え出した推論がまことしやかに囁かれる。それでも近衛家は反応することなく沈黙を守っていた。だからこそ余計に噂が一人歩きする。
そして今日……、名目上は親睦会となっているパーティーが開かれているがあまりに急すぎた。普通これだけ政財界の重鎮や著名人を集めるのにパーティーの通知がたった一ヶ月前であるなどあり得ない。普通なら何ヶ月も前から招待し準備を行なうものだ。そのあり得ないを強行してのパーティー開催だ。近衛家は一体何を考えているのか。
そこでこの界隈では一つの噂が流れていた。曰く『近衛家はこのパーティーで跡取り息子伊吹の婚約者を発表するのではないか』というものだ。
情報元が何かははっきりしない。誰が言い出したのか、どの程度信憑性のある話なのか、そんなことは一切裏付けが取れていないのだがそれでも人々は面白おかしく噂話に飛びつく。もしかして今日何かとんでもないサプライズがあるかもしれない。野次馬達はそんな期待に胸を躍らせていた。
また……、近衛家と縁戚を結ぼうと虎視眈々と狙っていた各家は神経を尖らせていた。最初から家格的にまったく釣り合わない家はただの野次馬だ。自分達には関係ないと最初から思っているから面白おかしく期待しているだけでいい。
しかし本気で近衛家との婚姻を狙っていた上位の家にとってはそんな些細な噂でも無視し得ない。近衛家は自分の家とはそんな話はしていない。もし本当に婚約発表がされてしまうのならばそれは自分の家ではないということだ。
これまで様々なルートを通じて働きかけ、本気で会社や財閥の統合も目指してアプローチを続けてきたというのに、自分達ではなく他のどこかの家と婚姻を結ぶかもしれない。そう思えば本気で狙っていた、狙える位置にいた家々にとっては冗談や噂話では済まない。
最初から近衛家との婚姻のめなどなかった家々は面白おかしく期待しながら、本気で狙っていた上位の家々はお互いに誰が婚約者になるのかと牽制し合い腹を探り合いながら、表面上はにこやかに挨拶を交わしていく。
そんな時……、まだパーティーは始まっていないが少し遅めの時間にパーティーホールの扉が大きく開かれたのだった。
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「あれは九条家の良実様……、ということはあのエスコートしている女の子は……」
大きく開かれた扉から入ってくる二人の人物に視線が集中する。一人はよく知っている。近衛家に並ぶとさえ言われる九条家の跡取り息子、九条良実を知らない者などこの場にはいない。良実は今まで誰もパートナーがおらず誰かをエスコートしてきたことはない。その良実が一人の女の子をエスコートしていた。
「あれが噂の九条家の秘蔵っ子か……」
「確か名前は……」
ならばそれが誰であるのか考えるまでもないだろう。九条家にはこれまで表に出て来たことがないもう一人の子供がいる。本来ならとっくに社交界デビューを果たしお披露目されている年齢にも関わらずこれまで一度たりともこのような表舞台に出て来たことがない九条家の一人娘、その名は……。
「「「「「九条咲耶様」」」」」
これまでも様々な噂は飛び交っていた。曰く『あまりに粗暴なためにパーティーになど到底出せる人物ではない』。曰く『酷く醜い姿をしているために表に出せない』。曰く『いくらマナーを教えても覚えられないのでパーティーに出席させられない』。
どの噂も碌な物ではない。噂好きの者達がこんな格好の的を見逃すはずもなく噂ではなく誰かの勝手な推測や想像があたかも本当のことかのように一人歩きしていた。しかしそれも今日までだ。
「美しい……」
「まったくだ。どこがマナーも覚えられないんだ?」
「性格が荒いようにはまったく見えないな」
入場してきた女の子、九条咲耶は小学校一年生とは思えないほどに、これが社交界デビュー初日とは思えないほどに堂々と歩いていた。背筋は真っ直ぐ伸びており作法やマナーに一切の隙がない。大人どころか作法やマナーを教えている先生達ですら見惚れるほどにまったく非の打ち所がないお手本だった。
僅かに微笑みチラリと視線を流してくる。その艶のある仕草に大人達ですら骨抜きにされかねない。現九条家当主、九条道家が随分と娘自慢をしているらしいとは噂だったが誰も信じていなかった。
もし本当に実父、道家の言う通りの器量良しなら何故社交界という表舞台に出てこないのかと皆懐疑的に見ていたのだ。しかしその自慢は本当だった。いや、まだ謙遜していたとすら言える。
小学校一年生、六歳や七歳の子供に対して何を言っているのかと思うかもしれない。しかし実際に九条咲耶は一瞬にして大人達を骨抜きにし魅了してしまった。それは異性として性的に欲情するとかそういう類の話ではない。それは言わば孫を可愛がる祖父母やアイドルを追いかけるファンのようなものだ。
一瞬にしてこのパーティーに参加していた大人達、いや、子供達も、老若男女を問わず全ての者を一瞬で虜にしてしまった。
普通社交界デビューの日というのはほとんどの子供が緊張で硬くなっているか、何らかの失敗をしてしまう。それなのにこれがデビューの日とは思えないほどに堂々と、一切隙なく完璧に歩いているその少女から誰も目を離せなかった。
そこへ近衛家の伊吹と鷹司家の槐が近寄り話しかける。これだけの人がいて距離があるのだから多少聞き耳を立ててもその内容まで全て聞こえるわけではない。しかし随分親しそうだということだけはわかった。何よりも伊吹の反応がわかりやすすぎる。
あの普段大人びていてませたガキだと思っていた伊吹が九条咲耶の前でだけは年相応の男の子になっている。その意味がわからない大人はいない。つまり今日のパーティーは…………。
さらに近衛家のご夫人まで九条家の兄妹に話しかけに行っている。これでもう確定だろう。今日はそのお披露目と発表のために催されたパーティーだと誰もが認識したのだった。
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大人達は今日が社交界デビューの日である九条咲耶に興味津々だった。料理を楽しんでいる咲耶に興味本位で近づく。同じように料理を取る振りをしながら近づいて見てみた者達は全員が固まることになった。
作法、所作全てが完璧すぎる。小学校一年生どころか自分達の、いや、自分達が作法を習った先生ですら明らかに超えているだけの完璧なものだった。一体どこでどれだけ仕込まれればこれほどになるというのか。どこかに隙があるだろうと必死になって探して諦めて帰ってくる者が続出していた。
そんな中で一人の女の子が咲耶に近づく。近衛伊吹の許婚候補の一人とも言われていた西園寺皐月だ。西園寺皐月も年に比べて随分大人びていると思われていたが咲耶とは比べるべくもない。皐月がませた子供だなと思われるくらいだとすれば咲耶は一人前の大人と同列に扱われるくらいに差がある。
それまではしっかりしていてませた子供だと思われていた西園寺皐月が、九条咲耶と並んでいると年相応に見えてくるのだから不思議なものだ。二人は近衛伊吹の許婚候補としてライバルだったのだろう。何か会話してから西園寺皐月が離れていく。
そしてとうとうパーティーは佳境へと入り子供達によるダンスが行なわれる。大人達が端に寄りホールの中央を広く空けた。そこへ九条良実がエスコートした九条咲耶が歩いてくる。その前で待っていた近衛伊吹に九条咲耶のエスコートが引き継がれた。これが意味することがわからない大人達はいない。
ここまで兄にエスコートされてきた咲耶が伊吹のエスコートに交代する。それはつまり九条家から近衛家に咲耶のリードが渡されたということだ。これまでパートナーのいなかった伊吹が一番最初に咲耶をパートナーに指名する。それを九条家は兄、良実から伊吹へと渡させたのだ。
洋式の結婚式において父親が娘をリードしていき途中で新郎に交代する。その意味がわからない者はいない。この場においてもそれがわからない者はいなかった。これだけのパーティーを開き、今までパートナーのいなかった伊吹が、今まで社交界に顔も出したことがない咲耶をホールの中央でリードする。誰の目にもその演出の意味は明白だった。
やがて流れ出す曲に合わせて子供達がダンスを始める。どの子達も子供らしくぎこちなかったり、ステップを間違えたり、人とぶつかったり足を踏んだり踏まれたり……、見ていてほっこりするような子達ばかりだ。そう、中央で踊る二人以外は…………。
スポットライトを浴びて踊る中央の二人だけはまるで別世界のようだった。いや、実際に別世界だった。どれほど一緒に練習すればああなるのかと思えるほどにぴったりと合わされた息。誰が振り付けを指導したのか独特のアレンジが加えられた振り付けながら二人は一切乱れることなく完璧に踊っている。
周りにいる子供達は最早ただの引き立て役にすぎない。まるで映画のワンシーンを見せられているような中央で踊る二人の踊りは素晴らしく感動のあまり涙を流しているご夫人達までいた。
曲が変わり次第に激しくなってくるがそれでも二人は一切乱れない。他の子達が次第についていけなくなっているというのに曲にぴったりとついていく。いや、曲を奏でている方が二人の踊りに引っ張られているのだ。プロの演奏家達が小学一年生の二人の踊りに必死についていっている。
いつまでも観ていたい。時を忘れ、あるいは呼吸すら忘れて全ての者達が見入る中ついに曲はクライマックスを迎えて終わりを告げる。まだ観ていたいという気持ちと余韻を残したまま暫くホールは静寂に包まれた。
パチ……、パチパチ……、パチパチパチパチッ!!!
一人、誰かが拍手をする。それで現実に引き戻されたように他の一人も拍手する。やがて会場中から盛大な拍手が中央の二人に送られた。
「素晴らしい!」
「あの二人お似合いね」
二人のダンスは本当に素晴らしいものだった。また二人の息が完全に合っていた。アレンジを加えた振り付けも素晴らしい。あれだけのものが出来るということは二人は相当前から共に練習を繰り返したに違いない。でなければあれほどのクオリティのダンスをこの場の即興で出来るはずなどないのだ。
伊吹のパートナーは決まりだ。誰もがそう思った。しかし……、事はそれだけでは終わらない。ダンスを終えた二人の前に鷹司槐が現れる。そして次は槐と咲耶が踊り出した。それを見て再び噂好きの者達が勝手な推測を始めた。
一番のパートナーは伊吹に譲ったが鷹司家の槐が次に咲耶と踊り出した。それはつまり近衛家と鷹司家、伊吹と槐による咲耶争奪戦の様相を呈してきたということだ。
しかも槐と咲耶のダンスも素晴らしいものだった。これもまた今日初めて踊った者同士ではないだろう。事前に練習していなければダンスの先生でもこれほど素晴らしい踊りなど出来るはずがない。
このパーティーはただ伊吹と咲耶の婚約発表がされるだけのパーティーではなかった。何故近衛家がいつまでも咲耶との婚約発表をしなかったのか。それは近衛家の伊吹と鷹司家の槐が九条咲耶を巡って奪い合っている最中だからだったのだ。この日のパーティーを境にそんな噂が上流階級の間で広まることになったのだった。
そしてこの後に起こった大事件のためにさらに別の、もう一つの大きな噂が社交界に広まることになるのだった。