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第二百七十八話「評価」


「…………」


 ふと目が覚める。何だっけ……。何か悲しいような、申し訳ないような、何かがあった気がする。でもよく思い出せない。


「……あ?」


 俺の顔も枕も、酷く涙で濡れている。何だっけ……。何か大切な、大変なことがあったような気がするけど……、それでもやっぱり思い出せない。


「ふぅ……」


 思い出せないことをいつまでも考えていても仕方がない。昨日は早く眠ったせいかいつも起きる時間より少し早く目が覚めてしまった。いつも椛が起こしに来るよりも先に起きているけど、今日は輪をかけてそれよりも早い。こんな時間に目が覚めても時間を持て余すけど、もう一度眠ろうという気にはなれなかった。


 昨日手や指を使いすぎたのか腕から先が全て痛い。指先を動かすのも辛い感じだ。だけど今日もまた朝から百地流の修行に行かなければならない。あんなコンサートがあった翌日だというのに師匠にはお構いなしだ。適当に時間を潰していると椛が起こしに来たので朝の準備をして百地流の修行へと向かったのだった。




  ~~~~~~~




 さすがに今日は腕がパンパンだということを察してくれている師匠は修行のメニューを下半身強化中心などにしてくれていた。ありがたくて涙がちょちょぎれそうだよ……。


 昨日は金曜日で学園の授業も潰して演奏会が行なわれた。今日は土曜日なんだけど、昨日の演奏者達は今日近衛邸に集まることになっている。昨晩は簡単な打ち上げをしただけですぐに解散になった。皆の疲労なども考えれば当然だろう。だから大事な話は今日これから行なわれることになっている。


「え?お母様達もご一緒されるのですか?」


「当然でしょう?」


 当然なのか?何が当然なのかわからないけど……。


 朝食を終えてから午前中に近衛邸に集まることになっていたけど、どうやら両親も一緒に来るようだ。まぁ俺からすればそもそも今日の集まりの意味自体がよくわからないんだけど……。


 コンサートも終わって、簡単なものとはいえ打ち上げも昨日のうちに済ませたんだからもう何も用はないと思う。お互いに通常業務に戻ればそれで終わりじゃないのか?一体何のために今日集まるというのか。そもそも他の家もよくこれだけ時間を割くことを認めているものだ。近衛家の圧力があるとしても、このコンサート関連で相当時間を取られただろうに……。


 用件や目的はわからないけど、皆で集まると言われているのならそれに従うのみだし、両親も同行するというのなら俺がとやかく言うことはない。朝の準備を終えてから両親と三人で近衛邸へと向かった。兄はお留守番だ。別に俺達や近衛家の用事には関係ないからね。


「いらっしゃい咲耶ちゃん」


「御機嫌よう近衛様」


 近衛邸に着くとすぐに近衛母に迎えられた。人の家を訪ねる時は予定の時間より少し遅めに到着するようにするものだ。なので皆ほとんど同じ時間にやってきていた。ゾロゾロとやってきた面々はあっという間に揃った。


 向こうは近衛母一人。こちらはコンサートの演奏者達と、その保護者が最低でも一人以上、という感じだった。一体何が始まるのか想像もつかない。何のために集められたんだろう……。


「昨日コンサートが終わった後にも言ったけどもう一度言わせてもらうわね。まずはおめでとう!とても素晴らしいコンサートだったわ!」


「「「「「ありがとうございます」」」」」


 社交辞令を簡単に交わしておく。何なんだあれは!なんて言うわけもないし、素晴らしかった、よく出来た、などというのは当たり前の社交辞令だ。俺達だっていちいち真に受けたりしないし、昨日から散々聞かされた言葉でもある。


 そもそも近衛母があんなコンサートをしようとか言い出したのが事の発端なわけで、そのために俺達はあんな大変なことに巻き込まれてしまった。確かに皆と頻繁に会えて、一緒に一つのことに向かって努力して、協力して、皆で一体になれていたことは感謝している。でもお陰で俺達は大変な苦労も味わった。全ての元凶におめでとうとか素晴らしいと言われても白々しい。


「それでね。貴女達、近衛財閥の芸能プロダクションと契約しないかしら?」


「…………は?」


 一瞬近衛母の言葉の意味が理解出来ずに変な声が漏れてしまった。何を言っているんだ?まるで状況が理解出来ない。


「ああ、心配しなくても芸能人としてテレビに出て欲しいと言っているわけじゃないのよ。昨日の貴女達の演奏を聴いてね、多くの人がまた聴きたいと言ってきているのよ。そこで、CD、DVD、BDとか、色々と発売して欲しいという要望が多いの。ね?だから近衛財閥系列のプロダクションと契約して発売しましょ」


 いや……、本当に何を言っているんだ?いや、言いたいことはわかるよ?権利関係とか事務処理とか色々とあるから、正式な組織と契約して、そういった組織主導できちんとそういう物を販売した方が良いというのはわかる。だけど何で俺達が近衛財閥系列のプロダクションと契約して音楽や映像を販売しなければならないというのか。


「お断りいたします」


「お母様!?」


 俺が何か言うよりも前に、隣に座る母がスッと目を細めて近衛母を真っ直ぐ見詰め、いや、睨んでいた。その視線や表情からは一歩も引く気はないという気迫が伝わってくる。


「当家は咲耶にそのような道を歩ませるつもりはありません」


 母はピシャリと言い切った。俺だったら近衛母にあれこれ言い包められて知らず知らずのうちに誘導されてしまうだろうけど、さすがに母は五北家の家を預かる女性という感じだ。いつもは何かと近衛家にも配慮しているけど、今回ばかりはそうはいかないと対決姿勢を鮮明にしている。


「別にこれから芸能人としてデビューしてやっていこうと言っているわけじゃありませんよ。ただ昨日のコンサートの音楽や映像を販売して欲しいという要望が近衛家にあまりに多く寄せられているので、権利関係を明確にしてから販売しようと言っているだけですわ」


 近衛母も引き下がらない。多少こういう流れになる場合のことも考えていたはずだ。この話題を出そうと思って事前に対応を考えていた近衛母と、今この場で急にこんなことを言われて戸惑っているこちらとでは事前の準備も対応力も差がある。近衛母はこの有利な状況のうちに、反対を押し切って決定させようと考えているはずだ。


「それならば何も近衛財閥系列の芸能事務所でなくとも良いでしょう。九条グループにも芸能事務所はあります。音楽関連や映像関連事業も手がけております。近衛財閥系列でそれらをしていただく必要もないでしょう」


「あらあら。何か誤解がありそうですね。それではまるで私がプロダクションの売り上げのために近衛系列に皆さんを取り込もうとしていると思われているようではありませんか。例えCDやDVDが何百万枚売れようとも近衛財閥からすれば微々たる売り上げです。そのようなもののために権利を皆さんから取り上げようと思っているわけではありませんよ?」


 近衛母も余裕の態度でそう答える。母はそんなつもりで言ったわけじゃないだろうけど、近衛母にそう指摘されてはまるでそういう意味で言ったように周囲には受け取られてしまう。相手の言葉を拾ってうまく捻じ曲げ、本来言いたかったことから逸らして矮小化してしまうのはこの手のやり取りではよくあるだろう。


「売り上げだの、権利関係だの、そういうことを言っているのではありません。当家の咲耶は本人が望まない以上はそういった道には進ませないと言っているのです。事務所に所属して音楽を売ればそれだけでそちらの業界に入ったということです。咲耶、貴女は芸能界に入りたいのですか?」


「えっ!?いえ!そのような道に進むつもりは一切ありません」


 急に話題を振られて慌てたけど、ここはきっぱり言い切らなければならないと理解してはっきりと言い切った。ここで中途半端な対応をすれば近衛母に揚げ足を取られる可能性が高い。


「他の皆さんも同じですか?」


「それは……」


「まぁ……」


 近衛母に話を振られて、他の家の保護者達も返答に困る。中には娘を芸能界にデビューさせられるのならそれも良いかと思っている親もいるかもしれない。でもこの状況では言い出せないだろう。そもそも俺達の曲は師匠や兄弟子達から提供してもらったものであり、俺達全員が演奏したものだ。一人でも反対者がいれば勝手に販売することなんて許されない。


「九条様が言われた通り、娘の希望が一番優先だ。娘の意思も確認しなければならない。この場でお答えしかねる」


 一部、七清家など上位の家は近衛家相手にも簡単には引き下がらなかった。地下家以下の家は近衛家に言われたら何でもはいはい言うことを聞くしかないのかもしれないけど、五北会メンバー並の家には家のプライドもあるだろう。


「ふふっ。まぁ……、今日はそうなるだろうと思っていましたので良いですよ。ですが……、皆さんそう遠くないうちにきっと私の提案に乗ってくださると思っておりますよ。現在はコンサートの主催が近衛家だったので近衛家に問い合わせが集中していますけど……、それでどうにもならないとわかった時に、皆さんの曲に飢えている人達がどうなるか。それを見てからもう一度お聞きしましょう」


 近衛母は……、ニヤリと笑ってそう言った。その後お昼まで皆で適当に寛いで、近衛家が提供してくれた昼食で食事会となった。本当は帰りたかったけど……、ここで帰るとも言えないからな……。


 朝の話し合い以来近衛母はプロダクションとの契約について何も言わなかった。ただあの時言っていた言葉が気になる。近衛母は……、俺達がそのうち自分達から近衛財閥のプロダクションと契約したがるという風に言っていた。あれが一体どういう意味だったのか……。


 気にはなるけど……、結局何もわからないままその日は食事会を終えてから解散となったのだった。




  ~~~~~~~




 不気味な近衛母の言葉を聞いてから、何だか気になって仕方がない。それでも時間は止まることはなく、日曜日が過ぎて月曜日となった。


 あんなコンサートがあってから最初の学園だ。何だか登校するのが怖い気もする。きっと普通の学園生達にとってはとても面倒なことだっただろう。俺だったら学園の誰かの演奏会だからと強制的にホールに行かされて聴かされたらあまり良い気はしないだろう。恐らく学園の皆もそうに違いない。


「はぁ……」


 折角の月曜日の朝だけど何だか憂鬱だ。椛に見送られてロータリーで車を降りて学園内を歩いていると……。


「きゃーっ!九条咲耶様よ!」


「いやー!本当!」


 えぇ……。いくら何でもキャーとかイヤーはないんじゃないですかね……。前までもイジメというか、意図的に無視されるようなことは度々あったけど、ここまで露骨に嫌がられて逃げられるのはあまりなかった。それがここまで露骨になっているなんて……。そこまで嫌がられるところまで来てしまったのか……。


「はぁ……」


 ちょっと憂鬱な気分が加速してしまった。それでもなるべく気にせず学園を歩くんだけど……、あっちこっちで人に見られる度に何か言われている。前までなら無視されていただけだけど、今日は明らかに皆何か反応してくる。その違いが結構俺の心を抉っているのがわかった。俺ってやっぱり繊細な心の持ち主なんだな。


「ふぅ……」


 下駄箱まできて上履きに履き替えようと思って開けた瞬間……、バサバサッ!と俺の下駄箱から大量の何かが落ちてしまった。


「…………は?」


 一瞬何が起きたのか理解出来ずに呆然としてしまう。ついに下駄箱にまで悪戯されるようになったのかと思って見てみれば……。


「……手紙?」


 下駄箱から落ちたのは何やら封筒や便箋のようだった。それも大量に……。これはあれか?不幸の手紙というやつか?俺は前世で不幸の手紙なんて貰ったことがないけど……、今生ではこれほど大量に不幸の手紙を送られてしまったということか……。


 とりあえず放置しておくわけにもいかないので、落ちた分も下駄箱の中に残っている分も全て拾い集めて回収してから鞄に入れる。そこらに捨てるわけにもいかない。不幸の手紙なんて信じてないけど、だからってそこらにポイして良いものでもないだろう。


「あぁ……、鬱ですね……」


 今まではいじめられていると言ってもここまで直接的、あからさまではなかったんだけど……、先日のコンサートのせいで完璧にイジメられるようになってしまったらしい。鬱な気分のまま教室に入る。


「御機嫌よう……」


「きゃーっ!咲耶様よ!」


「おはようございますぅ~」


「咲耶様ごきげんよう!」


「……え?……え?」


 何が起こったのかわからない。いつも通りに教室に入って声をかけただけなのに、その日はすでに登校している全ての生徒から挨拶が返って来たのだった。



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― 新着の感想 ―
[一言] よくよく考えたら咲耶ちゃんが現れるまで茅さんに意見するような人も居なかったわけだよな…… 咲耶ちゃんはフラグを回避できるのか!
[良い点] 九条母が母親として咲耶様を近衛母から守ったこと。 色々と壁があってもやっぱり娘の咲耶様が大事なんですね。 [気になる点] せっかく百地流を習っているのにそれを芸の道に生かさないというのも勿…
[良い点] 咲耶様の肩書きが、藤花学園の『女帝』に『アイドル』がプラスされてしまったのかw。黄色い歓声が飛ぶわ飛ぶわwww。 これは、咲耶様非公式ファンクラブ(咲耶真理教)が一気に勢力を拡大させてるん…
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