第二百七十四話「そういうことだったのか……」
学園生は朝の部と昼の部に分かれて観に来るらしい。そして各生徒の保護者には無料で二席分予約権があったそうだ。家族が多くて他の家族も連れてきたいとか、そういう場合は学園に申請すれば追加で予約出来るようになる。自分の子供が朝の部なら一緒に朝の部に、昼の部なら昼の部に参加したいだろうしね。
ただこれはチケットを配っているんじゃなくて、一般客の前に優先予約が出来るというだけで、お知らせを受けて自分で予約を申し込まなければならない。まぁ用紙が配られているはずだからそれに必要事項を記入して子供にでも持たせて学園に提出するだけだったようだけど……。
別に子供と同じ部でなければ予約出来ないわけでもないから、夜しか都合がつかない人とかは夜に予約しても良い。学園生の保護者達は優先予約権があるというだけのことだ。
その優先予約が終わると今度は一般向けに残った席が販売されたらしい。それらの売り上げは近衛ホールのレンタル料や関係スタッフの費用などに使われている。俺達には一円たりともギャランティーはない。
まぁこれだけ大規模にやっているのに、たった一日三公演しかしないんだ。いくらチケットを販売していても赤字であり決して営利目的ではない……、らしい。実際近衛家がスポンサーになって赤字分を補填しているから儲けはないんだろう。近衛ホール自体が近衛財閥の所有ホールなんだからレンタル料って結局自分の所に払ってるだけじゃんと思うけど……。
俺達のコンサートがなければ他のアーティストなり何なりに貸してコンサートでも何でも出来たわけで、近衛財閥所有の近衛ホールだから元はタダだろというつもりはないけど、それにしても自分の所から自分の所へレンタル料を払うというのは何だか誤魔化しのような感じもしてしまう。
ともかく……、これは前世で言えば○○ドームライブコンサートとか、武○館ライブコンサートとか、そんなレベルの催しだ。たかが……、小学五年生を中心に一部年上や二年生達を加えた素人の演奏が……、こんな大それたことになってしまった……。
「ヒェッ!」
舞台に立って客席の方を見て……、思わず俺の口から変な空気が漏れた。足がガクガクする。見渡す限りの座席、座席、座席。二階席からも見下ろされ、まだ客が入っていないというのにそのあまりの景色に圧倒されてしまった。
こんな……、こんな中で演奏するのか?今はまだ座席が並んでいるだけで俺達とスタッフ以外は誰もいない。それでもこれほど圧倒されているというのに、ここに観客達が座って俺達を見詰める。そんな状況に耐えられるとは思えない。
俺は前世ではただの一般ピーポーであり、今生ではお嬢様をしているといっても箱入りで人前に出たこともない。何かの楽器を習っていて演奏会や発表会やコンクールに出ている子ならこういうのも慣れているのかもしれないけど、俺には無理だ。この景色をこちらから見ただけで視界がぐにゃりと歪んで真っ直ぐ立っているのかもわからなくなってしまった。
「うわぁ!凄いですね!昔にしたことがあるピアノの発表会の時とは比べ物になりません!」
薊ちゃんは舞台から客席を見ても物怖じした様子もなく余裕でそう感想を漏らしていた。凄いな……。やっぱり本物のお嬢様は凄い……。他の皆もきっと似たり寄ったりだろう。今までだって自分達が習ってきた楽器の発表会やコンクールで、規模はもっと小さいにしてもこういうホールで演奏を披露してきたんだろう。俺のような引き篭もりのなんちゃってお嬢様とはわけが違う。
「私そのピアノの発表会で大失敗しちゃって、ここよりは小さい会場でしたけど他の子達の保護者の方から審査員まで皆に大笑いされてしまったんですよ!それで私はピアノが向いてないんだなと思って諦めたんです……。だからあんた達もしっかりしなさい!失敗してもいいのよ!駄目ならもっと練習するなり、他の道に変えるなり、いくらでも未来はあるんだからね!」
そう言って、薊ちゃんは舞台から観客席を見て不安そうにしていた二年生達を抱き寄せていた。あぁ……、薊ちゃん……、君は本当に良い子だ……。自分の失敗をそうやって明るく話して、笑い話にして、緊張していた二年生達を勇気付けてあげるなんて……。本当に凄いよ……。
俺はこの舞台に立っただけで雰囲気に飲まれて、自分のことしか考えてなかった。皆だって不安だっただろうに、俺は人のことまで考えている余裕もなくて、ただ自分のことばかり考えていた。それなのに……、薊ちゃんは緊張している二年生達に気付いて、その緊張を解してあげられるなんて、本当に凄い。
俺も……、もっとしっかりしなくちゃ……。前世でも今生でも俺はこんなホールで人に注目されながら演奏なんてしたことがない。パーティーの挨拶で多少人前に立つことがあるといっても、あんなものはこの場の観客に比べれば微々たる人数だ。でもだからってそれを言い訳にして逃げるわけにはいかない。
薊ちゃんはもちろん他の子達だって、皆だって不安に思ったり、緊張したり、色々な重圧と戦いながらこの場に立とうとしているんだ。それなのに、前世も加えれば一番長く生きている俺が一番最初にビビッて逃げてどうする。俺がもっとしっかりしないと……。
「それにほら!見て御覧なさい!あの咲耶様の堂々とされたお姿を!私達には咲耶様がついて下さっているわ!だから何も恐れるものなんてないのよ!」
「さくやおねーちゃん……」
「くじょうさまー」
皆が俺に視線を向けてくる。ここで俺が不安そうにしていたらまた二年生の子達にまで不安が広がってしまう。しっかりしろ俺!こんな小さな子達まで戦おうとしているのに、俺だけビビッて逃げるのか?そんなことが出来るわけがないだろう!
「大丈夫ですよ皆さん。観客席のことは気にせず、ただここでいつもの練習の成果を発揮すれば良いのです。さぁ、早速練習に入りましょう」
「「「「「はいっ!」」」」」
皆の気合が入った声が返ってくる。これなら大丈夫だ。なにも不安になることはない。俺達はただこれまで練習してきた成果をこの舞台の上で出し切ればいい。その結果失敗しても、観客にウケなくても、それは別の問題だ。まずはしっかりここで後悔のないように力を出し切る。結果はその後の話だ。
「ありがとう薊ちゃん」
「……へ?」
俺がそっと薊ちゃんにお礼を言うと、薊ちゃんは少しとぼけたような顔をしていた。つまりお礼を言われるほどのことはしていないというつもりなんだろう。薊ちゃん……、君はなんて素敵で男前な女の子なんだ。俺が男だったら惚れてるぜ。まぁ……、女の子同士でも……、俺は君に惹かれているけど……。
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リハーサルは順調に進んだ。まさに本番と同じように全てを実際の通りに行なって、全員がそれを体に刻み込んでいく。演奏で失敗するのは仕方がない。どんなプロでも本番で失敗したこともあるだろう。ましてや俺達は素人の子供なんだからそういうことは起こって当たり前だ。
それより問題なのはちゃんと流れや次の行動を覚えていなくて、いざ本番という時にセッティングや段取りで失敗すること。それは絶対にしてはいけない。
演奏の失敗はたまにはある。それは仕方がない。でも次の段取りや手順を覚えていなくて本番でバタバタするのはこういう催しをする上ではあってはならないことだ。アクシデントは付き物だから、何らかのアクシデントがあってバタバタするのも仕方がない。問題なのは本人達がちゃんと順番を覚えてなくて間違えたりすることだ。
だからこの流れの確認と暗記だけはしっかりやっておく。皆もそれがわかっているのか、自分が舞台袖に下がるタイミングや次に出てくるタイミング。曲の順番や持って出る楽器の確認など、コンサート全体の流れの把握に余念がない。
一度本番と同じように通してやってわかった。これはとても大変だ。全員が常に出突っ張りじゃないから大半の子は間、間に休憩がある。それでも三時間近くも一連の流れとしてコンサートを開くというのは体力的にもかなり厳しい。俺達は人数も多く、交代しながらだから何とかなっているという所だろう。
でも……、俺だけ休憩がない。いや、本当に……。ほとんど休憩がないというか下がるタイミングがないというか……。むしろ俺のソロだってあるのに、俺が下がっているというのはない。全曲出ているわけじゃないんだけど、下がっても次の楽器の準備の間に他の子が繋ぎをしている間だけとか、そんな感じだ。
俺だけあんなにたくさん楽譜を渡されたわけだけど……、どうやらあれは冗談ではなかったらしい。本気であれを俺にやれと師匠は言っている。
「本当にお前さんは何をしとるんじゃ!何度言えばわかる?」
「私はお前さんではありません!正親町三条茅です!」
そしてまた……、いつもの師匠と茅さんの言い合いが始まった。通しでのリハーサルの間は所々の注意はあってもこういう口論はなかったけど、一度通しで終わってからまたこれだ。これはもうどうにもならないのかな……。師匠もどうして茅さんにだけ、いや、俺に対してもだけど、あんなに厳しいんだろう……。
結局今日も最後まで師匠と茅さんは言い争って、そのままリハーサルは終了となったのだった。
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俺と師匠だけで百地流の道場で修業をしている時、俺はとうとう堪らずに師匠に聞いてしまった。もうすぐ本番だというのに、いつまでも師匠と茅さんがああやって不毛な争いをしているのは悲しい。
「師匠……、どうして茅さんにだけあれほど厳しいのですか?」
茅さんは最初は何も楽器が出来なかった。だから師匠は茅さんが嫌いなのだろうか?でも茅さんはたった二ヶ月にも満たない期間に物凄く上手くなった。今ではちゃんとピアノの演奏が出来ている。
まぁ……、相変わらず茅さんは唯我独尊で演奏をしているから周囲が茅さんに合わせている。そのお陰で何とか形になっているだけで、もし茅さんに周囲に合わせるように言えば演奏そのものが崩壊してしまうだろう。それでもたったこれだけの間にこれほど出来るようになったのに……、普通なら褒めるくらいだと思うのに茅さんに厳しすぎる。
「ふん……。あの娘、大したピアノの才能を持っておる」
「……え?」
師匠の呟きが……、俺の予想もしていなかった言葉過ぎた。一瞬意味が理解出来ずに固まる。
「わしは出来る者に出来る範囲の要求しかせん。その見極めは百地流の極意にも通ずるものじゃ。じゃからそこに間違いはない。わしが厳しくするのはな、咲耶よ。期待しておる者が出来る範囲までやるように尻を叩く時だけじゃ」
「それって……」
じゃあ……、師匠は茅さんに才能があるから……、その茅さんの才能を伸ばすために、無理にお尻を叩いてでも精一杯やらせるために?自分が憎まれ役を買って出てまでそんなことを……、茅さんのために……。
「わしは才能の無駄遣いというものが嫌いでな……。わしは元々何の才能もない凡夫じゃった。先代から百地流を習っておらねばただの凡夫の一生を送ったであろう。そんなわしでも百地流を習えば多少なりとも人並に出来ることが増えた。なればこそ!才能のある者がその才能を腐らせることは許せん!ケツを引っ叩いてでもその才能を引き摺り出してくれるわ!」
あぁ……、なんだ……。やっぱり師匠は良い師匠だった。自分が恨まれてでも、憎まれてでも、その人のために厳しいことを言ってあげられる人だ。茅さんの才能を理解したからこそ、その才能を伸ばしてあげようとここまで出来るんだ。
もし俺が普通の五年生だったら師匠の言葉に反発しただろう。大人の都合で勝手に子供に何かを押し付けるなと思っただろう。でも違う。これは本人が後悔しないために、周囲の大人がしてあげなければならないことだ。
子供は子供だから子供なんだ。大人はそれまでの経験や後悔がある。自分が若い時にこうしておけばよかったという思いがある。だから子供にはそういう失敗をしないで欲しいと願う。それを教えてくれているんだ。
自分が野球が好きだから子供を絶対野球選手に育てたいと強要する。サッカー選手にしたいからと幼少の頃からやらせる。それはどうかと思う。子供は親の願望を叶える道具じゃない。だから親の願望だけを押し付けるのが間違いだというのは否定しない。
でも……、子供が何かを習いたいと言った時に、ちゃんと子供がその道に向かって歩めるように、環境を整えてげたり、費用を出してあげたり、応援してあげたり、そういうことはしてあげたい。大人は自分がそういうことで失敗した経験があるから。子供にはそれを繰り返してもらいたくないから……。
その線引きは曖昧で、どこからが親の押し付けなのか、子供の希望なのかわからなくなることもある。それでも……、師匠は茅さんの才能をきちんと伸ばしてあげたいと思ってくれる大人なんだ。だからこそ……、茅さんにあそこまで厳しくしている。その要求は茅さんが乗り越えられるものだと信じているから。
師匠の気持ちはわかった。それはとても素晴らしいものだ。さすが俺の師匠だと言いたい。でも……、師匠のこの思いは……、果たして茅さんに届いているんだろうか……。ただ無理やり押し付けてくる嫌な大人だと思われてしまっていないだろうか。
願わくば……、この演奏会、いや、コンサートが終わるまでに……、師匠と茅さんも打ち解けられますように……。