第二百七十三話「そんなの聞いてない」
最初はどうなることかと思った二学期も、いざ始まってみれば思いの他順調に進んでいる。伊吹の告白イベントというか、ルート確定イベントというか、あれが起こってからどうなったのかと思ってるんだけど、あれ以来俺は伊吹とも槐とも会っていない。
二人も学園に来ていることはわかっている。遠目に見たくらいのことならある。でも向こうが教室に来ることもないし、俺が一組に行くこともない。また二人はあれ以来サロンにも顔を出していないらしい。
俺達がサロンにいる時は来たことがないし、俺達が放課後にすぐ帰っている日も来ていないらしい。俺にそういう情報を流してくれる子はいないので、薊ちゃんや皐月ちゃん経由の情報だけど……。わざわざそんな嘘を吐く人もいないだろうし、たぶん本当にあれ以来二人は来ていないんだろう。
俺としては二人がサロンに来ようが来まいがどちらでも良い。むしろ本音を言えば会いたくないから来ないのならその方が良いとすら言える。
でもあの伊吹ルート確定イベントが起こりかけたのに、俺が途中で引っ叩いて止めてからどうなったのか。それは非常に気になる。イベントやフラグごと消えてなくなったのか、ただ停止状態になっているだけで、また何かのきっかけがあれば進み始めるのか。
他にも色々なパターンが考えられるけど、とにかく今の状態がどうなっているのか。俺と伊吹の関係は何なのか。それは確認したい。しておいた方が良い。それはわかってるけど……、やっぱり会いたくないんだよなぁ……。
会うことで止まっているイベントが再び動き出す可能性もある。それなら会わない方が俺にとっては都合が良いということだ。でも今後永久に伊吹に会わないというのは不可能なわけで……、結局これでは問題の先送りをしているだけで何も解決しない。
しかも本当に『イベントが停止しているだけ』もしくは『イベントやフラグそのものが消滅した』のなら良いけど……、もし今この瞬間も、俺が関わっていない場所でイベントが進み続けているのだとすれば……、それなら早く手を打った方が良い。こうしている間にも着々と手遅れに向かって進んでいるという可能性も捨てきれない。
だったら早く会えと思うんだけど……、何というか……、向こうから来たら仕方がないと思えるけど、こちらからわざわざ会いに行くのは何かとても嫌だ。むしろそのせいで余計な勘違いをされたり、イベントが進んだりする可能性もないとは言い切れない。
まぁ……、ぐだぐだ言っててもどうにもならないし……、いつかはどうにかしなければならないんだけど……、今はあまりそのことに触れたくない。
「咲耶様、到着いたしました」
「ありがとう椛」
今日もサロンへは寄らず、放課後になると皆ですぐに練習スタジオへとやってきた。普通なら長期休暇の方が時間も暇もありそうなものだけど、お嬢様達はやっぱり長期休暇の方が忙しいようだ。夏休み中は全員が揃うというのはあまりなかったけど、放課後の練習では結構集まっている頻度が高い。
長期休暇だとあれこれ予定が入ったり、パーティーがあったり、旅行があったり、習い事の夏期講習のようなものがあったり、色々と催しが増える。そうなると結局平日よりも忙しくなってしまうんだろう。今は学園の授業ありきの予定が立てられているから、習い事とかパーティーも少なくて時間に余裕がある子が多い。
「揃っておるな?それでは始めるぞ!」
「「「「「はいっ!よろしくお願い致します!」」」」」
今日も早速演奏会の練習が始まった。全員で通しての練習じゃないから師匠の指導も比較的緩いものだ。まぁ……、皆にはな……。何故か師匠の指導は俺と茅さんだけには厳しい……。
「こりゃ娘!何度言うたらわかるんじゃ!」
「貴方こそ何度言えばわかるのですか!私は娘ではなく正親町三条茅です!」
師匠に注意されて茅さんが反発する。いつもの光景が繰り返されていた。二人もよくもまぁあれだけ毎回毎回同じやり取りをしていて飽きないものだ。
「またやってるっすね……」
「杏さんは茅さんが心配ですか?」
小さい子達と一緒になって木琴を叩いていた杏が不安そうな顔をして茅さんの方を見詰めていた。杏は茅さんと仲が良いし色々と心配にもなるんだろう。
「え~……、心配と言いますかですね……、私の知っている正親町三条茅という人物なら……、もうとっくにここにはいないはずなんすよ……」
「あっ……、あ~……」
杏の言わんとしていることがわかって俺も何と答えたものかと返事に困る。それは俺も同意だからだ。
もし……、俺が知っている正親町三条茅という人物なら、師匠にあれだけ散々言われていればもうとっくにこんな集まりを辞めているだろう。茅さんは相手が格上だろうが、教師だろうが、学園や会社が相手だろうが、一切配慮はしない。自分が気に入らないと思ったら、恐らく非合法の手段を使ってでも相手を叩き潰す。そんなタイプだ。
それなのにここに来ている茅さんはあれだけ師匠に滅茶苦茶に言われても、今でも毎回真面目に練習に参加している。二人もああやって言い合っているけど、お互い練習自体はちゃんとやっている。この状態が理解出来ないというのは俺も杏に同意する。
「咲耶様、少し教えていただいても良いですか?」
「李ちゃん?はい、良いですよ。どこでしょうか?」
俺が杏と少し話をしていると李がテテテッと寄って来てそんなことを聞いてきた。もちろん断る理由はないので素直に引き受ける。
「ここがうまく出来なくて……」
「なるほど……。確かにここは少しコツがいりますね。まずはコツを教えましょう」
李も一応堂上家ということであれこれいくつかの楽器の担当をしている。ただ前にも言った通り、清岡家はあんな状態だったから、たくさんのお金や時間をかけて習い事をしっかりしている他の堂上家ほどあれこれ出来ていない。
それでもある程度基本が出来ているお陰か、他の子達よりは出来てるけど、それにしたって師匠が李に担当させている部分は難しい。二年生の子供にこんなことをやらせるんて……、師匠も相当な悪というか、非道というか……。
「私にも教えて欲しいっす……」
「はい。それでは一緒にしましょうか」
「さくやおねーちゃん!あきぎりもいれて!」
「くじょうさまわたしもー!」
「さくやさま、わたしもはいっていい?」
李が俺にべったりだったからか、他の二年生達がワラワラと寄ってきた。ヤキモチを焼いたのかな?俺が李だけ優遇してると思って?
皆本当にかわいいなぁ……。こんな子達に囲まれて、じっくり楽器の練習をして過ごせるなんて、演奏会の練習ってのは実に便利な口実だ。こんなに楽しい練習を何度も出来るんだったら、いっそ毎年演奏会をしても良いかもしれない。というか普通は音楽会とか歌の披露とかあるよな……?
藤花学園初等科では今までなかったようだけど、前世では普通に父兄等を呼んで、体育館とか市町村の施設とかで音楽会とかがあった。楽器の演奏じゃないけど……、いや、楽器の演奏をしたこともあるな。何にしろその手のイベントがあったはずだけど、藤花学園には今までなかった。もしかしたら大々的にやるのはこれが初めてという可能性も?
まぁそれはいいんだけど……、何で俺達がこんなことをすることになったんだっけ……。あぁ、近衛母に演奏会をしろと言われたからだったか……。皆で集まって練習出来るのは良いけど、実際に大勢の前で演奏をするというのは少し恥ずかしい気もする。せめてイベントが無事に終わりますように……。
「何度言うたらわかるんじゃ、娘!」
「ですから何度言えばわかるのですか?私は娘ではなく正親町三条茅です!」
「「「またやってる……」」」
あの二人もよく飽きないものだ……。もう付き合い切れなくなった俺達は師匠と茅さんからスッと離れて、こちらはこちらで皆で練習を続けたのだった。
~~~~~~~
運動会の練習や演奏会の練習で毎日が順調に流れていく。いや、むしろ順調すぎる。出来ることならもっとゆっくり時間が流れて欲しい。このままじゃまずい……。まだ皆の演奏は出来ていない。それなのに日は次々流れて、もう演奏会も間近になりつつある。
「ところで演奏会の正式な日時はまだ聞いていませんが……、大丈夫なのでしょうか?」
俺は九月末頃としか聞いていない。何日の何時頃からするつもりだろうか?曲の数や演奏時間、間に行なわれる演出などから考えて結構な時間がかかる。普通に歌手とかのコンサートくらいの時間はあるんじゃないだろうか。
「そうね。そろそろ本番と同じ形式でリハーサルをした方が良いかもしれないわね」
「近衛様!?」
今日の練習のために皆でスタジオで師匠を待っていると、師匠と一緒に近衛母もやってきてそんなことを言い出した。練習は見ないと言っていたのでこれは本当にその言葉を知らせに来ただけだろう。裏で師匠と打ち合わせをしていたというわけだ。そして本番形式のリハーサルもそろそろしようという話になったと……。
「次に全員が集まれる時に本番と同じステージでリハーサルをしましょう。丁度百地先生ともそのお話をしていたのよ」
あ~……、何か嫌な予感しかしない。断りたい。やりたくないと言いたい。でも今更そんなわけにはいかない。次に全員が揃う日に、本番と同じ場所で、同じ演出で、最初から最後まで通しでリハーサルをするらしい。体育館でするのか、講堂でするのか知らないけど……、何か期待と不安が綯い交ぜだ。
~~~~~~~
今日は全員揃って、本番とまったく同じ流れでリハーサルを行なうことになっている。そう、なっているはずなのに……、俺達は講堂でも体育館でもないまったく別の施設に連れてこられていた。これは……。
「近衛ホール……」
近衛財閥が誇るこの国でも有数のホールだ。近衛家のパーティーを開いている場所とはまた違う。パーティーを開いているのは言わば国際会議場と言える施設だ。その中のホールを利用してパーティーが開かれている。
それに比べて今日俺達が来ているのは、有名アーティストとかがコンサートをしたりするのに憧れている、誰もが一度はここでコンサートをしてみたいと言うという、この国有数のコンサートホールだ。ゆったり座れるのに物凄く多い観客収容人数……。最新設備、音響を考慮して設計されたまさにコンサートのためだけに存在する施設。それが近衛ホールだ。
「がっ、学園の保護者の方を集めて、少し演奏会をするだけですよね?」
「そうね。朝の部、昼の部はほとんど学園関係者で埋まるかもしれないわね。夜の部は正直わからないわ。一般人向けのチケット販売もしているけど、もうチケットは完売してしまっているわよ」
「…………は?」
朝の部、昼の部、夜の部?一般人向け?チケット完売?
何を言っているんだ?近衛母の言っていることがさっぱり理解出来ない。まるで意味が頭に入ってこず何を言っているのか理解出来なかった。
「九条咲耶とその仲間達によるコンサート。一日三回公演予定で、全ての席はもう売れているわ」
「――っ!?どういうことですか?」
近衛母の言葉があまりに聞き捨てならないからつい詰め寄ってしまった。そして聞かされたのはとんでもない話だった。
俺達が学園の生徒や保護者を集めてちょっと演奏会をするだけだったはずなのに、この近衛ホールで一日三回も公演を行い、しかも学園関係者だけじゃなくて一般にまでチケットを販売してしまっているらしい。
ここまできて今更なかったことには出来ない。九条家で全額賠償してやるからこんなふざけたものは中止だ!というのは簡単だ。でももうチケットを買ってしまった人が、ただチケットを払い戻ししますから持ってきてくださいと言われても誰も納得しないだろう。お金を返して欲しいわけじゃなくて、予定通りコンサートを開いて欲しいと思うのが客の当然の要求だ。
俺は……、ちょっと全校生徒と保護者の中の希望者だけ集めて、学園の講堂か体育館で少し演奏会をするだけだと思っていた。それなのに近衛母が用意していたのは本物の、有名アーティストでも中々借りられない近衛ホールで、本気の本気でコンサートを開こうと思っていたなんて……。
「他の皆さんは御存知だったのですか?」
「それはそうでしょう?でなければ各家のご両親を説得出来ないわ」
サラッとそう言った近衛母に、俺は色々と言いたいことがあった。でも今はあまりの事態の大きさに頭が真っ白になって、何も言いたいことも言えずに流されるだけだった。