第二百六十七話「不安」
夏休みももうすぐ終わる。今日は夏休みで最後の演奏会の練習であり、全員が集まって全ての楽器を合わせて実際に演奏してみる予定になっている。
「おはようございます咲耶お姉様!」
「御機嫌よう竜胆ちゃん」
竜胆はまだ拙いながらも他の二年生達に比べて他の楽器が出来る。地下家以下の子達は木琴を皆で分かれて担当したりしているけど、竜胆は色々な楽器に挑戦するようだ。
「咲耶様おはようございます」
「李ちゃん御機嫌よう。調子はどう?」
「え~……、正直に言うとあまり自信はないです……」
軽い感じで聞いてみたけど李はズーンと暗くなってしまった。清岡家は家が傾いていたから堂上家とは言っても李に高度な教育を施す余裕はなかったらしい。なので教養や楽器の習い事などはあまり出来ておらず、他の堂上家の子達に比べればあまり楽器なども出来ない。
「別に失敗したからといって命を取られるものでもないし、コンクールでもないのだからリラックスして臨めば良いわ」
「はい!ありがとうございます!咲耶様にそう言っていただけると落ち着きます!」
うんうん。李も随分素直で可愛くなったものだ。昔のあの尖ってた頃とは大違いだな。やっぱり李も薊ちゃんタイプということだろう。薊ちゃんも最初の頃はあんな感じだったしなぁ……。でも今じゃあんなに素直で可愛い子に育ってくれたし、やっぱり経験や人との関わり方次第でいくらでも変わってしまうものなのだとよくわかる。
「咲耶ちゃん御機嫌よう」
「御機嫌よう皐月ちゃん」
皆が次々に到着してくる。一応今日は全員集まれる予定だ。最後に全員で合わせて練習しようと決めて、今日なら集まれるということで決まった。だからよほどのことがない限りは全員が揃うはずだ。それに来れなくなったのなら連絡の一つもあるだろう。それがないということは裏を返せば全員来るということだと思う。
「咲耶様!おはようございます!」
「おーい!咲耶ちゃーん!」
「だから『おーい』はやめなさいって……」
時間の少し前になるとバタバタと皆がやってきた。
「全員揃っておるか?」
「「「「「はいっ!」」」」」
最後に師匠が練習用のスタジオに入ってきて全員が揃った。師匠は俺と一緒に朝から百地流の修行をして、一番にスタジオに到着したから最初から居た。でも近衛母と話していたのか、到着してすぐにどこかで誰かと話していたようだ。
「近衛様とお話をされていたようですが、近衛様はお聴きになられないのでしょうか?」
「うむ。本番で聴くのを楽しみにしておるそうだ。だから練習の段階で盗み聞きをするような真似はしたくないらしい」
なるほどわからん……。
いや、言っていること自体はわからなくはないんだよ。途中の下手で練習している部分は見たくなくて、最後に完成している部分だけを見聞きしたいというのは確かにある。逆に練習やリハーサルや失敗も見たい聞きたいという場合もあるけど……。本番で完成形だけ見聞きしたいという気持ちもわからなくはない。
俺がわからんと言ってるのは、今度の演奏会は近衛母がスポンサーで企画者だ。そのスポンサーで企画者である近衛母が、実際の演奏も聴かずにいきなりぶっつけ本番で初めて聴きました、みたいな形で良いのか?ということがわからない。
もし俺が何かを企画するのなら、万全を期すために練習やリハーサルにも顔を出すし、仕上がり具合を自分で確認したり、相手に注文をつけたりするだろう。それが企画者としての責任だと思う。それを放棄して自分も一観客として本番だけ観ます、みたいなのは果たして企画者として正しいのだろうか?
まぁ……、近衛家や近衛母の問題なんだからどうでもいいけど……。師匠や俺達を信用していると言えば聞こえは良いけど、企画者や責任者としての責任を放棄しているだけと言われても仕方がない行いだろう。
「それでは少ししたら全員で合わせるぞ。それまでは各自最終確認をしておけ」
「「「「「はいっ!」」」」」
師匠に言われて皆それぞれ自分の楽器などを確認していく。楽器を確認した後は軽く演奏して、今日の調子を見たり、最後に自信のない所を練習したり、思い思いにやっているけど……。
「娘、まるでなっとらんぞ!」
「ですから私は娘ではありません!正親町三条茅です!」
「またやってますね……」
「まぁ……」
茅さんが師匠に怒られて、茅さんが反発する。いつもの光景が繰り返されて薊ちゃんがヤレヤレと首を振っていた。茅さんはほとんど毎回練習に参加している。俺は家族旅行の間は不在だったから休んでいたけど、それ以外は俺も全て練習に出て、茅さんも毎回いた。
その茅さんは結局ピアノの担当になったわけだけど……、練習の度にこうして師匠に怒鳴られ、それに反発して言い返す茅さんというのがもう定番になっていた。
師匠は他の皆には優しい好々爺然としてニコニコ教えているのに、茅さんにだけは厳しい。あっ、違った。俺と茅さんにだけは厳しい。俺もちょっと練習で失敗しただけでも全て聞き逃さずに注意されて、その箇所を何百回も練習させられたりするからな……。
はっきり言って……、茅さんは滅茶苦茶うまくなった。最初の頃のあの壊滅的にセンスがないと思った時に比べて、今では滅茶苦茶ピアノの上級者と言っても過言ではないほどに成長している。このたった一ヶ月少々の間にこれだけ出来るようになれば大したものだろう。それなのに師匠は茅さんと俺には容赦がない。
そりゃピアノは全体を通して重要な位置を占めている。そのピアノが狂えば全体が狂ってしまうわけで、バンドで言えばドラムやベースが狂えば曲全てが狂ってしまうようなものだ。だからピアノが間違えたり狂ったりしてはいけないというのならそれはその通りなのかもしれない。
でもそれにしても師匠の俺と茅さんへの厳しさは常軌を逸したものだ。他の皆も師匠が俺や茅さんに怒っている時は触らぬ神に祟りなしとでも言わんばかりに逃げている。
「ふむ……。よし。これより本番を想定して曲を続けざまに合わせて演奏してゆくぞ。楽器の持ち替えや一度幕の裏に下がる動きなども行なう。リハーサルだと思って真剣に取り組むように」
「「「「「はいっ!」」」」」
とうとう始まってしまった。全体で通したり、全員で合わせたり、途中でメンバーが入れ替わったり、楽器を変えたり、本番で行なう通りに一通り通して練習する。
「よし。昼休憩とする。午後から午前の反省を踏まえてもう一度通してやるから心するように」
「「「「「はいっ!ありがとうございましたっ!」」」」」
ようやく午前が終わった……。長い……。朝早くから集まっていたのにもうお昼だ。午前に一度全てを通して練習を行い、その後で纏めて失敗や反省点を師匠に注意されて、それを各自重点的に注意したり改善したりしながら、今度は飛ばし飛ばしで全体の確認をやり直す。そんなことをしているうちに午前が終わってしまった。
それにしても……、よくよく考えてみればちょっとした演奏会にしては時間が長すぎる。今でもちょっと省略してやっても二時間以上かかるようなプログラムだ。今のような略式ではなく、本当に全てを本番と同じようにやれば三時間くらいはかかってしまうんじゃないだろうか。
曲数もかなりあるし、今は用意している楽器を簡単に持ち替えるだけだけど、本番だと一度舞台袖に下がって持ち替えて並び直したり、スタッフが持ってきて替えたりと色々と行なわなければならない。
学園で全校生徒や保護者を集めて行なうんだから一曲、二曲ではさすがに間が持たないと思うけど、いくら何でもこれはやりすぎじゃないだろうか?これじゃまるで本格的なコンサートを開くみたいな感じだ。
俺も全篇を通してピアノ担当というわけじゃなくて、曲によって俺も楽器を替えなければならない。茅さんをはじめ何人かがピアノを交代する時もあるし、複数人でピアノを弾く時もある。色々と面白い演奏会になるとは思うけど……、何だか大掛かりというか何というか……。
日程……、というか日取りというか……、は、九月末頃が予定されている。十月に入ると運動会とか、中等科、高等科は文化祭・学園祭もあるだろうし、十一月になると二条家のパーティーがあり、と何かとイベントや日程が大変になってくる。そこでまだ予定が詰まらない九月末頃が演奏会となったらしい。
確かに日程も大事だろうけど日程ありきで予定を組むのはどうなんだろうか?俺達はまだ全然完成していないと思う。今までは夏休みだからかなり密度の高い練習が出来たけど、これから夏休みが明ければ練習もこれまでのようにはいかなくなるだろう。それをあと一ヶ月足らずで完成させろというのは無茶じゃないだろうか。
俺達の段取りが出来てから日程を決めてくれればいいのに……。先に開催日ありきで、結局俺達の調整や練習が間に合わなければ、わざわざ聴きに来てくれた人達に未完成のものを披露することになってしまう。
学校行事なら日程がありきで、それに向けて練習をするというのもわかる。前世でも音楽会というか保護者に来てもらって生徒達が演奏したり歌を歌ったりする会というものもあったけど、今回のような形にするのなら俺達がちゃんと練習出来て完成してから日程を決めてもらいたかった……。
まぁもう決まってしまっていることを今更グチグチ言っても仕方がないんだけど……、近衛母や師匠の考えていることがわからない。それまでにどうにかしてしまおうと考えているのかもしれないけど……。
「それでは午後の練習を再開する。まずはもう一度全体を流して通してゆくぞ!」
「「「「「はいっ!」」」」」
あぁ……、また始まってしまった……。練習の時は皆には優しい師匠だけど、通して練習している時は割りと厳しい。もちろんちゃんと失敗なくやっていれば怒鳴られることはないんだけど、それでも失敗してしまうものだ。俺達には時間が足りない。これだけの曲数をまだ一ヶ月ほどで覚えただけでも皆大したものだと思う。
「こりゃ娘!何度言ったらわかるのじゃ!」
「私は娘ではないと何度言えばわかるのですか!私は正親町三条茅です!」
「またやってる……」
「はぁ……」
結局最後の最後まで師匠と茅さんはそんな調子で、夏休み最後の、そして全員で合わせての結構大規模なリハーサル並みの練習は幕を閉じたのだった。
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皆でのリハーサルのような練習が終わってから、俺はまた師匠と一緒に道場へと戻って百地流の夜の修行をさせられた。結局リハーサルは朝、昼、夜と三回も通しで練習し、失敗や間違いを師匠に何度も指摘され、そこを重点的に改善しながらやり直していった。
もちろんこれで練習が終わりということはない。二学期が始まってからもまた皆で集まって練習することにはなっているし、各自も家でしっかり自分の担当を練習することになっている。だけど今日の様子からして本当に二学期が始まって一ヶ月もない間に完成するんだろうか。練習時間が足りないような気がしてならない。
今でも一応様にはなっているけど万全じゃない。それなりに聴けますよという程度だ。七夕祭の時は一曲だけだったし、去年からボチボチ予定を進めていたから何とかなったけど……、今度の演奏会は自信がない……。
俺は失敗して恥をかいても良い。どうせ俺はなんちゃってお嬢様だから楽器もあまり出来ないし、咲耶お嬢様は今更下がる評判もないだろう。でも皆が失敗して恥をかいたりしたらと思うと何ともすっきりしない気持ちだ。
精一杯やって失敗したのなら良い。それを笑う奴の方がおかしい。でも今のように明らかに練習不足が原因で失敗したのなら、何故もっとちゃんと練習してから演奏会をしなかったのかと観客は思うだろう。運営側である近衛母が日程ありきで進めているからだけど、だからこそそれならもっとちゃんと形になってから日程を決めて欲しかった。
まぁ……、そんなことを言っていたらズルズルと『まだ出来てません』『まだ完成じゃありません』『まだ不安があるので……』と言って引き延ばして、もうすぐ運動会があるから、二条家のパーティーがあるから、冬休みになるから、鷹司家のパーティーがあるから、と言い訳だけしていつまでも開催出来ないだろう。
それはわかる。それもわかるんだけど……。あぁ!もどかしい!学園の授業がなくて、皆の予定も空いていて、いつでも毎日ずっと練習が出来るのなら良いけどなぁ……。
そんなことを考えているうちに夏休み最後の数日も過ぎ、あっという間に長かった夏休みも終わってしまった。今日からついに五年の二学期の始まりだ。