第二百六十二話「お留守番」
ホテルのロビーでの演奏はそれなりにうまくいった。まだあの日だから体調も万全とは言い難い状態で出来はまぁ六十点ってところだったけど、一先ずロビーに居た人達はお情けで拍手くらいは送ってくれていた。完全に駄目だったらもっと白けていただろうからそれなりには受け入れてもらえたんだと思う。
椛達、待っている家人の所へ戻ってくると椛が泣いていた。何故泣いているのかよくわからないけどとりあえず椛は俺の拙い演奏を褒めてくれたからお礼を言ってから部屋へと戻った。
その後の家族旅行はあの日もだいぶマシになったから普通に俺もあちこちへ遊びに出掛けた。もちろんプールとか海は行けない。あと折角温泉があるけど温泉も入れないのは残念だ。お風呂はホテルの部屋にある普通のお風呂を利用するしかない。
そんなわけで前半は散々だったけど後半はそれなりに楽しめた家族旅行も終わって家へと戻ってきた。もう少ししたら家族の皆は近衛家のパーティーに行くことになるけど俺だけはお留守番だ。
兄にはいくら言っても俺が近衛家のパーティーに行けなくて残念で強がって拗ねていると思われている。本当に参加したくないから助かっていると思っているのにいくら言っても理解されない。ムキになって否定すればするほど勘違いされるだろうからあまりしつこく言ってないけど、どうして兄といい伊吹達といいこんな勘違いをするんだろうか?
近衛家のパーティーに呼ばれることは名誉なことなんだから誰もが参加したいに違いないとか、伊吹や槐が嫌いな女の子なんているはずがないから絶対会いたいはずだとか、そういう考えが根底にあるんだろうか?でなければ本当に嫌がっている子や、大して興味がない子もいるということくらいは理解出来そうなものだけど……。
まぁもういいや……。どうせこれ以上何を言ってもムキになっていると思われるだけだろうし、兄や伊吹達が変な勘違いをしていたとしても俺には関係ない。向こうの仲間内で俺のないこと、ないこと噂されてるんだとしたらとても気分が悪いけど、勘違いで変な噂をしていてそれが露呈した時に恥を掻くのは向こうだ。俺の知ったことじゃない。
俺の旅行中は師匠も俺の修行時間がないから演奏会の練習は毎日していたらしい。もちろん全員が毎日参加しているわけじゃない。師匠は毎日近衛家が用意した練習スタジオにいるから練習したい者はそれぞれ自由に顔を出せば良いというスタイルだったようだ。
俺がいない間も皆は結構真面目に練習に参加していたようで、皆からのメッセージには俺が不在の間にレベルアップしたから披露するのが楽しみだというものが多かった。
あと俺達のメッセージは基本的に五年生の同級生グループでのメッセージの集まりだったんだけど、今は演奏会に向けて茅さんと杏や二年生達を加えた演奏会用グループでメッセージをやり取りしている。このお陰で全員一度に話が出来るからとても便利になった。
旅行から戻って最初の演奏会の練習で来ていた子達の腕前を聴かせてもらったけど、確かに何をしたのかと思うほどに上達していた。これも師匠による百地流マジックなのかもしれない。百地流はもしかしたら本当に魔法でも使えるのかと思ってしまうくらいの上達振りだった。特に茅さんが……。
元々レベルが低いときちんと基本を教えられたらある程度まで成長するのは早いといえばそうなのかもしれない。初歩の初歩、基本の基本からやり始めた茅さんがすぐに上達するのはある意味当たり前なんだろう。でも……、それでも茅さんは驚くべき速度で成長している。少し前まで幼児向けの本で練習していた人と同一人物とは思えなかった。
演奏会に向けての練習は順調に進んでいるようだ。今は夏休み中だからこんなに練習に時間を取れているけど二学期が始まったらこうはいかない。だからこそ夏休み中に出来るだけ練習を進めておかないと演奏会までに間に合わないことになる。
そうして旅行から戻って数日過ごしているとあっという間に近衛家のパーティーの日になってしまった。うちの家族は兄も両親も皆参加するし、グループの子達もほとんど全員が参加する。地下家以下の家は呼ばれている家と呼ばれていない家があるようだけど、それを選ぶのは近衛家だから仕方がない。
「それじゃ行ってくるよ」
「留守は頼みましたよ」
「すまん咲耶!パパがお土産を買ってきてやるからな!」
「いってらっしゃいませ」
家族の出発を見送ってから部屋へと戻る。久しぶりに一人だ。いや、もちろん家には家人達がたくさんいるんだけど、家に家族が誰もいないというのは滅多にない。
うちのような家だったら皆それぞれ忙しく出掛けていて顔を合わせる暇もない!なんて思うかもしれないけど、うちは基本的に母は大体家にいる。出掛けてることもあるけど兄も学園が終われば大体戻ってきているし、父だって普段は仕事が終わると真っ直ぐ帰ってくる。
まずほとんど家に誰かがいるし、夜にはほとんど全員揃っていることが多い。というか、そもそも誰かがどこかに行くという時は他の家族も一緒なことが多い。パーティーに呼ばれていれば全員が呼ばれていて顔を出すし、食事や買い物に行くとしても大体揃って行く。よくよく考えたらうちの家族は一緒に過ごす時間が多い。
もちろん家に居たってずっと一緒なわけじゃない。俺なんて食事が終われば自室に居るし兄だって居間か自室にいるだけだろう。でもいつもほとんど誰かがいる家が当たり前だったんだ。こうしてふと誰もいない瞬間というのは何だか新鮮なような、寂しいような、心細いような、何とも言えない不思議な気持ちになる。
「咲耶様、お食事の準備が出来ました」
「はい」
椛が呼びに来たから食堂へと向かう。今日は俺一人だからご飯もお風呂も俺の自由だ。まだ少し時間が早いけどまずは食事を頼んだけどどうやら出来たらしい。
「え~……、私一人だと味気ないので椛も食事に付き合ってください」
「え?ですが……」
食事の準備を頼んだ時に椛と二人分頼んだはずなのに準備されていない。仕方がないのでもう一度そう言ったけど椛は困った顔をしているだけだった。
「これも仕事ですよ。さぁ、向かいに座ってください」
「あの……、はい……」
俺がそう言うと諦めたのか向かいに座ってくれた。他のメイドさんや給仕達が椛の分の料理を置いてくれる。作る方は作ってくれていたけど椛が認めていなかったというところだろう。俺が強めに言ったから椛も折れて、そこからは普通に二人で向かい合って食事が始まった。
「あの頃の咲耶様は本当に可愛くて……」
「あら……、今は可愛くなくなってしまってごめんなさい」
「あっ!あっ!そういう意味では……」
「あははっ!」
椛と昔話に花を咲かせながら食事を楽しむ。やっぱりさすがは椛もテーブルマナーはしっかりしている。こうしておしゃべりしながらの食事だというのに一切隙がない。昔からほとんど一緒だから椛が習い事なんてしている所を見たことがないのに、一体いつの間にどこで覚えたのかと思うほど完璧だった。
幼少の頃の咲耶お嬢様が可愛かったとか椛はうっとりしながら言っている。そりゃ途中から前世の記憶を取り戻した俺が出て来たんだから可愛くなくなるのも無理はない。母だって俺が変わってからは色々厳しく疎遠になってしまったし、椛もきっと相当驚いたことだろう。
当時の俺は周囲にバレていないつもりだったけど、こうして冷静に考えてみれば毎日一緒だった家族や椛や家人達は俺がおかしくなったことにすぐに気付いたに違いない。子供の浅知恵というか、俺もあまりの驚きで適当に誤魔化せているつもりになっていたというか……。
「はぁ……、久しぶりに楽しい食事でした」
「はい……。あの……、ありがとうございます」
椛が礼を言って頭を下げるけど何に対してお礼を言って頭を下げているのかわからない。椛にお礼を言われるようなことはしていないはずだ。でもいちいち追及するのも無粋だろう。とりあえず受け取っておいて楽しい夕食を終えた。
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「咲耶様、お風呂の準備が整いました」
「はい。今行きます」
部屋で食休みしながら寛いでいるとまた椛が呼びに来た。今日はご飯を食べてからお風呂だ。ルンルン気分でお風呂場に向かう。別に理由は何もないんだけど、ただ何となくご機嫌なだけだ。椛と夕食の時に昔の懐かしい話をしたからかな?ともかくやってきた脱衣所で服を脱ごうとして……。
「…………椛?どうして一緒に入ってきているのですか?」
「もちろん咲耶様のお背中をお流しするためです」
キリッと椛が答える。その顔は至って真面目だ。冗談とかで言っているようには見えない。
「あ~……、一人で入れますから……」
「いいえ!駄目です!さぁ!お召し物を脱ぎ脱ぎしましょうね!」
「あっ!ちょっ!」
俺が良いと言っているのに無理やり俺を脱がせようとしてくる。しかも自分も何だか中途半端に脱ぎかけている。何なんだこれは?椛は一体どうしてしまったというのか。
脱ぎ脱ぎとか言ってたしあれか?食事の時に昔話をしたからまるで昔に戻ったような気になってしまったのか?確かに昔は椛と一緒にお風呂に入ったりしていたけど、前世の記憶を思い出す前にはもう一緒に入ることもなくなっていた。それを今更また一緒に入るなんて出来るわけがない。
「あっ!」
「――ッ!?」
もみ合っているうちに椛の手が俺の胸にふにゅんと触れた。ばっちり掌に包まれて完全にぴったりフィットで持たれている。まるで二人の時間が止まったようにしばらく無言が続いたけど……。
「ふっ……」
椛がフッと笑った。その顔はまるで悟りを開いた仏様のような顔だった。そして……。
「ちょっ!椛!鼻血!鼻血が出ていますよ!お風呂なんて入っている場合じゃないでしょう!」
椛の鼻からつつつーっと鼻血が垂れてきていた。でも相変わらず椛の顔はまるで仏様のように澄んでいる。もしかして椛はもう死んでしまっているのではないかとすら思える。
「大丈夫ですよ咲耶様。さぁ、お風呂に入りましょう」
「大丈夫じゃありません!血を流したままお風呂に入る人がいますか!誰か!誰かーっ!誰かきて!椛を!」
俺の声を聞いたメイドさん達がやってきて椛の手当てをしてくれた。それでもお風呂に入ろうとする椛を皆で止めるのに大変な苦労がかかって、ようやく俺がお風呂に入れたのはそれから二十分ほどしてからだった。
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脱衣所ではちょっと大変なことがあったけど食事もお風呂も済んで部屋で寛ぐ。さっきあんな騒動を起こした椛がどうしたかと言うと……、俺の部屋で控えている。
「咲耶様……」
「はい?何ですか?」
椛が呼ぶからベッドに寝転がったまま声のした方を見てみれば……。
「ハァ~!ハァ~!咲耶様!遊びましょう!ね?一緒に遊びましょう!」
「ちょっ!どうしたのですか椛?」
明らかに椛の様子がおかしい。ベッドのすぐ横まで来ていた椛はまるで俺に覆いかぶさるように圧し掛かってきた。
「スンスンスン!あぁ!咲耶様のかをりがっ!」
「くすぐったいですよ!椛」
まるで抱きつかれているかのような形になってしまった。椛はまるで俺の首筋に顔を埋めるかのようにしながら鼻を鳴らしている。何だかとてもいけないことをしているような気になってしまう。
「咲耶様!いいですよね?もういいですよね?天井のシミを数えている間に終わりますから!ね?いいですよね?」
「何を言っているのですか?うちの天井にシミなどありませんよ?」
うちの家はかなり古いけど家人達が徹底的に掃除してくれているから埃一つ、シミ一つない。というのはちょっと嘘になるけど、俺達が普段生活しているスペースは実は割りと新しい場所だ。家全体は相当古い、国宝や重要文化財に指定されてもおかしくないような建物だけど、俺達の普段の居住スペースは近代以降に建て増しされたものだろう。
古い部分に関してはシミもあるだろうけど、新しい部分に関しては綺麗だ。だからこの部屋にはシミはない。
「ただいま咲耶。お土産を買ってきたよ」
その時部屋の外から兄の声がかかった。どうやらもうパーティーから戻ってきたようだ。
「チッ!もう戻りやがったか!」
「え?」
椛が一瞬凄い顔になって舌打ちした気がした。それに口調が?
「椛?」
「…………旦那様や奥様がお戻りのようですので、お出迎えに参りましょう」
でも俺のベッドから下りた時の椛の顔はいつも通りだった。俺の見間違いかな?
「そうですね……。今参ります」
俺もベッドから下りて居間へと向かう。久しぶりの一人でのお留守番はちょっとした騒動もあったけど特に何事もなくあっという間に終わってしまったのだった。