第二百三十八話「ビンタ」
あ~~~っ!一昨日は楽しかった。学園で皆と先日のパーティーの話をするのが楽しみだ。
「御機嫌よう」
「「「……」」」
「おはようございます九条さん」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
俺の挨拶にいつも通りの返事が返ってくる。もう他のクラスメイトに無視されてるとか気にならない。一度自分の席に荷物を置いて芹ちゃんと皐月ちゃんの所へ行こうかと思ったら、すでに二人とも俺の席に来ていた。
「一昨日のパーティーに呼んでいただきありがとうございました。本当に楽しかったです」
「何だか私達だけ随分パーティーと違うことをしていたような気がしますけど……、あれも私達らしいですよね咲耶ちゃん」
二人がすぐに声をかけてきてくれた。それも悪い意味じゃなくて本当に楽しそうに……。
こんな顔をしてもらえるなら俺の多少の苦労なんて何てことない。この笑顔があるからこそ次もまた頑張って企画しようと思える。大好きな皆が満足してくれたならやってよかったと思える。
「こちらこそわざわざ足を運んでいただきありがとうございました。芹ちゃんとのダンス、とても楽しかったですよ。でも……、贅沢を言えば私達だけで楽しめるパーティーの方がもっと良いんでしょうけどね、皐月ちゃん」
慣例も前例も関係ない。俺達は俺達が楽しめるパーティーが出来ればそれが一番良い。だけどそういうことを快く思わない者もいるわけで、確かに俺達らしいと言えばそうなんだろうけど、やっぱり誰の目も気にせず自由に出来るホームパーティーが一番だとつくづく思い知らされる。
「おはようございます咲耶様!」
「御機嫌よう薊ちゃん」
「おはよー!皆ー!」
「ごきげんよう咲耶ちゃん」
「おはようございます咲耶ちゃん」
皆が同じような時間に揃って登校してきた。いつもはもっと遅い子も、今日はパーティーの話がしたくていつもより早めに出て来たのかもしれない。皆で挨拶が終わると今日も朝一番から揃ってパーティーの話に花を咲かせる。あぁ……、本当に今年はまるで天国のようだ。去年までは地獄のようだったからなぁ……。
こんな幸せが続いてくれたらいいのに……。
「おい咲耶!お前どういうことだよ!」
それなのに……、今朝は朝っぱらからうるさい奴がきた。折角の楽しい雰囲気だったのに一気に白けてしまったじゃないか。皆も煙たそうに伊吹を見ている。
「随分騒がしいですね近衛様」
三組の教室にやってきたのは伊吹だ。その後ろに槐もいる。朝っぱらから二人揃って俺の所にやってくるなんて珍しい。よほどのことでもない限りはこの二人がわざわざ揃って朝から来ることなんてないと思うけど……。
「そんなことを言ってる場合か!どういうことだよ!」
「ですから何の話をしておられるのですか?」
いきなり来てどういうことかと言われても意味がわからない。こいつはアホだアホだとは思っていたけど、とうとう言葉もまともにしゃべれなくなってしまったのか?
「お前と水木の婚や……」
「――ッ!?黙りなさい!……あっ」
バチンッ!
と教室中に乾いた音が響いた。俺にビンタを食らった伊吹はヨタヨタとよろけて机にぶつかりガガガッ!と机が床を引っ掻く音がさらに響いた。
「…………」
「…………」
机に手をついた形の伊吹が驚いた顔で自分の頬を押さえながら呆然とこちらを見ていた。俺もつい咄嗟に手を出してしまって右手を振りぬいた形でどうしていいかわからず固まる。
つい……、咄嗟に伊吹を殴ってしまった。もちろん殴ると言っても本気で攻撃したわけじゃない。俺があれだけ隙だらけだった相手を本気で攻撃したら今頃脳震盪で失神して倒れていることだろう。あくまであまりに驚いて、黙らせようとして、ついビンタしてしまっただけだ。
伊吹が何を言おうとしていたのかはわかっている。俺と水木の……、と言えばこの前の許婚候補宣言どうこうという話だろう。
何故伊吹がそれを知っているのかと言いたい所だけど、近衛に近い広幡からその話が近衛の耳に入っても何もおかしくはない。水木も伊吹や槐達と幼い頃から顔見知りみたいだし、近衛と広幡の家の間で話していなくても、伊吹と水木の間で聞かされる可能性も高い。
こんな公衆の面前で、しかもまだ発表もされていない許婚候補宣言について言わせるわけにはいかない。そう思ったらつい咄嗟にビンタしてしまった。そう……、これだけの公衆の面前で……。
これはもう言い訳のしようもない。俺は明らかに近衛伊吹を殴った。それも周囲からすれば殴らなければならないような理由もあったようには思えないだろう。もうこれはどんな弁明もしようがない。完全に俺の落ち度……。やってしまった……。
「……っ!なんで……、何でだよ!咲耶!お前は俺の許婚だろ!それなのに何で……、――ッ!」
「あっ!伊吹!」
伊吹は泣きそうな情けない顔になってそう言うと三組の教室から走り去った。槐が出て行った伊吹を一瞬追いそうになって一度こちらを振り返った。
「九条さん、また後で話を聞かせてもらうから!伊吹!待ってよ!」
それだけ言うと槐も伊吹を追って教室を出て行った。残ったのは痛い沈黙のみ……。三組の教室内は異様な静けさに包まれていた。
「あー!すっきりしましたね!さすが咲耶様です!」
「近衛様って何だか情けないねー」
「いや、あの……」
暫く二人を見送っていた皆が動き始めた。でも伊吹をディスるのはやめて欲しい。それじゃまるで俺が積極的に伊吹を殴ったみたいに思われてしまう。俺だってまさか伊吹がいきなりあんなことを言い出すと思ってなかった。だからつい黙らせようと思ってビンタしてしまっただけなんだ。決して殴ろうと思って殴ったわけじゃない。
「鬱陶しいのもいなくなりましたし、お話の続きをしましょう」
「何かよくわかりませんでしたが、咲耶ちゃんがぶったということは近衛様が悪かったんでしょうね」
蓮華ちゃんは相変わらず怖い!そして椿ちゃんの俺への信頼が痛い!
確かに今のも伊吹がまだ発表もしていないことを口走りそうになったからつい殴ってしまった。でも殴るほどのことでもなかったように思う。本来なら広幡がパーティーで公表するまで黙っておくべきことであるのは間違いない。それを近衛が、伊吹が先にバラしてしまうのはマナー違反だ。
でもだからってこんな公衆の面前で、俺が伊吹を殴ってまで止めなければならないことだったというほどじゃないかもしれない。広幡にとっては先に情報を出されて良い迷惑だろうけど、それは広幡と近衛の問題であって俺や九条は関係なかった……。わざわざ俺が悪評を被ってまで止めることじゃなかった気がする。
今になって冷静に考えればそう思うけど……、あの時はつい咄嗟に殴ってしまったんだから仕方がない。もう殴ってしまった事実を消すことは出来ず……、皆が話し始めたのを聞いてクラスメイト達がヒソヒソ言い始めた。やってしまった感がすごい……。
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今日は一日中針の筵だった。朝の騒動はあっという間に広がって、俺が伊吹を殴ったと知らない者はいないんじゃないかと思うほどに学園中に広まっている。俺としては言いたいこともあるけど、伊吹をぶっ叩いたことに間違いはなく、言い訳しようにも言い訳のしようもない。
「はぁ……」
グループの皆はいつもと変わらず接してくれていたけど、学園中でヒソヒソ言われて、皆に白い目で見られて精神的に疲れた。
「やぁ九条さん、ちょっと顔を貸してくれるかな?」
「鷹司様……、近衛様も……」
サロンに来ると扉の前で槐と伊吹が立っていた。どうやら俺が来るのを待っていたらしい。今朝のことがあるから俺に断るという選択肢はない。
「薊ちゃん、皐月ちゃん、先にサロンに行っておいてください」
「はい、咲耶様」
「何かあれば呼んでくださいね」
察してくれた二人はそのままサロンへ向かい、俺達はいつものバルコニーに出た。今日呼び出されるということは朝のことだろう。どうしよう。とりあえず謝った方がいいのかな……。何か言われる前に先に謝るか?
「ここでいいね。九条さん、今朝はごめんね。伊吹もつい興奮して言いかけてしまったんだよ。あの場で勝手に伊吹が言っちゃったら大変だもんね。九条さんの行動もわかるよ」
「……はぁ?」
何だ?槐は何を言っている?何故槐が謝るんだ?まったく意味がわからない。何か企んでいるのか?
「今朝のことはお互いに水に流そうよ。このままギクシャクしているのも困るでしょ?ね?伊吹も、ほら」
「あっ、ああ……」
槐に押されて伊吹が俺の前に立つ。視線を合わせようとはせず、何かもじもじした感じでまったく男らしくない。これのどこが俺様王子なのだろうか。
「今朝は悪かったな……。あんな場であんなことを言うべきじゃないっていうのは後で槐に言われてわかった。俺もちょっとどうかしてたみたいだ。咲耶にビンタされるのも仕方がなかったと思う。悪かったな」
うん。まったく悪かったと思ってないよね?とてもじゃないけど謝ってるとは言えない。でもまぁいい。それは別にどうでもいい話だ。それよりももっと大事な話がある。それはこの場で俺に言っても意味がないということだ。
俺はもう完全に学園中で、皆の前で近衛伊吹をひっぱたいた奴だと噂になっている。実際に叩いたんだから俺からは言い訳のしようもない。だからもし伊吹が謝るのなら、こんな人目のない所で俺だけに謝るんじゃなくて、皆が見ている前で自分が悪かったと謝って欲しい。でなければ何の意味もない。俺の評判は取り返せない。
「でも咲耶も悪いだろう!何で……、何で……、咲耶!お前は俺の許婚だろ!それなのに何で水木と婚約なんてしたんだよ!」
「え~……、それ……、全部間違ってますよね?」
「「……え?」」
何と答えたものかと思いながらも何とか考えを纏めた俺が口を開くと二人ともポカンとしていた。でも何故そんな顔をしているのか意味がわからない。
「まず近衛様と私は許婚ではありません。近衛家が一方的に私を近衛様との許婚候補に指名して宣言しただけで、そこには九条家や私の合意はありません。近衛様は『許婚候補宣言』という言葉の意味をきちんと理解されていないのではないでしょうか?」
「なっ……、えっ……?」
何か伊吹がオロオロとうろたえている。まさか本気でわかってなかったのか?わかっていてやってるのかと思っていたけど、案外俺はこれでもまだ伊吹を買い被っていたのかもしれない。伊吹はもっとアホだったんだ……。
「そして広幡様と婚約などしておりません。広幡家が勝手に、一方的に許婚候補宣言をすると言ってきただけです。それは近衛様や鷹司様の家が九条家や私に同意なく勝手に許婚候補宣言されているのと同じです」
伊吹が誰に何を聞いてこんな勘違いをしたのかはわからない。でも色々と間違っていることだけは確かだ。
「そういうことだったんだね」
槐は何か笑顔でそう言っているけど伊吹はまったく笑っていない。俯いてフルフルと拳を握り締めていた。
「ちょっと待て咲耶!お前は……、お前は俺の許婚だろ!?」
「いいえ。違います」
「…………」
「…………」
顔を上げた伊吹が俺の肩を掴みながらそんなことを言ってくる。だから俺は迷うことなく即答しておいた。ここで下手に有耶無耶にしてしまっては良くない。はっきり思い知ってもらわないと……。
「近衛様……。近衛様に相応しい方はいずれ現れます。それは私ではありません。私と近衛様が結婚するなどという未来は絶対にあり得ないのです。どうか現実をよく見てください。もう少し……、周囲を見てください。私などよりも近衛様のことを良く見てくれている大切な人がいらっしゃるでしょう?」
「それは……」
よし!このまま誘導……。
「九条さん!もういいから!さぁ伊吹!行こう!それじゃごめんね!」
「チッ……」
折角伊吹が良い感じにグルグルし始めていたのに、ここの所いつもいつも槐に邪魔されているな。まぁいい。俺が言ったことは本当だ。高等科に入れば本当に伊吹には運命の人が現れる。
で・も!それはゲーム『恋に咲く花』の主人公じゃない。主人公が誰を選ぶかはわからない。ゲームならプレイヤーがその時々で攻略対象を選ぶけど、ゲームの世界ではなくなっているこの世界では、果たして主人公がどういう行動をして、誰を攻略して結ばれるのかはまったく予想がつかない。
だけど心配する必要はない。例え主人公が伊吹ルートに入らなくても伊吹には運命の人が現れる。それは主人公でも咲耶お嬢様でもない。俺としては伊吹は槐と結ばれてどこかへ消えてもらいたい所だけど、ゲーム中では主人公が別ルートへ行っても伊吹はあいつと結ばれる。
俺はこの世界で主人公と伊吹をくっつかせるつもりはない。出来る限り邪魔して他のルートへ誘導するつもりだ。そして出来ることなら主人公は咲耶お嬢様と……。
その時に伊吹は槐かあいつと結ばれればいい。九条家と咲耶お嬢様を破滅させて、主人公にフラれたからとあいつと結ばれる伊吹は……、絶対に許せない。これまでの咲耶お嬢様の恨み、全て晴らしてやる。