第二百三十二話「不文律」
「ふん♪ふふ~ん♪うふっ!」
俺は軽い足取りで廊下を歩いてサロンに向かっていた。食堂で校長室に乗り込むとかいう話になっていた時はどうなることかと思ったけど思いの他うまくいったようで気分が良い。
「咲耶ちゃんご機嫌ですね」
「ええ、まぁ……」
そりゃあれだけうまくいけば誰でも上機嫌になるというものだろう。俺達はサロンに向かうけど、途中までは校長室に向かった皆で一緒に歩く。
「さすがは咲耶様です!」
「ええ、校長や理事長はおろか、近衛様ともあれだけ堂々と渡り合われるなんて、とっっっても素敵でした」
何か薊ちゃんの言葉に蓮華ちゃんがうっとりしたような顔をしている。でも俺は近衛母と渡り合ってなんていない。というか扉を開けた時にニコニコしながらソファに座ってこちらを見ていた近衛母と目が合った時かなり焦った。
まさか今日あんな場所に近衛母がいるなんて思いもするはずもなく、近衛母が同席すると聞いた時にやっぱり提案なんてせずに逃げ出そうかと思ったくらいだ。まぁ結果的には近衛母も俺の案に乗ってくれたから助かったんだけど……。
校長と理事長に旧食堂の開放をお願いした時、二人は結構渋っていた。大人や責任のある者の立場からすれば、老朽化で閉鎖することが決まっていた建物を、一時的とはいえ開放して、万が一事故でもあったら誰が責任を取るのかと心配になるのはわかる。
俺だって耐震補強工事をしてまで旧食堂を利用したいと思ったわけではなく、でもだからって今すぐにでも使用をやめなければならないほど老朽化しているわけでもないだろうという思いもあった。
校長と理事長に何がどう悪くて駄目なのか、それを言ってもらって対応策を一緒に考えようと思ったんだけど、俺が具体的な問題点を聞いても二人は答えてくれず……。それじゃ解決のしようもないと諦めかけた時に近衛母が賛同してくれた。
予算だって俺達が言い出しただけで、一応お昼休み中に父に電話してお伺いは立てたんだけど、絶対に全額予算が出せるとも限らない状況だったのに、近衛母が賛同してくれたお陰で予算の心配もなくなり、校長と理事長もついには首を縦に振ってくれた。
二人からすれば子供のわがままで余計な仕事が増えたのかもしれないけど、どの道あれだけ食堂が混雑していてはいずれ何か問題が起こっていただろう。地下家同士や一般生徒が揉めたくらいならまだ良いけど、万が一にも堂上家が利用しようとして何か問題があったら大変なことになってしまう。
それを思えば事前に数百万くらいでオープンテラスを作って問題が解決出来るのなら安い物じゃないだろうか?校長と理事長がそのことに納得してくれたのかはわからないけど……、とにかく近衛母のお陰でオープンテラスと旧食堂開放が通ってよかった。
あと俺はすっかり忘れていたけど、そろそろ俺達は中等科に上がる準備をしなければならない。中等科には今の初等科のような予約システムを導入した食堂はない。俺達が入学した時に予約システムやおいしい料理を食べるためには今のうちから準備をしておかなければならない。
近衛母がそれを言ってくれたお陰で俺もようやく思い至った。そしてついでだから高等科にももう同時に導入してしまおうということになったけど、近衛家がついてくれるお陰で予算の心配もないし、俺達が上に上がった時にすぐに利用出来るしで至れり尽くせりだ。
「あー……、もうここまで来ちゃったねー……」
「咲耶ちゃん……、お別れです……」
「さようなら咲耶ちゃん」
ここで別れる皆が寂しそうにそんなことを言ってくれる。ギュッと抱き締めてしまいたくなるけどグッと堪えた。
「御機嫌よう皆さん。それではまた明日」
「うん!また明日ー!バイバーイ!」
俺が小さく手を振ると譲葉ちゃんが元気に手を振ってくれた。でも階段があるから気をつけて欲しい。階段から転げ落ちたなんてことになったら大変だ。
「さぁ、それでは私達はサロンへ向かいましょうか」
「はい!咲耶様!」
「ええ」
薊ちゃんと皐月ちゃんを連れてサロンに向かう。今日は五北会の新入生達の顔見世の日だけど、校長室に行っている間に俺達だけ遅れてしまった。去年は竜胆や榊という可愛い新入生達が俺と仲良くなってくれたけど、今年はどんな可愛い子達が俺と仲良くなってくれるかな?
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新入生の顔見世が終わった五北会サロンでは、それぞれの新入生達は自分達の派閥や門流の集まりに呼ばれて、そこでさらに色々な注意を聞かされていた。他の派閥との付き合いや、距離の置き方。あるいは比較的味方である派閥や、決定的に決裂している敵対派閥まで……。新入生達にこれからの過ごし方が叩き込まれる。
ギィィィーーー…………
そんな時……、重苦しい音を立てて重厚な五北会サロンの扉が開かれた。
コツンッ……、コツンッ……、コツンッ……
逆光の中、美しい姿勢で優雅に入室してくる神々しい女性に新入生達は『うわぁ~っ!』とつい声を漏らしてしまった。口元には微笑を浮かべ、すっと伸びた背筋に真っ直ぐした足取りで歩いてくる。後ろから差し込む逆光がまるで後光を背負っているようで、その女性の美しさも相俟ってとても神秘的な光景に見えた。
「皆さん、御機嫌よう」
扇子で口元を隠し、良く通る美しい声ではっきりとそう言った。大きな声を出したわけでもないのに力強くはっきりと聞こえる。その滑舌の良さや、腹の底から出しているのかと思えるような声の強さから、その人物の意思の強さのようなものが感じられた。
しかしそれはうるさいとか強い声ではなく、とても心地良く、聞いているだけで心を奪われるような、いつまでも聞いていたくなるような声だった。
「ごきげんよ……、んぐっ!」
「こんにち……、んんっ!」
迂闊にもその後光が差す女神に挨拶を返しそうになった新入生達の口を、派閥の者達が慌てて塞ぐ。触れてはいけない。藤花学園でアンタッチャブルとして暗黙の了解になっている女帝、九条咲耶様に、気安く声を返して良い者は限られている。もし迂闊にも馴れ馴れしく声を返せばどんな目に遭わされるかわからない。
(しっ!あれがさっき言った九条咲耶様だ!)
(んんっ!?)
(馬鹿!あれほど迂闊に触れるなと!)
(――ッ!――ッ!)
新入生達の口を押さえた上級生達は恐る恐る九条咲耶様を見てみた。そして……、目が合った。
「――っ!?」
自分達を見ている。間違いなく。絶対に、完璧に、目が合っている。しかもその顔は明らかに不快そうに眉間に皺を寄せ、口がへの字に折れ曲がっていた。上級生達は自分達も悲鳴を上げそうになったのを必死で抑えた。ここでこれ以上九条咲耶様の怒りを買うようなことをしては本当に派閥ごと消されてしまう。ただ静かに嵐が過ぎるのを待つしかない。
「不愉快ですね」
「――――っ!!!!もっ、申し訳ありません!今後二度とこのようなことがないようにしっかりしつけてまいります!ですからどうか御容赦を!」
上級生達はとにかく必死で謝って頭を下げた。ここで対応を誤れば一族郎党から会社の従業員まで全員が不幸になる。それだけは何としても回避しなければならない。
「ふぅ……」
ビクッ!と……、九条咲耶様の溜息一つにも全員が肩を跳ね上げて頭を下げたままブルブルと震える。このまま自分達を潰す宣言をされてしまうのか。そう思うと恐ろしくて顔を上げることが出来ない。
「咲耶お姉様!何をしておられるのですか!さぁ早くお話しましょう?」
「竜胆ちゃん、榊君、御機嫌よう」
「こんにちは九条様」
その時、九条咲耶様に話しかける者がいた。久我竜胆様と中院榊様だ。久我、中院も上位の家ではあるがそれだけならば大した脅威とはならない。同格に近い家もそれなりにあり、確かに上位ではあるが飛び抜けて恐ろしい相手というほどでもない。
しかしその七清家や大臣家までもが九条咲耶様に取り込まれていることが恐ろしいのだ。咲耶様派閥に睨まれたならば、九条門流のみならず、他の数々の有力家全てを敵に回すことになる。だからこそ絶対に逆らってはいけない女帝なのだ。
「それでは行きましょうか。……気をつけなさい」
「「「はっ、はいっ!ありがとうございます!」」」
久我竜胆に引かれていつもの最奥の上座にある専用の豪華な椅子に向かう九条咲耶様の言葉に、全員が最敬礼で頭を下げた。今の言葉はつまり『次はない』という意味だろう。新入生達の失敗だから一度目は許してもらえただけであり、もし次にまた同じようなことがあった場合、『次はない』……。だから『気をつけておけ』という意味だ。
こうして今年も新入生達には上級生達から九条咲耶様についての注意事項が徹底的に叩き込まれ、今年もまた誰も九条咲耶様に不用意に近づかないという不文律が徹底されることになったのだった。
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サロンの扉を開けて、今日もいつも通りに挨拶をする。
「皆さん、御機嫌よう」
チラリと流し目でサロン内を見るけど、誰もこちらを見てもくれない。完全にスルー態勢が出来ている。だけど……。
「ごきげんよ……、んぐっ!」
「こんにち……、んんっ!」
可愛い一年生達が無邪気に俺に返事をしてくれそうだった。満面の笑みでそちらを見ていたのに、後ろにいる上級生達が可愛い可愛い一年生達の口を無理やり塞いで止めてしまった。一体何故……。
そこまでか?そこまで俺は嫌われているのか?何も知らない一年生達は単純に後から来た俺達に挨拶をしようと思ってくれたんだろう。でも上級生達がそれを止めてしまう。何で俺はここまで皆にいじめられているんだろう?何か悪いことをしたかな?まるで身に覚えがない……。
「不愉快ですね……」
つい本音が出てしまった。いつもはあまり本音は言わないようにしているんだけど……。俺達は上流階級だから不用意に本音を言うものじゃない。腹が立っていても笑顔で手を振らなければならないような立場が俺達の立場というものだ。
でも誰だってこんなあからさまな嫌がらせやいじめを受けていたら不快にも思う。いつもは言わないんだけど、こんな罪もない無邪気な一年生達まで巻き込んでこんなことをする上級生達にも腹が立つ。
「――――っ!!!!もっ、申し訳ありません!今後二度とこのようなことがないようにしっかりしつけてまいります!ですからどうか御容赦を!」
俺の呟きが聞こえたのか、上級生達が頭を下げた。一応自分達が悪いことをしている自覚はあるのか。それなのに何故こんなか弱い咲耶お嬢様をいじめるような真似をするんだろう。誰かに指示でもされているんだろうか?
「ふぅ……」
もう疲れた……。可愛い一年生達とただお友達になりたいだけなのに……、どうしてこうも嫌われるのか……。
「咲耶お姉様!何をしておられるのですか!さぁ早くお話しましょう?」
「竜胆ちゃん、榊君、御機嫌よう」
「こんにちは九条様」
俺が途方に暮れていると竜胆が満面の笑顔でやってきてくれた。あぁ、竜胆は可愛いなぁ。俺の心の癒しだよ。この五年間でグループの皆や伊吹達ゲーム関係の者以外で俺に懐いてくれたサロンメンバーなんて竜胆と榊くらいじゃないか?他の下級生は皆上級生に何を教えられているのか、俺を避ける子達ばかりだ。俺は下級生をいじめたことなんてないのに……。
「それでは行きましょうか。……気をつけなさい」
「「「はっ、はいっ!ありがとうございます!」」」
もう不愉快だと言ってしまったので、一応これからは気をつけてもらうようにちょっとだけ小言を言っておいた。皆表向きはこうして素直に聞いてくれているけど、一向にその態度が改められたことはない。返事だけは良いのに……。そんな返事をする前に普通に俺と挨拶をしてくれたらそれだけでいいのにな……。
竜胆に引っ張られていつものサロンの奥の隅の方で小さくなっておく。嫌われ咲耶お嬢様はこうして隅の方で小さく目立たなく生きていくのがお似合いということだろう。
「咲耶ちゃん!見て頂戴!どうかしら?この制服?ねぇ?咲耶ちゃん!」
「……御機嫌よう茅さん」
ドバーンッ!と扉をぶち破る勢いで駆け込んで来た茅さんは一直線にいつもの俺達の指定席にやってくると、少しだけスカートを摘んでクルリと回ってくれた。はっきり言おう。とても可愛い。着ているのが茅さんでも、いや、茅さんだから?もうわからないけど……。
俺はこの制服のプリーツスカートというのが大好きだ。ヒラヒラフリフリの襞がついたプリーツスカートは大好物であり、可愛い制服を着ているだけでとても胸がときめいてしまう。いや、制服フェチとかじゃないよ?学生が好きなロリコンでもないよ?
「とても似合っていますよ。スタイルの良い茅さんにはぴったりです」
茅さんは細身でやや長身だからな。本当にスタイルが良い。長い髪で顔が隠れているととても不健康そうに見えるけど……、こうしてちゃんと髪型も整えているとモデルさんみたいなスタイルだ。
「そうかしら?それじゃあ今日は私の家に寄っていって頂戴?ね?高等科になったのだから……、そろそろいいでしょう?ねぇ?ハァッ!ハァッ!」
「ちょっ!?茅さん!?落ち着いて!」
ハァハァ言いながら迫ってくる茅さんはちょっと怖い。折角スタイルも良いし顔も綺麗で良い所のお嬢様なのに……、高等科になってもまだ婚約者の一人もいないのはこういうところが原因じゃないだろうか。
まぁそのお陰で俺としてはうれしいんだけど……。俺はうれしくてもそれが果たして茅さんの幸せなんだろうかと思うと複雑な気がしてならない。皆のことも、茅さんのことも大好きだけど……、どうすればいいんだろう?