第二百十五話「どんなことでも一生懸命」
樋口芹にとっては九条咲耶は、いや、五北家どころか五北会に所属するような家も、それより下の堂上家ですら雲の上の存在だった。
同じ学園に通っていると言っても別世界の人間達。話しかけることも許されない至高の存在。相手から声をかけられるだけでも名誉なことであり、ましてや自分の方から声をかけるなど許されない行為だ。ずっとそう思っていた。遠くから眺めるだけの別世界に生きるキラキラと輝く人達だと……。
三年生のクラス替えの時に、芹と同じ一組には近衛伊吹様と九条咲耶様が、五北家の中でも最上位の二家が同じクラスになるということが起こってしまった。そのクラス分けを知って一組の生徒達は全員が凍りつく。
近衛伊吹様は藤花学園に入学する前から有名だった。社交界デビューの時から話題の中心人物で、自分達のような地下家など遠くから見ていることしか出来ない相手だと思っていた。実際今まで一度も声をかけられたこともなく話したこともない。しかし……、三年生になる頃には入学前の予想とは大きく違うことが色々とあった。
近衛伊吹様と違い、藤花学園に入学するまで社交界に顔を出したこともなかった九条咲耶様。それまでは様々な噂が飛び交っていた。社交界に出られるだけのマナーも身に付けていないのだとか、わがままが過ぎて外へ出してもらえないのだとか、本当は事情もまったく知らない者が、それぞれの勝手な想像をまことしやかに噂していただけだ。
しかし実際に学園に入学して、その人となりがわかってくるとそれらの噂がまったくあてにならない嘘だったとすぐにわかった。
しゃなりしゃなりと歩く姿は美しく、九条咲耶様の動きを見てからではマナー教室の先生ですら未熟に見えてしまう。冷たい視線は何者にも屈せず、扇子で覆い隠した口元は常に冷笑を湛えている。
ほとんどの生徒達は九条咲耶様を恐れ、遠巻きに見ているだけだというのに、そのような態度を示されても一度たりとも怒ったことはない。至高にして孤高。他に九条咲耶様に並び立てる者などほとんどおらず、その派閥を形成する七清家や堂上家の娘達も三歩下がって九条咲耶様の影を踏まないように付き従うのみ。
たまに身の程知らずが九条咲耶様に嫌がらせしようとしたり、逆らったりしても、全て余裕の笑みで受け止め、逆に完膚なきまでに叩き潰してしまう。地下家や一般生徒にとっては九条咲耶様に目をつけられるということは、自分だけではなく家ですら潰されてしまうまさに恐怖の象徴。
入学前までは近衛家こそが五北家の頂点と思っていた生徒が大多数だが、いざ学園に入ってみれば近衛伊吹様と九条咲耶様とでは格が違う。こう言っては失礼ではあるが、芹は明らかに近衛伊吹様が九条咲耶様の掌で転がされているようにしか見えなかった。
他の五北家ですら掌で転がし、派閥も門流も越えて数多くの七清家、堂上家、そして地下家ですら従えてしまうカリスマの塊、九条咲耶様。ほとんどの生徒達はそのお姿に恐れ戦くが、芹はただ素直に憧れの視線を向けていた。
その九条咲耶様が朝早くに教室に来て、毎朝教室内に挨拶をする。誰も返事もしない中で、それでも九条咲耶様はフッと笑い、余裕の笑みを浮かべて教室へと入ってくる。誰も彼も返事をしないのではない。返事など出来ないのだ。自分に言われているわけでもないのに、もし九条咲耶様に気軽に返事を返して怒りに触れでもしたら……。それを思うと何も答えずやり過ごすしかない。
でも……、芹は……、つい……、返事をしてしまった。やっぱり人が挨拶をしてくれているのに黙って無視するなんてよくない気がしてしまう。例え自分に言われているわけではないとしても、芹は小さく返事を返した。今更かもしれない。長い間返事もしなかったのに……。でも言葉を返した。それが運命の転機になるとも知らずに……。
~~~~~~~
九条咲耶様に朝の挨拶を返すようになってから暫く、最初の間は特に何もなかった。ただ毎朝九条咲耶様が教室に入る前に挨拶をして、芹がそれに応える。あくまで普通の朝の挨拶。
しかしいつからか次第に九条咲耶様は芹を目に掛けてくれるようになった。徐々に話しかけてくださることも多くなり、やがて様々なことにまで誘ってくれるようになった。そして友達だとまで言ってくださったのだ。九条様ではなく咲耶と呼んで欲しいとまで言われて芹の方が恐縮してしまった。
結局九条さんという呼び方で落ち着いたが、それでも五北家の一角、そして同世代では近衛伊吹様をも遥かに圧倒する女帝九条咲耶様を九条さん呼びするだけでも恐れ多い。
パーティーにまで呼んでもらい、色々なことで気にかけていただき、普通の地下家では一生体験出来なかったであろうことをたくさん体験させてくれた。芹にとってはまるで夢のような時間だった。
きっとシンデレラが魔法使いに魔法をかけてもらっている間は、こんな気持ちだったのではないかとすら思った。まるで夢の国に紛れ込んでしまったような、自分では辿り着けなかったキラキラとした天上の世界へと誘ってくれる。
自分なんかがそんなところに居て良いのだろうかという気持ちは強い。マナーも出来ていない自分が、本来話すどころか顔を合わせることも許されないような人達と一緒にパーティーを楽しむだなんて、藤花学園に入学するまでは、いや、九条咲耶様のお友達にしていただくまでは想像したこともなかった。
今までパーティーなどお堅いだけでマナーを気にして気の抜けない疲れる行事だと思っていた。パーティーがこんなに楽しいものだったなんて知らなかった。それもこれも全て、九条咲耶様がこのような場に連れて来てくださったお陰で知ることが出来たことだ。
しかし……、そうして九条咲耶様と親しくなればなるほどに、芹はその本当の姿を知ることになった。
九条咲耶様は決して他の生徒達が恐れているような怖い人でもなければ、自分から人に何か悪いことをするようなお方でもない。色々と誤解されて悩まれているような様子も時々みえる。
今まで人に恐れられたり、妬まれたりして、周囲から何かされるからそのために身を守っていただけだ。冷静に考えればそれくらいわかったはずなのに、芹ですら色々なフィルターを通して色眼鏡で咲耶様を見たり、噂に引っ張られて穿った見方をしていた。ましてや関わったこともない者達が誤解していても仕方がないだろう。
九条咲耶様は真面目で、優しくて、自分が辛くても人を気遣える素晴らしい人だ。そして実は少し恥ずかしがりやさんで、はにかんだ笑顔がとても可愛らしい。
四年生の二学期が始まって、咲耶様は何かソワソワした様子で芹に話しかけてきた。昔の自分や、他の人達は今でもその姿を冷笑を浮かべた孤高の女帝と思って見ていることだろう。しかし本当の九条咲耶という一人の少女のことを知った芹には、何だかあうあうと言いながら必死に何かを言おうとしている照れ屋な女の子にしか見えない。
結局何か言いたそうにしていながら言えず、始業時間が近づき諦めて自分の席へと向かった。芹も自分がもっとうまく咲耶様の話を引き出してあげられたらと思うのだが、如何せん咲耶様が何をお話したいのかわからない。何とか誘導しようと思っても何を聞き出せば良いのかわからないのでどうしようもなかった。
そして始業式が終わって教室へ戻る時、再び咲耶様が声をかけてきた。それほど親しくないけど教室では何となく一緒にいるクラスメイト達は、咲耶様が話しかけてきたことであっという間に逃げ出した。あれは完全に芹を生贄に差し出して自分達は関係ないと逃げ出したのだ。
芹はもう咲耶様のことを知っているから置いていかれても何も問題ないことは知っている。しかしあのクラスメイト達の自分への扱いや行動は冗談では済まない。所詮表ではお友達と言っていても、ほとんどの人付き合いなどこの程度かと芹は諦めにも似た気持ちになった。
ただ……、九条咲耶様は、そして咲耶様に影響されてその周りにいることを選んだ人達は皆温かい。表では友達だと言っておきながら、何かあれば一人を見捨てて逃げ出すような者は誰一人いない。一人が困っていれば全員が親身になって助けてくれる。咲耶様とその周囲は何と温かいことか。そして自分もその中に、端の方にでも加えようとしてくださる咲耶様の何とお優しいことか。
「えっと……、あの……、もう他の方とお約束があるのなら良いのですが……」
咲耶様が少し小さくなって赤い顔をしながらチラチラと芹の顔を見ながらそんなことを言い始めた。その姿がとても可愛らしくいじらしい。平静を装って話を聞きながら、もし相手が咲耶様でなければ今すぐ頭を撫でたり、キュッと抱き締めていたかもしれない。
「もっ、もしよろしければ、私と運動会で二人三脚に一緒に出てはいただけませんか?」
まるで愛の告白のように、目を瞑って手を差し出して頭を下げてそんなことを言う。芹は自分の胸の中心がキュンキュンと音を立てている気がした。いや、実際にそんな音が鳴っていたのかもしれないとすら思える。
「はい。私でよければよろしくお願いします」
その手を取ると、驚いた表情で顔を上げた咲耶様は次第にその言葉を理解して満面の笑顔を芹に向けてくれたのだった。
~~~~~~~
クラスで運動会の出場競技を決める時、咲耶様はその圧倒的存在感で二人三脚とリレーの代表を一発で決めてしまった。もちろん芹は咲耶様のことを知っているので強権的に自分を二人三脚に出せと言ったわけではないことはわかっている。
しかし未だに扇子を口元に当てて冷笑を浮かべている氷の女帝だと思っている周囲は、咲耶様が二人三脚に出ると言った時点でもうそれは一枠確定として認識していた。そのすれ違いに苦笑しつつやり取りを見ていると、近衛様と咲耶様が言い争うことになり……、明らかに咲耶様の言い分が正しかったのだが、近衛様の一言に咲耶様は辺りを見回した。
咲耶様を知る芹からすれば咲耶様のお考えもお気持ちもわかる。しかし……、その他大勢の生徒達の気持ちもわかるのだ。かつては自分もそうだったのだから……。咲耶様にそのつもりがなかろうとも、咲耶様が二人三脚にエントリーすると言った時点でもうその一枠は咲耶様で埋まってしまう。誰もがそう考えて遠慮する。
その現実にようやく気付いたのか、咲耶様がヨロヨロと席に戻って座られたが、周囲の生徒達はまたその姿が余裕の表情で『私が優遇されて出場するのは当たり前でしょう!』という態度で座ったように見えたのだろうなと思って困った顔をすることしか出来なかった。
~~~~~~~
体育の授業に初めて二人で二人三脚の練習をして、まったく息が合わないことに芹はまた苦笑いしか出来なかった。根本的に芹と咲耶様では足の速さが違いすぎる。だから咲耶様がスピードを落としているわけだが、それが遠慮しすぎていてスピードが出ないのだ。
咲耶様が芹に気を使って、遠慮して、転ばせないように細心の注意を払ってくださっていることはわかっている。しかしその遠慮が過ぎてあまりに動きがぎこちなく遅いのだ。原因はわかっているがそう指摘するのも憚られる。二人で隅の方で練習していると近衛様と錦織様の一騎打ちが行なわれた。
結果は錦織様の勝ち。去年の時点ですでにベストタイムの差が出ていたのだ。これは当然の結果と言える。誰もが近衛様を恐れて何も言えない中で、咲耶様は近衛様に声をかけた。挑発するような言葉だがそれがどういう意味で言われた言葉なのか芹にはわかる。
咲耶様は落ち込んでいる近衛様に発破をかけ、お尻を叩いてやる気を出させようとしているのだ。とてもお優しい咲耶様らしい。こういう所が人に誤解されてしまう所でもある。しかし芹は確かに聞いたのだ。授業を放り出して去っていく近衛様に咲耶様が小さくおかけになった声を……。
『錦織様は近衛様に勝つために今まで不断の努力を重ねられた。錦織様に負けて悔しいのなら、今度は近衛様が努力をする番だ』と……。
その言葉を聞いて芹はますます咲耶様のことが好きになった。好きになるなどと不遜でおこがましいが……、それでもやはりそう思わずにはいられない。
そして咲耶様は自らが努力されることも厭わないお方だ。自分達の二人三脚が不甲斐無いと言われ、時間のある限り練習をしようと言ってくださった。芹もそれに同意して練習を始めたが……、そこには信じられない咲耶様の姿があった。
どこかの立派な道場で、指導者らしきご高齢の方に咲耶様が滅茶苦茶にしごかれているのだ。学園では、いや、パーティーでも出掛けた先でも何でも、ありとあらゆる場面で常に汗一つ流さず涼しい顔で何でもこなしてしまう完璧超人である咲耶様が、罵倒され、汗を流し、それでも歯を食いしばって打ち込んでいる。
たかが運動会の二人三脚……、そう言ってしまえばそれまでだ。しかし咲耶様はその『たかが運動会の二人三脚』のために、まずは芹と二人の二人三脚の姿を撮影し、問題点を指摘され、それを修正しながら何度も何度も走り続けた。
芹が思っていたのと同じように、周囲の人から見ても咲耶様は芹が転ばないように気を使いすぎていると指摘されていた。そしてそれは相手を、つまり芹を信頼していない証だと言われた咲耶様はショックを受けた顔をし、芹に何度も謝ってきた。
相手が転ばないように気を使って慎重に動くということは、即ち相手が自分についてこれないだろうと侮っているのだと、信頼していないのだと、そう言われて咲耶様はとてもショックだったようだ。
芹は自分が咲耶の身体能力に追いつけないことを自覚している。だから面と向かってそう言われても当然そうだろうなと思うだけだった。しかし咲耶としてはそれで済ませて良いことではなかったようだ。
それからの練習は、いや、まさに咲耶様が言われた通りの特訓は過酷なものだった。時間こそ放課後の僅かな時間でしかないはずなのに、連日みっちり何度も走り、汗だくになって、芹と咲耶様の二人三脚は次第に良くなってきた。
咲耶様が近衛様にも頑張れといったのは綺麗事などではない。こうして咲耶様自身が表では一切そんな姿は見せないが、不断の努力を重ね、何事にも、それこそ『たかが運動会の二人三脚』にですら全身全霊で打ち込まれているからこそ言える言葉なのだ。
芹も最初は『たかが運動会の二人三脚』と思っていた。しかし最早そんな気持ちは微塵もない。咲耶様があの時言われた通り自分達はクラスの代表として二人三脚に出るのだ。自分達が出ることで出場を諦めた子もいるのだ。だったら……、自分達は精一杯出来ることをしなければならない。
二人はとにかく徹底的に二人三脚の特訓に明け暮れた。そして……、ついに運命の運動会の日が訪れたのだった。




