第二百十話「プライベートビーチ」
夏休みも八月に入り、父のお盆休みに合わせて家族旅行へと出掛けた。本来なら夏こそ海外へ行くチャンスなんだけど、最近は近衛家のパーティーとかのせいであまり海外に行けない。冬休みに行くこともあるけど、冬休みだとスケジュールが忙しない。
今年は母も最初から近衛家のパーティーに出る前提で予定を組んでいたので、簡単な国内旅行と最初から決まっていた。夏だから避暑地!と思いきや、今年は国内だけど南国のリゾートだ。母は暑いのはそれほど得意じゃないはずだけど、だからって毎回毎回避暑地に逃げるばかりじゃない。
プライベートジェットで南国の空港に降り立つ。さすがに暑い。同じ国内だというのに本当に南の島に来たような感覚だ。まぁ実際に緯度からすれば南国なんだけど……。この国は南北に広いから気候も様々で四季や自然が豊かで美しい。国内でもまだまだ行きたいところはたくさんあって困ってしまう。
「早く行きますよ」
「はい」
俺がキョロキョロしていると母に急かされた。母は暑そうにしている。やっぱり暑いのが苦手なんだろう。それなのにわざわざ暑い場所を選んだ辺りに母の優しさを感じる。
もし母が自分の都合だけ考えて行き先を選んでいるのなら、冬は暖かい場所、夏は涼しい場所ばかり選ぶはずだろう。だけど母は冬にもっと寒い場所に連れて行ってくれたり、夏に暑い場所に連れて行ってくれたりもする。それは偏に俺達に色々な所を経験させようとしてくれているからだ。
普段母はあまり何も言わない。でも口で言わないし態度に現さないだけで、ちゃんと子供のことも考えてくれている。きっと母は誤解を受けやすい人だろう。人にとても厳しいと思われがちだと思う。でも本人は……、人に厳しい以上に自分にも厳しい人だ。
ただあまりに……、肝心なことは何も言わないというか、あえて黙っているというか、とにかく誤解されやすい。ちゃんと言うべきことは言えばいいのに……、端的なことしか言わないから冷たいとか冷酷とか思われてしまうんだろう。昔の……、そう!武士!武士の嫁!みたいな?
九条も古い家だし、母も古いタイプの人間だ。言い訳もせず、黙って受け入れる、みたいな所がある。そしてそれを人にも求めるから誤解されるんだ。
ゲームの時はあまり登場しなかったし、まるで大きい咲耶お嬢様のような、高飛車な夫人という感じだったけど、それってやっぱり今の性格を突き詰めていけばそうなっていたのかもしれない。
今の俺の視点から見れば母は誤解されても言い訳もせず、人からの批判を甘んじて受ける人だ。その分人にも自分にも厳しい。これをゲームで主人公サイド視点で考えれば、とても高飛車で傲慢な人に見える、というのもわからなくはない。
母の性格もゲーム時よりも変わっていると思ったけど……、もしかしたら案外そう大きくは変わっていないのかもしれない。大きく変わっていることといえば母と咲耶お嬢様の関係くらいだろう。
ゲーム時は二人揃って『お~っほっほっほっ!』って高笑いしてるような感じだったけど、この世界では俺が何度も母の期待や信頼を裏切ってきたためか、あまり母娘関係がうまくいっているとは言い難い。
じゃあ……、もしかして……、伊吹もそうなのか?
俺の印象では伊吹の性格はかなり変わっている気がする。もちろん実際多少は変わっているだろう。ゲームの時に経験してきたはずの人生が捻じ曲がり、こちらの世界でしか経験したことのない人生を歩んでいるわけだから、当然ゲーム時の性格や人生経験とは違う人物になっている。
それはわかるけど、母だってそれで経験や性格が変わっているけど大きくは変わっていないのだとすれば、もしかして伊吹もゲーム時と本当はそんなに変わっていないんじゃないだろうか?
唯我独尊の孤高の俺様王子、と言えば聞こえは良いけど、誰にも相手にされないから孤高を気取っているだけのボッチのわがままお坊ちゃんと思えば……、確かに今の伊吹とゲームの俺様王子も大きくは変わっていないような気がする。
ただこっちの伊吹はアホなことをしすぎて周囲から『俺様王子』と思われてるんじゃなくて、『残念王子』と思われているだけだ。そしてそれはゲームの『俺様王子』も本質的には一緒だったとしても何もおかしくはない。
ゲームの『俺様王子』は周囲と打ち解けず、ボッチのまま過ごしていた。だからアホであることが露呈せず、孤高の一匹狼と思われて恐れられ敬われていた。
でもこちらの『残念王子』は周囲の気を引こうとアホなことを繰り返し、周囲にはアホの子であると認知されてしまった。わがままでアホだからボッチであることは変わらないけど、周囲にはその中身が知れ渡ってしまっているので『残念王子』になってしまった。
うん……。あながち間違いじゃない気がする。やっぱり人間の本質はそう大きくは変わらない。多少の人生経験や学ぶことによって考えが変わったりはするけど、本質的な生まれ持っての性質は変わらないということだ。
じゃあ……、俺は?この体はゲームの咲耶お嬢様の体……、ではない。これは俺が生まれた時から俺の体だ。咲耶お嬢様に憑依したとか乗っ取ったとか混ざったというものじゃない。間違いなく俺が生まれた時からこの体だった。
俺は一体何なんだ?何故この世界にいる?この世界の咲耶お嬢様はどうなった?もうわけがわからない。ただ一つわかるのは俺が生まれつきこの世界での九条咲耶であるということだけだ。
「咲耶、何をしているのです?行きますよ」
「あっ、はい。申し訳ありません」
母に急かされて先を急ぐ。何か……、折角の旅行の前に急に変なことを考えてしまった。今は旅行を楽しもう。
~~~~~~~
暑い……。最初のうちは暑い南国も楽しいものだけど、何日、いや、何時間もすればもう嫌になってくる。
百地流の修行もあるから耐えられるのは耐えられる。だけど耐えられるのと好むのは別問題だ。辛い料理を我慢して食べられるからといって辛い物が好きとは限らない。
「ふ~……、暑いね。咲耶、今日は海にでも行って泳ごうか?」
「え?う~ん……。そうですね……」
兄に海に誘われてしまった。折角南国に来たのだから海で泳ぐのも悪くない。前世なら喜んで海に行っていただろう。でも今生ではちょっと悩んでしまう。日にも焼けてしまうし、海はべたつく。髪や肌にも悪そうだ。海が悪いという意味だけじゃなくて、直射日光の下に長時間いるという意味も含めてだよ?
「折角のプライベートビーチだし一度くらいは行かないとここまで来た甲斐がないよ」
「そう……、ですね。それでは参りましょうか」
確かに兄の言う通り、折角南国の別荘にプライベートビーチまでついているのに、一度もビーチに行かないというのも来た甲斐がない。泳ぐかどうかはともかくビーチには行ってみようか。
母は暑いのは嫌なので別荘で涼んでいるそうだ。それならどうしてこんな暑い場所を旅行先に選んだのかと言いたくなる。もちろん毎回夏に涼しい所ばかり選んでいたら、俺達の思い出や経験が偏るからだというのは前に言った通りだけど、それでももうちょっと自分のことも考えて欲しい。
父もビーチには行かないそうなので俺と兄と椛、それから家人達を五人連れて別荘からビーチへと向かった。敷地が広いから別荘からそれなりに距離がある。もちろん歩いてすぐなんだけど、見晴らしを良くするためか別荘が少し高い位置にある。そこからビーチに下りるまで距離があるというわけだ。
別荘からは景色、海の眺めが良いように設計されている。だから下にあり、木々に隠れたプライベートビーチは見え難い。そのため現地に来るまで気付かなかった。まさかこんなことになっているとは……。
「ぎゃははっ!マジかよ!」
「ウェーイ!」
「あそれ、イッキ!イッキ!イッキ!」
どこから入り込んだのか、茶髪など髪を染めたりしたチャラい男達と、ケバい化粧をしたアホそうな女達がうちのプライベートビーチで大騒ぎしている。
「はぁ……。折角来たのに残念なことになってるね。ごめんね咲耶」
「お兄様が謝られることではありませんよ」
別に良実君に落ち度があるわけじゃない。人様の敷地内に勝手に入り込んで騒いでいる馬鹿が悪い。しかもうちの周りはちゃんと囲われている。どこかから不法侵入したとしても、柵や壁を壊して侵入した可能性もある。
「お?何だガキども。見てんじゃねぇよ!向こうへ行け!ここは俺達が見つけたんだ!」
「あのガキ私達のことエロい目で見てなぁい?きもーい!」
「これだからどーてーはよー」
「ぎゃははっ!」
うわぁ……。何ていうかもう色々とうわぁ……。世の中には本当にこういう馬鹿がいるから笑えない。
「ここはうちの私有地内ですよ?どこから侵入されたんですか?出て行かないのなら警察を呼びますよ?」
良実君……、あれだけ挑発されたのに冷静だな……。俺だったらぶち切れているかもしれない。
「はぁ?しゆーちってなんですかー?ここは俺達が見つけたんだよ!あとから来て割り込もうとすんじゃねぇよ!失せないならちょっと泣かしちゃうよ?」
話にならない……。日本語が理解出来ないのだろうか……。それでも兄は根気強くこの馬鹿共と話をしていた。兄が話しているから家人達は黙っているけど、明らかにこの馬鹿共に怒り心頭なのがわかる。もし今家人達の手綱を放したら、この馬鹿共は数日後にはコンクリを抱いて大海溝にダイブしているかもしれない。
「ちっ!うるせぇなぁ!いい加減にしろやクソガキが!」
「黙って聞いてりゃごちゃごちゃと!やっちまうぞこら!」
「ひひっ!そっちのお姉さんだけ残ってもいいぜ!俺達の相手をしてもらうからな!」
…………よし、こいつら殺そう。
こいつらよりにもよって椛にゲスい妄想を向けて、ここに残って自分達の相手をしろなんてほざきやがった。椛は俺の大切な人だ。こんなクズどもの相手なんて考えただけでも反吐が出る。
「しね!クソガキ!」
「お兄様!?」
俺が少し他の奴らに気を取られている間にチャラ男の一人が兄に殴りかかっていた。しかもビール瓶で……。素手でも最低なのに中学生相手に凶器まで使うなんてクズすぎる。兄を助けに行こうと思ったけど、兄はこちらに手を出してニヤリと笑っていた。
「大丈夫だよ咲耶」
「世の中ってもんを思い知れクソガキ!」
兄がフワリとビール瓶で殴ってくる相手の手を掴み、クルンと回すと男は頭から砂浜に突き刺さった。一種の合気道のようなものだ。流派とかそんなことはわからない。柔術の一つなのか合気道なのか、何かはわからないけど、兄も格闘技でかなりの腕前を持っていたらしい。
「こっ、このクソガキが!」
それを見て何人かが兄に殺到していく。でも兄がポンポンと男達を投げ飛ばしていた。ただ投げ飛ばすだけなんて兄は優しい。俺ならただじゃ済まさないところだ。
「ちぃ!女を狙え!」
「ぐへへっ!お姉さん、抵抗したらどうなるかわからないぜ!」
こちらにも馬鹿が寄ってくる。どうやら椛と俺が狙いのようだ。家人達の目が完全にヤバイことになっている。ゴーを出したらこいつら本当に死ぬな……。兄が自分で相手をしているのもそれがわかっているからだろう。
「ほーら!つかまえ……」
「馬鹿ですか?あぁ、言うまでもなく馬鹿でしたね……」
「ぎゃーっ!いでででっ!」
椛に伸ばそうとした手を掴んで捻りあげる。何も腕力だけが物を言うわけじゃない。掴み方や捻り方でいくらでも腕力の強い相手でも封じることは出来る。それに……、こいつらチャラいし体が細いから力も大して強くない。本当に見た目がチャラいだけの馬鹿だ。これなら師匠の方がずっと力も強い。
「このメスガキが!」
「はぁ……」
ゴキンッ
「ぎゃーーーっ!」
最初に掴んだ男の腕を外して、次にかかってきた男の足を……、外す。本当は膝を逆にへし折ってやろうかと思ったけど、向こうの女共が撮影しているのに気付いたから手を抜いておいた。
あっという間に男達は全員呻き声を上げてる状況になったけど……。
「あんたたちそこまでだよ!今全部スマホで録画してやったからな!これをネットにアップしたらどうなると思う?あんたらもうおしまいだよ!許してほしかったらいしゃりょー払いな!」
本当に馬鹿だな……。脳みそスッカラカンなんだろうな……。こんな奴現実にいるわけないと思ってたけど、最近こういう馬鹿が割と増えているんだから笑えない。
「そうですか。それではこちらも今までの映像全てを公開しましょう。貴方がたの名前も、住所も、今行なった悪行も全て……」
「はっ!何いってんの?こっちはもう撮影したんだよ!これを前後を切って、あんたらが暴力をふるってるところだけネットに流せばこっちの勝ちなんだからね!しょーこも持ってないあんたらが何を言ったって無駄なんだよ!わかったらいしゃりょーはらえ!」
本当に……、本気で言ってるんだろうなぁ……。
「ここは九条家の敷地内でありプライベートビーチです。貴方がたが当家の柵を壊し不法侵入している映像も、今ここでそちらから襲いかかってきた映像も全て録画されております。それでは直ちに警察を呼び、貴方がたの言われる証拠と、当家の証拠、全て提出した上で然るべき場所で判断していただきましょうか」
「……え?」
何か段々女達がヒソヒソやり始めた。分が悪いと気付いたんだろう。でも逃げられるわけがない。
「えっと~……、わたしたちぃ、その男達にむりやり連れてこられてぇ……、関係ないんでぇ……、さよなら!」
「逃げられるわけないでしょう?」
「ひぃっ!」
男達を見捨てて逃げようとした女達だけど、応援にやってきた家人達と警察に囲まれて逃げ場はなくなった。不法侵入に器物損壊、さらにこちらに暴力を揮おうとした証拠は全て揃っている。課せられた罪は大したものじゃない。弁償する金額も微々たるものだ。でもそれだけで終わるわけがない。
その後、うちのプライベートビーチに侵入していた馬鹿達は、弁償などのお金を払った後、その家族も本人達も会社や学校にいられなくなった。こちらの顔や音声はモザイクされたり声を変えたりした映像が流され、馬鹿達の顔や住所は『何故か』ネットで特定されて流されていた。
当然そいつらは会社にも学校にもいられなくなり、親や家族までそこで住めなくなった。引っ越しても、どこへ行っても何故かすぐにその近くの住民達にその一家のこれまでの悪事が知れ渡り、やがてまともな所にも住めなくなったようだ。散々各地を点々としていたようだけど、その後そいつらがどうなったのかは俺は知らない。
~~~~~~~
面倒なことがあって警察も来て大変だったけど、日を改めてまたプライベートビーチへとやってきた。あの馬鹿共がゴミとかも撒き散らしていたから全て片付けるまで掃除させたけど、さらにその後家人達が何か埋まってたりしないか徹底的に掃除している。本当に迷惑な奴らだ。
「さぁ咲耶様、オイルを塗りましょう」
「あっ……、はい……」
椛が、いや、一瞬だけ前の……、椛お姉ちゃんの顔になって笑いかけてきた椛に岩陰のパラソルの下に連れて行かれる。最近はまた冷たい仮面のメイド椛だったのに、急にあんな顔をされたらドキドキしてしまう。
「それでは咲耶様、失礼しますね」
「んっ!」
ひんやり冷たい日焼け止めを塗られてくすぐったい。それに何だかゾクゾクする。
「あっ!椛!そこは痛いから自分でします!」
椛の手が俺の敏感な箇所に伸びてくる。今成長期のせいか下手に触れると痛い。自分でなら加減も出来るけど……。
「大丈夫ですよ咲耶様。さぁ……」
「んっ……、んっ……」
椛が優しく、優しく俺の体を撫で回す。冷たい日焼け止めを塗っているのに何だか火照ってくるような感じがしてしまう。
「もっ、もみじぃ……、もぅだいじょうぶですからぁ……」
「駄目です。咲耶様の綺麗なお肌に日焼けやシミが出来ては大変です」
その後散々椛に日焼け止めを塗られた俺は、真っ直ぐに椛の顔を見ることが出来ずに逃げるように海へと入ったのだった。
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散々咲耶の体に日焼け止めを塗った椛は自分の手をじっと見詰める。その手にはまだ幸せな感触が残っている。もう一生この手を洗いたくない。まぁさすがにそれは無理だとわかっている。例えば万が一にも咲耶に変なものを食べさせて食中毒でも起こさせたら大変だ。
「くふっ!くふふっ!」
走り去っていく咲耶の後姿を眺めながら、ボタボタと垂れる鼻血を拭うこともせず、いや、折角今自分の手は幸せな感触が残っているのだからまだ暫くは他のものを触ってその感触を台無しにしないように、椛は鼻血を垂れ流したまま両手をいつまでも空中に彷徨わせ、先ほどまで触っていたものを何度も反芻していたのだった。