第二百九話「椛とデート」
今日は、本当なら蕾萌会の講習がある日だ。俺の夏休みの予定は家族旅行までは蕾萌会の夏期講習と、百地流の修行で全て埋まっている。今年は他のお出掛けの予定も事前に決まらなかったし、師匠の修行が一段と厳しくなっている。暇があったら全部百地流に来いと言われているから暇な日なんてなかった。
そしてお盆前になると家族旅行に出掛けて、旅行から帰って来たら近衛家のパーティーだ。それが終わったら夏期講習の後半に入って、また蕾萌会と百地流の修行尽くしの日々となる。
椛は俺とお出掛けしたいと言っていたけど今の予定を聞いてわかる通りそんな暇はどこにもない。だったらどうするのか?答えは考えるまでもなく、蕾萌会の課題を前倒しで終わらせて一日余裕を作り、その日は蕾萌会へ行くフリをして椛とお出掛けしようということになった。
今日がまさにその椛とお出掛けする日であり、俺は一度蕾萌会へと車で送られる。蕾萌会で菖蒲先生と会って、軽く塾内でもアリバイ作りをしてから抜け出す予定になっていた。
「咲耶ちゃん、本当に大丈夫?」
「はい。ありがとうございます。菖蒲先生にまでご迷惑をおかけして申し訳ありません」
適当に蕾萌会で時間を潰しつつアリバイを作りながら菖蒲先生と話をする。もし俺達が喫茶店に行ってサボっていたことが母の耳に入ったら、俺が蕾萌会を辞めさせられるだけじゃなくて、菖蒲先生も講師をクビになる可能性が高い。講師が授業時間中に生徒を連れ回していたなんてことがバレたら塾の信用にも関わる。最悪の場合は訴訟だって有り得るだろう。
「いいえ、私の方こそごめんなさい。少し迂闊だったわ」
「お互い……、少し浅慮でしたね……」
確かに塾内ではアリバイをうまく作っていた。時々出て行く生徒や講師もいるし、いちいち誰も人のことまで気にしていない。ある程度課題や授業をして成果を挙げていれば誰も何も言わないのが塾だ。だからちょっと油断があった。
塾からすればちゃんと決められた課題を決められた時間内にやらせていればよかっただろう。でも椛が言うように、子供を預けている親からすれば時間内に課題が終わったら後は遊ばせています、なんて言われても誰も納得しない。
時間や日数に対して料金を支払っているのであって、一か月分の月謝を払っているのに一日で課題が終わったから後は知りませんでは通らない。俺や菖蒲先生の考えが少し甘すぎた。
「それでは……、そろそろ時間ですので……」
「ええ。こちらは任せておいて」
二人ともいなければ誤魔化しようもないけど、今日は俺が抜け出して菖蒲先生は残る。菖蒲先生がうまく誤魔化してくれるなら大丈夫だろう。それに課題もきちんと終わらせている。塾側としては課題さえ終わっていればあまりとやかくも言わないから誤魔化しやすい。
後のことは菖蒲先生に任せて俺は蕾萌会から抜け出した。向かう先は椛と待ち合わせをしている場所だ。ここから歩いてそれほど遠くない場所にお店が並んでいる一画がある。そこそこの住宅街の先にそれに見合うようなお店が並んだ場所があるのは当然だろう。
緋桐さんや友康達が住んでいる住宅街は、世間一般的に言えばそれなりの高級住宅街になる。俺の周りにいるような皆はちょっと普通じゃないから比べてはいけない。そういう高級住宅街から少し行った先に、そういう住宅街に住む人をターゲットにした店があるのは当たり前だ。
そういうお店がある辺りで椛と待ち合わせをしている。待ち合わせ場所付近に来てみればそこには……。
「あっ!咲耶様!」
「もっ、椛……?」
待ち合わせ場所で……、小さく手を振っている美女がいた。誰だあれは?いつものエプロンドレスに氷のような冷たい表情を貼り付けた椛ではなく、うっすらお化粧をしている美人なお姉さんが俺に向かって手を振っている。
「ほっ、本当に椛ですか?」
あまりに普段とイメージが違いすぎて本当に本人なのか確証が得られない。違いますと言われたら納得してしまいそうだ。いつもの氷のような態度の椛に慣れ切ってしまっているからあまりのギャップが理解出来ない。にっこり笑っているこの人は誰だ……。
「何かおかしいでしょうか?」
そう言いながら椛らしき人はスカートの裾を摘んで後ろや横を確認していた。俺があまりに失礼な態度だったから何か変なのかと思ってしまったのかもしれない。
「いっ、いえ……、変ではないのですが……、あまりに普段の椛と違いすぎたので驚いただけです……」
慌てて説明する。こんな綺麗なお姉さんが相手だと思うとドキドキしてしまって、いつもの椛を相手にするように出来ない。
「咲耶様……、いいえ、咲耶ちゃん。今日だけは私は咲耶ちゃんって呼ぶから、咲耶ちゃんは私のことを椛お姉ちゃんって呼んで欲しいな」
「えっ!?」
少しだけ屈んで、椛が俺に視線を合わせるようにしながらそんなことを言ってくる。本当にこれは誰だ?本当に椛なのか?違う、別人だ、と言われても納得してしまう。何か……、俺……、凄くドキドキして……。
「駄目かな?」
「いっ、いいえ!駄目だなんてことはありません!わっ、私のことは咲耶ちゃんと呼んでいただいて良いです……、もっ、椛……、お姉ちゃん……」
何とか……、その言葉を口に出来た。とても恥ずかしい。今まで人に向かってお姉ちゃんとかお姉さんとか言った記憶があまりない。いや、まったく?わからないけど……、慣れない言葉で、しかもこんな綺麗なお姉さんにそう言っているのかと思うとドキドキが止まらない。
「本当?ありがとう咲耶ちゃん。それじゃ行きましょう?」
「ぁっ……、はい……」
椛に手を握られて、緊張で俯いてしまう。きっと今俺の顔を見たら赤くなっていることだろう。ただ椛と手を繋いで歩いているだけのはずなのに……、凄く緊張してドキドキしている。何なんだろうこれは……。椛ってこんなに……、素敵なお姉さんだったのか……。
「まずはお店を見ていきましょうか。咲耶ちゃんはどこか見たいお店はある?」
「はい……。いえ……、この辺りのお店は良く知らないので……、椛お姉ちゃんにお任せしたいのですが良いですか?」
俺は普段こんな所に来ない。普段俺が出向く店といえばオーダーメイドの高級店とかくらいだ。それ以外の物ならわざわざ俺が出向くことは少ない。メイド達はよく採寸して俺の寸法を知っているから、俺が直接出向かなくてもピッタリの物を用意してくれる。
オーダーメイドでも俺が出向かなくても寸法を伝えれば頼めるけど、そこは一応俺も出向いて向こうで採寸してもらったり、柄やデザインを話したりしている。
お店に出向くのも稀で、しかもそれも超高級店ばかりだ。こういう庶民的……、は、失礼か。前世で言えば高級店だったんだろうけど、今生で言えば庶民的なこういうお店に来るのは誰かとお出掛けした時くらいしかない。しかもこの場所には今まで来たこともない。知らない町の知らない店を見て回るのに行きたい場所とか言われてわかるわけがないだろう。
「それじゃ私が行き先を決めるわね。まずはこっちへ行きましょう」
椛に手を引かれるまま、あっちの店に行き、こっちの店に行き、普通の服をこう……、体に当ててみたり……、普通の……、前世で想像していたような普通のお買い物……、デートをしているみたいな感じだった。いや、これこそが普通のデートなんだろう。俺達同性だけど……。
「咲耶ちゃんにはこういう服も似合うと思うんだけどなぁ……」
「あっ、こういうのも嫌いではないですよ。可愛いと思います。私に似合うかどうかはともかく……」
椛が俺の体に当てたのはちょっとフリフリの感じの可愛らしい服だった。でもこれは……、ちょっとロリータ系っぽい?気のせいか?
確かにこういうのも嫌いじゃないし可愛いと思う。でも俺には似合わないんじゃないかな。俺って基本的に悪役令嬢だし……。
「ん~……、それじゃあ……、お姉さんと一緒に試着してみようか?」
「……え?」
椛は何を言っているんだ?一緒に試着?普通の店の狭い試着室に二人で一緒に入るということか?それとも……、まさか二人で一着を着るということか?頭が混乱していて考えがまとまらない。
「私は~……、これね。咲耶ちゃんはそれを試着してみて。一緒にお互いの試着姿を見れば恥ずかしくないよ」
「あっ……、ああっ……、そっ、そういう……。それはそうですよね……」
俺は一体何を考えていたというのか。普通に考えてお互いに試着して品評し合おうということだろう。何でそんな当たり前のことに頭が回らなかったのか。今日は完全に椛に翻弄されてしまっている。
「じゃあ咲耶ちゃんはそっちね」
「あっ!?」
俺がやるとも言ってないのに椛は隣の試着室を指差してから中に入ってしまった。店員さんもニコニコしながらこちらを見ているし、今更俺だけ着ませんとは言えない雰囲気だ。止むを得ないので渋々試着室に入って着替える。
ゴスロリだと変なところにベルトとかがあったりして、着方がわからないとどうやって着ればいいのかもわからないけど、普通のロリータファッション、あるいは甘ロリはそんなに複雑じゃない。まぁゴスロリも複雑なわけじゃないんだけど、意味もないファスナーとかベルトとかがついていて、どうやって着ればいいか迷ってしまう。
仕方がないので椛の隣の試着室に入って着替えるけど……、隣からシュルシュルと衣擦れの音がして妙に艶かしい。色々といけない妄想をしてしまって……、試着室の鏡に映っている俺の顔は真っ赤だった。それを見てますます恥ずかしくなってしまう。
「どう?咲耶ちゃん。着替え終わった?」
「はい……」
暫くして着替え終わると椛に声をかけられた。いつまでも試着室に篭っているわけにもいかないので諦めて出る。
「わぁ!やっぱり咲耶ちゃんには良く似合っているわ!」
「とってもお似合いですよ」
オーバーなくらい褒めてくる椛と、たぶん営業のためだろうけどニッコリそう言ってくる店員さんに褒められて余計恥ずかしくなる。
「椛お姉ちゃんも……、とても可愛いですよ」
椛も一緒になって着替えたから甘ロリファッションになっている。最初は綺麗なお姉さんだと思ったけど、こういう格好をすると年齢よりも幼く見える。可愛い少女でも通用しそうだ。
「ありがとう。でも咲耶ちゃんの方が良く似合っているわ。……それじゃこれとこれ買っていきましょうか」
「え?でも私は……」
そう言われて思い出した。俺はデートだって言われてたのにお金の一つも持ってきていない。いつもお付き任せでカード払いとかだったからお金を支払うということすら忘れていた。
「大丈夫大丈夫。お姉さんが払っておくから。すみません。これとこれ買います。このまま着ていくのでタグを切ってください」
「かしこまりました」
「えっ!?」
着て行く?もしかして今日のデートはこの格好で行くっていうのか?椛は似合っていて可愛いからいいけど、俺なんかがこんな格好をしていても不気味なだけだろう。
「さぁ行きましょう咲耶ちゃん」
「あっ!ちょっ!?」
結局椛に押し切られて甘ロリのまま残りの店を見ていく。ファストフードを食べたり、アイスやクレープを食べたり、お店を見て回って、他にも服を買ったり、小物を買ったり……。
デートだ……。これは完璧にデートだ。それも俺が憧れるような普通の、庶民的な、前世のような普通のデートだ。
俺達の界隈だったら小学生のデートでもクルーザーでパーティーをして、ヘリで夜景を楽しみ、高級レストランで食事をして帰る、なんていうのが当たり前になっている。
俺からしたらそんなものはデートじゃない。いや、そりゃ大人の庶民でもたまにはそういうデートもあるだろう。でもそうじゃなくて……、若い学生のカップルがお金もなく、手を繋いで若者の町をブラブラ歩くだけ……。そんなデートがしたいんだ。今日それが叶ってしまった。しかも相手はとても綺麗で可愛いお姉さんだ。
何だろうこの胸の高鳴りは……。
そう言えば最初の頃も椛には何だか素敵なお姉さんみたいな印象を抱いてドキドキしていたものだ。いつしかその感覚は薄れて、最近ではちょっと怖くて残念なメイドさんみたいになってきていたけど、今日はまるでその初心を思い出したかのような気がする。
日も暮れてきて、お店が並ぶ一画も見て回り、はずれにある公園で二人で並んでベンチに座る。何かこう……、甘酸っぱいような……、前世を思い出すような……、椛に対して胸がキュンキュンするのが止まらない。
「咲耶ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう」
「あっ……」
そっと……、椛に抱き寄せられて……、俺の鼓動が跳ね上がる。椛の大きく柔らかい胸が押し付けられて、残念ながらその厚く柔らかい感触のために椛の鼓動はわからない。いや、本当は椛の鼓動も伝わってきているのかもしれないけど、俺自身の鼓動があまりに激しすぎて相手の鼓動がわからないだけなんだろうか。
「椛お姉ちゃん……」
俺はされるがままに椛に身を委ねてしまっていた。今何をされても抵抗も出来ないだろう。でも椛は優しく俺を包み込んでくれるだけで無理やり何かをしようなんて迫ってくることはない。
もしかしたら俺は椛のことを誤解していたのかもしれない。椛はただこうして俺のことを見守ってくれていただけなのに、何か変態のように勘違いしてしまっていたんじゃないだろうか。それでも椛は怒ることなく俺を見守り続けてくれている。とても……、良いお姉さんじゃないか……。
「脅すようなことをしてしまってごめんなさい。こうでもしないと咲耶ちゃんとこうして遊ぶことも出来ないと思ったから……。本当にごめんなさい」
「いいえ……、いいえ!私こそごめんなさい……。私はずっと椛お姉ちゃんのことを誤解していました……」
俺もキュッと椛を抱き返す。そこからどれくらいそうしていただろうか。お互いにただ相手の温もりを感じ合って……、やがて離れる。
「もう時間ね……。そろそろ戻らないとまずいわ。……それでは咲耶様、本日はありがとうございました。この椛、今日のことを一生の思い出として胸に仕舞っておきます。それではまた後ほど」
「あっ……」
俺から離れた椛は……、先ほどまでの優しくて綺麗な椛お姉ちゃんではなく、いつもの氷のような面を被ったメイドの椛に戻っていた。綺麗にお辞儀して去っていく椛を……、俺は止めることが出来なかった。
「椛……、…………って、あっ!着替えっ!?」
やばい!立ち去る椛を見送ったのはいいけど俺まだ甘ロリファッションなんですけど!?これで家に帰ったらすぐに母におかしいってバレるだろ!?どうすんのこれ!?
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暗くなり始めた公園を歩く女性……。その女性を見た対面からやってきた人々は全員道を空けて端に寄っていた。それはそうだろう。何故ならば……。
「くふっ!くふふっ!」
女性は妙な含み笑いをして……、鼻から血を垂れ流しがなら拭うこともせずに歩いていた。ポタポタと鼻血が落ちることも気にせず、一人ニヤニヤと不気味に笑いながら歩いているのだ。そんな姿を見かけたら誰でも避けて通るだろう。
「今日の手応えは十分!これは……、咲耶様が私に惚れるのも時間の問題ですね!あ~っはっはっはっ!」
高笑いし出した女性に恐れをなして、周囲の人間は慌ててその場を立ち去ったのだった。