第二百一話「さよならグランデ」
今朝から早速朝練に向かう。朝練開始は六時からだ。七時半までの一時間半の朝練となっている。七時半に終えると道場にあるシャワー室で汗を流し、椛に手伝ってもらって着替えと準備を済ませる。
家を出る前にする準備は道場で修業をするのに向いた格好や準備だ。修行が終わると着ていた下着なども汗だくになるので道場でシャワーのついでに着替える。そこからは学園用の準備を椛にしてもらう。
六時には道場で修業を開始出来るように家を出るのだから当然兄とは別々だ。道場から学園に向かう時も別となる。道場は学園からそんなに遠くないけど、わざわざ兄の車で俺を迎えに来ていたら多少なりとも遠回りになる。それに七時半に修行を終えて、準備をしてから学園に向かえば時間も遅くなってしまうからな。
今までよりも少し遅い時間に学園に到着する。もちろん十分間に合う時間だし遅いということはない。今回が初めてだったから、これから毎回この時間になるかどうかはわからないけど、ざっと八時くらいには学園に着くようだ。
「御機嫌よう」
「あっ、おはようございます九条さん。その……、今朝は少し遅かったですね」
教室に入って挨拶をすると芹ちゃんが話しかけてくれた。兄が中等科に上がってからは七時四十分台には学園に来ていた。日によって道路事情とかも変わるから毎回同じではないけど、大体それくらいだった。平均は四十五分前後というところだろうか。それが今日は八時頃なら遅いと言われるのは当然だろう。
「はい。少し朝の予定が変わりまして……、これからは大体このくらいの時間に登校してくることになるかと思います」
「そうですか……」
芹ちゃんがちょっと寂しそうな顔をした。俺が朝来るのが遅いと寂しいとか?まぁそれはないか。来てもこうして挨拶をした時に少し話をするくらいで、普段はそれぞれの席に着いて始業を待っているばかりだ。ずっとおしゃべりしているのならおしゃべりの時間が減るのが悲しいとなるかもしれないけど、しゃべってるわけじゃないからな。
「それではまた後ほど」
「はい」
いつもより時間が遅いからクラスメイト達もチラホラ来ている。いつまでも芹ちゃんの席の前で立ち話をしていたら邪魔になってしまうので、俺も自分の席に着いて朝の準備を始めたのだった。
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元々グランデに通う日数はかなり少なめになっていた。今日はようやくグランデに行く日だ。今日まで師匠に言われる通り朝練もちゃんと行くようになったし、夕方の修行の終わる時間も遅くなった。夕方の終わる時間は絶対何時と決まっているわけじゃない。その日の修行内容なども含めて師匠が考えているようだ。
師匠が言うには、何時間もダラダラやれば良いというわけじゃない修行の時はある程度で切り上げているらしい。逆に持久力や集中力を鍛えるためにはあえて長時間させたりするようだ。今まではその『あえて長時間させる』という時間が足りなかったようなので、今のように多少遅くまで修行を出来るようになったのはかなり良いらしい。
それはともかくとうとうグランデに到着してしまった。お別れの挨拶をするというのはとても緊張する。まずは受付で退会手続きを行なった。一応今月分の料金は払っているから今月中はこのまま来ても良いらしい。でも百地流の修行があるから来ている暇はないな。
それに今日で終わろうと思って来たのに、またズルズル来てマダム達や古堀先生と会っていると決心が鈍ってしまう。今日できちんと挨拶をしてきっぱり終わらせてしまおう。その方が俺の精神的にも良いだろう。
「御機嫌よう皆様」
「まぁ、咲耶ちゃん」
「いらっしゃい、さぁこっちへどうぞ」
更衣室に入るとマダム達がいつものように迎えてくれた。ここは色々な意味で俺を甘やかしてくれた場所だ。マダム達と一緒に食べたおやつやお菓子。皆が俺に構ってくれて、まるで孫を可愛がるお婆ちゃんに囲まれているかのようだった。俺が辛い時も、大変な時も、ここのマダム達だけはずっと俺の味方でいてくれた。
三年半以上も通った思い出の場所……。でもいつまでもこの環境に甘えているわけにもいかない。
「実は……、私は今日でグランデを退会します。皆様、今まで私によくしてくださって本当にありがとうございました」
「「「…………」」」
俺が頭を下げて挨拶をしても言葉が返ってこない。頭を下げているからマダム達がどんな顔をしているかわからないのがとても怖い。もしかしたら俺を裏切り者のように見ているかもしれない。そう思うと顔を上げるのが怖い。
「顔を上げて、咲耶ちゃん」
「…………え?」
肩に手を置かれて、顔を上げてみれば、マダム達は優しい笑顔をしていた。罵るでも責めるでもなく、とても穏やかな笑顔だ。
「咲耶ちゃんは次のステップに進むのよね。それなら私達は笑顔で咲耶ちゃんを見送らなくちゃ」
「そうそう。本当ならもうとっくに咲耶ちゃんは先へ進んでるものと思ったもの」
「それなのにまだここに残ってくれていたのは私達のためかしら?」
「皆様……」
マダム達は……、温かい笑顔で俺を送り出そうとしてくれている。だから俺も笑顔で応えなければ……。皆の温かい気持ちに応えなければ……。
「何があっても私達は咲耶ちゃんの味方よ」
「何かあったらいつでも相談に来ていいのよ」
「私達で力になれることなら手を貸すわ」
「あっ……、ありがとう……、ございます……」
ここは何て温かい所なんだろう。学園のグループの皆と同じくらい……、ここも俺にとって大切で温かい場所だったんだな……。
「さぁさ!それじゃ古堀先生にもご挨拶しなきゃね!」
「きっと古堀先生がっかりするわよ!」
「可愛い咲耶ちゃんがいなくなって私達のようなおばちゃんばかり相手にしなければならなくなるものね!」
「「「おほほほっ!」」」
「ふふっ」
マダム達があえておどけてそんなことを言う。湿っぽい別れはいらない。それにこれからもう二度と会えないわけじゃない。ここのマダム達は上流階級の人ばかりだからそのうちパーティーとかで顔を合わせることもあるだろう。だから……、これで終わりじゃない。
「それでは古堀先生にもご挨拶してきますね」
「「「いってらっしゃい」」」
笑顔のマダム達に送り出されて古堀先生の所へと向かう。今日は水着に着替えていないからかすれ違う人達も何となくこちらを見ている気がする。
「古堀先生」
「やぁ、咲耶ちゃん、どうしたんだい?着替えていないようだけど……、あっ!まさかどこか怪我をしたとか?」
いつもなら水着に着替えて水泳なのに、今日は学園の制服のまま入ってきたから驚いたらしい。俺が怪我で泳げないのかと思って慌てている。
「いえ、怪我はしておりません。実は本日でグランデを退会します。それで最後に今までお世話になった古堀先生にもご挨拶をしようと思ってまいりました」
「……あ、ああ。そうなんだ。そっか……。怪我じゃないならよかった。それで退会って、もしかして本格的に水泳を始めるのかな?今からでも咲耶ちゃんならきっと世界も狙えるよ」
俺が怪我じゃないと言うと安心したような顔をしてくれた。退会して出て行くのを裏切りとは思わず、心から俺を心配してくれている。
「世界はオーバーですよ。私より優れた才能をお持ちの方はたくさんおられますから。水泳もやめるわけではありませんが私は私なりの道で頑張っていきたいと思います」
俺がオリンピック選手になるとか世界水泳に出場するなんて姿は想像も出来ない。それにそういうトップ選手っていうのは、俺よりも才能のある子達が集まっている中でもさらに飛び抜けた才能を持ったような子達だろう。俺のように片手間で体作りや体力作りの一環として趣味でやっている者とは鍛え方が違う。
「そうかぁ……。きっと咲耶ちゃんなら素晴らしい選手になれると思うけどなぁ……。まぁ水泳もやめないようだし、いつか気が向いたらそちらに進んでみるのも選択肢の一つだということは覚えておくと良いよ。これから進む道というのがどんなものかはわからないけど、そちらでも頑張って!」
「はい。ありがとうございます」
古堀先生も笑顔で俺を送り出してくれた。今頃になって思う。本当に俺は恵まれた環境にいたんだな。学園では色々と大変なこともあって、咲耶お嬢様の人生なんて大変だと思ってたけど……、それ以上に素晴らしい人に出会い、支えられていたんだと今更気がついた。
確かに俺はこれでグランデを退会するけど、それでこの縁が終わりというわけじゃない。一度出来た縁は一生、いや、多生になっても終わりはしない。袖振り合うも多生の縁……。
いつか……、俺も……、ここでもらったような温かい心を、次の誰かに与えてあげられるような者になりたい。
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古堀先生との挨拶も終わって、ロッカーに戻って私物を整理した。水着とか着替えとか、置いていた物を全て撤去して空にする。最後にもう一度マダム達と挨拶をしてから帰りの車に乗り込んだ。
この三年半ほどの思い出が蘇ってくる。まぁ特に何か劇的なことがあったわけじゃないけど……、ここだけはいつも平穏な日常があった。学園で大変な時も、テレビや雑誌に出て騒がれていた時も、ここだけはいつも平穏だった……。
「咲耶様、荷物をお預かりいたします」
「え?ああ、ありがとう」
今日は助手席じゃなくて後ろに座っている椛に荷物を渡す。普通なら荷物を取りに行く時から家人やメイドさんが持って行ってくれる所なんだろうけど、今日は俺が全て一人で行った。思い出のロッカーの片付けや荷物の撤去は俺が最後まで一人でやりたかったからな。
「……あれ?向かってる方角が違いませんか?」
窓の外を見てみれば、自宅と違う方角に進んでいるようにしか思えなかった。いつもはこんな時間にこんな場所を走っていないから渋滞を避けて遠回りしている……、ってこともないだろう。明らかに向かってる方向がおかしい。
「百地流道場へ向かっております」
「なぁんだ。そうでしたか。って、えっ!?どっ、どうしてですか?」
サラッと椛がとんでもないことを言い出した。何故百地流の道場へと向かっているというのか。今日は師匠にもグランデの退会の日だからと言っておいたはずだ。
「グランデでは何もトレーニングを行なっておりませんのでまだ十分早い時間です。百地様も多少遅くなっても良いので道場へ来るようにとおっしゃられておりました」
え?本当に?俺はそんなことを聞いていないぞ?え?え?本当に今から道場で修業するの?俺はもう完全に家に帰るつもりだったんだけど……。
「私はそのようなお話は聞いておりませんが……」
「百地様は早めに退会や挨拶が終われば、とおっしゃられておりました。もしそれを咲耶様にお伝えしたならば余計な時間を稼いで道場に来ない可能性があるので、何も知らせず自然にかかる時間で判断するようにと仰せつかっております」
なっ、何だって~っ!つまり師匠は俺が自然に挨拶したり退会手続きをして、それでも時間が余るようなら道場に来るように椛に言っていたと?そして俺はあっさり手続きや挨拶を済ませてしまった。まだ今から道場に行っても、最近の夜の終わる時間が遅くなった状態なら十分に修行する時間がある。
「椛は師匠と私のどちらに仕えているのですか!?」
「私がお仕えしているのは咲耶様です。ですがその咲耶様のためになるのならば心を鬼にしてでも咲耶様のためになることをお手伝いいたします。それともあの時泣いておられたことや、百地様に頭を下げておられた気持ちはその程度だったのでしょうか?」
「うっ……」
それを言われると辛い。もちろんあの時の気持ちに嘘はない。師匠にやめろと言われてショックだったし、石にかじりついてでも絶対にやめたくないと思った。そのために今日グランデを辞めてきたんだ。
でも……、今日はとても修行を頑張ろうという気持ちにはなれない。それこそ中途半端な気持ちで道場に行くくらいなら、今日はゆっくり休んで、明日からまた頑張った方が良いんじゃないだろうか?まぁそれは俺の言い訳なだけで、今からでも気持ちを切り替えて頑張れば良いだけなんだけどな。
「もう百地様にもご連絡差し上げておりますので諦めてください」
「はい……」
椛がそこまで手を回しているのならもう仕方がない。完全に帰ってゆっくり休む気持ちになっていたけど、今からでも気持ちを切り替えて頑張らないと、今度こそ本当に師匠に見捨てられてしまうからな。