第二百話「復帰するために……」
翌朝、さっそく新しい下着が用意されていた。これは……、スポーツブラとかいうやつだろうか?カップ付ハーフトップというものかもしれない。今まであまり考えていなくて興味もなかったから詳しいことはわからない。それに俺はいつも用意されている物を着ているだけだから名前とか詳しい分類はわからない。
とりあえず昨晩の話の後に母がすぐに用意してくれたものだ。それなら俺はありがたくそれを使わせてもらうだけであり、名前がどうとか、分類がどうとかはどうでもいい。椛が来る前に手早く下着を着替えた俺が学園の制服を着ていると途中で椛がやってきた。
「おはようございます、咲耶様」
「おはよう椛」
俺がもう制服に着替えかけていたというのに、椛は特に何か言うこともなくそのまま近寄ってきて着替えを手伝ってくれた。母は何か椛に警戒するようなことを言っていたけど、案外母の気にしすぎだったんじゃないだろうか。今も別に椛はいつも通り普通だし何てことはない。
まぁ……、でも椛の部屋もちょっとアレだったし、俺も多少なりとも警戒心は持ってしまう。俺のポスターを独自に作ってたり、使用済みの下着をあれだけ溜め込んでいたんだからちょっと普通じゃないのは本当だろう。椛も悪い子じゃないんだけどそういう所はちょっと怖い。
ともかく着替えが済んだ俺はいつも通りに朝の準備を済ませて学園へと向かった。服の中はいつもと違って新しい下着を身に付けているけど、それさえ言わなければ結局何も変わらない。
俺が百地流をやめろと言われてショックを受けていようとも、第二次性徴で胸が膨らんできていようとも、世界は何一つ変わらない。ただいつも通りに日常が流れていくだけだ。世界に比べたら俺一人の悩みなんてあろうがなかろうが何の影響もない。
「御機嫌よう」
「おはようございます九条さん」
教室に入って芹ちゃんと簡単に挨拶を交わしてから席に着く。今日の帰りは百地流だ……。まだ先だというのにもう今から緊張してしまう。何とか気持ちを落ち着けてまずは今日一日を乗り切らなくては……。
~~~~~~~
一日中ソワソワしながら授業を受けた俺はサロンも少し早めに切り上げて道場へと向かった。この時間ならもう師匠は絶対にいるはずだ。もちろん俺を破門にした後だからもう道場で待ってくれていないという可能性もあるけど……。
「師匠っ!」
「…………」
着替えもせずに俺は道場に着くなり扉を開けて中へと入って行った。師匠はいつもの上座に座って目を瞑っている。俺の声が聞こえていないわけはないだろうけど、いつもと違って黙ったまま無視しているようだ。それでも俺は師匠の前まで行って頭を下げる。
「師匠!私が愚かでした!少し私生活がうまくいっているからと調子に乗り、修行もこなれてきたと思って一生懸命になっておりませんでした!私は百地流をやめたくありません!どうかもう一度私にチャンスをください!」
「…………」
俺が頭を下げても師匠は何も言わない。それでも俺にはこうすることしか出来ない。とにかく師匠に許しを乞うて破門を解いてもらう以外にはないんだ。
「師匠!」
「……ふむ。ならば……、その言葉を行動で示してもらおう」
「行動……、とは?」
ようやく師匠が重い口を開いてくれた。ただ言っていることの意味はよくわからない。行動で示せとは俺がこれから一生懸命修行に励めということだろうか?それならこれからの俺の修行をよく見てもらえば……。
「他の習い事は全て辞め、毎日百地流の修行に励め。それから家に帰るのもやめて住み込め。内弟子となり朝も修行、帰ってからも修行だ。さすがに義務教育だから学校は許してやる。それ以外は全て百地流の修行に打ち込め」
「それは……」
そんなことをこの場で俺一人で『はい』と言うことは出来ない。というよりそもそも無理だ。他の習い事を辞めるのも難しいけど、何より難しいのは俺がここに住みこんで内弟子になるということ。そんなこと絶対に許されるわけがない。
「『それは』?」
「私一人で決めることは出来ません……」
正直に答える。この場で上面だけ取り繕って『はい』と言うのは簡単だ。でもそれが出来なかった時、師匠はより深い失望を覚えて今度こそ本当に俺は放り出されてしまうだろう。それならば上辺だけで嘘をつかずに正直に答えるべきだろう。
「修行を頑張ると言いながらこの程度も出来ないのか?それでは所詮はその程度の気持ちと……」
「違います!私は……、師匠に何と言われようとも、例え見捨てられようとも百地流を諦めるつもりはありません!ですが私を育ててくれているのは師匠だけではないのです!両親も、他の習い事の先生達も、皆さんが私を育ててくれているのです!それを今この場だけでそのような約束は出来ません!」
「…………」
師匠は再び目を瞑って黙り込んでしまった。それじゃもういらないと言われるんだろうか。そう言われても、石にかじりついてでも俺は黙って追い出されるつもりはない。だけど……、師匠が本気になれば俺なんて簡単に放り出されてしまうだろう。
「条件は三つ。一つ、これからは修行にきちんと身を入れて取り組むこと」
「はい」
目を開けた師匠が条件を言い始めた。条件を言うということはそれさえ守ればまた俺に修行をつけてくれるということだ。まだどんな条件かはわからないけど一つ目は言われるまでもない。最近の俺は少し腑抜けすぎていた。伊吹達の脅威があまり感じられなくなって昔ほど必死ではなくなっていたのは間違いない。
今の俺は伊吹達と対抗するためだけじゃなくて……、百地流が好きだから……、もう俺の一部になってしまったから、だから絶対にやめたくない。
「一つ、これからは毎朝道場へ来て朝の修行もしていくこと。加えて夕方の修行時間も延ばすこと」
「はい」
朝練の追加と夕方の修行時間の延長。それも問題ない。朝、兄と同じ車で登校出来なくなるけど、それだって来年から兄は高等科だ。高等科も同じ敷地内に校舎があるけど元々来年にもなれば一緒に通うことは難しいと言われていた。それが少し前倒しになるだけならどうということはない。
終わりの時間だって今はまだ十分早い時間だ。師匠が何時まで延ばすつもりか知らないけど、八時でも九時でも十時でも、そのくらいならまだ許容範囲だろう。さすがに十一時を越えてくるのは問題だけど……。
「一つ、習い事を一つ減らし、その分百地流の修行を増やすこと」
「――ッ!?そっ、それは……」
最後に投げ込まれた爆弾は……、あまりに強大だった。習い事を一つ辞めてその分百地流の回数を増やす。全部辞めて内弟子になることに比べたら随分条件は下げてくれただろう。でも『はいそうですか』と言えることじゃない。
「水練はいらぬだろう?」
「うっ……」
そうだろうな。そうなるだろう。蕾萌会とグランデと百地流、一つ減らして百地流の回数を増やせと言われたらグランデしかない。
グランデでは水泳を行なっているだけだ。特別厳しいノルマやトレーニングがあるわけでもなく、その日の気分や体調次第で適当に流して泳いでいるだけで、スピードを極めようと努力しているわけでもなければ、体力をつけようと長距離泳いでいるわけでもない。
グランデに通い始めた当初こそ体に負担をかけずに体作りと体力作りに良いかと思っていた。でも今となってはトレーニングというよりも遊びやリフレッシュの意味合いが強い。ただグランデに通うのは何も水泳をするためだけじゃない。もう一つ大きな意味がある。それはマダム達との交流だ。
俺達のような上流階級ともなれば人との繋がりというのは非常に重要になってくる。いざという時の味方は多いに越したことはない。何よりグランデのマダム達は俺が色々噂を流されたりしていた時も味方してくれた人達ばかりだ。そういう味方を作り交流しておくことは非常に重要になる。
グランデに通うのはトレーニングというより、そういうマダム達との交流が中心となりつつある。それらを今いきなり全て捨ててしまったら、また何かあった時に今度は誰も味方してくれる人がいないという状況になるかもしれない。
「ふん……。やはりその程度の気持ちか。それならばここを去るが良い」
「まっ、待ってください!今この場で私一人で決めてお返事することは出来ません……。ですので時間をください。両親を説得し、グランデでお世話になった方々にご挨拶をして参ります」
俺は真っ直ぐ師匠を見詰める。目を逸らせてはいけない。ここで曖昧な態度を示しては本当に師匠に放り出されてしまう。
「…………よかろう。ならばこれまで通り仮弟子入りは認めてやろう」
「……え?」
俺って今までずっと仮弟子入りだったの?ていうか仮弟子入りって何?まっ、まぁいいか……。それよりも大変なことになった。俺も覚悟を決めなくては……。
「何をしておる。さっさと着替えて準備をせんか」
「はっ、はいっ!」
その日の修行は『前の修行が途中で終わったから』という理由でいつもの1.5倍厳しくされたのだった。
~~~~~~~
家に帰ったらまずは母の説得をしなければならない。両親とは言ったけど実質的には母を説得出来ればそれで終わりだろう。働いてお金を稼いで、費用を出してくれているのは父だろうけど、実質的にうちを取り仕切ってるのは母だろうしな。
「お母様、少しよろしいでしょうか?」
「…………部屋を変えましょうか」
また夕食後に母に声をかけたら母の方から部屋を変えようと言ってきた。二人っきりで応接室に入る。
「今朝の下着に何か問題でもありましたか?」
あぁ……、母は俺の第二次性徴についての話だと思ったのか。だから部屋を変えたんだな。別に百地流についてなら父や兄に聞かれても問題なかったんだけど……。
「いえ、それについては問題ありません。本日のお話は別件です」
「別件?」
母が不思議そうな顔をしている。だから俺は包み隠さず全てを話した。俺にとって都合が良いように話を端折ったり、嘘をついたりはしない。最近少し俺が百地流に慣れて気が抜けていたこと。師匠が怒ったこと。復帰するためにはグランデを辞めて、朝練追加と夜の時間を延ばすように言われたこと。
「そうですか」
全てを聞き終えた後、母はただ静かに一言そう言っただけだった。俺を責めるとか、厳しい視線を向けてくるということもない。
「どちらにしろグランデはもうあまり効果的ではなかったのでしょう?それならば百地先生にお願いしなさい」
「はい……」
どうやら母も俺がグランデに行ってもあまり効果的ではないとわかっていたようだ。一般人なら水泳で鍛えておくのは悪い選択肢じゃない。子供の頃は水泳を習っていた、という子もたくさんいるだろう。でも今の俺がグランデに通っても得る物は何もない。
「次のグランデの日に退会を申し出て、今までお世話になった方々にご挨拶してまいります」
「そうですね。それが良いでしょう」
話はそれだけと言わんばかりに母は席を立った。朝練や夜の時間延長、グランデの退会は全て許可を貰えた。これで後は……、最後に古堀先生や樽マダム達に最後のご挨拶をすれば終わりだ。
色々と思う所もある。思い出だってあるし、古堀先生やマダム達にもよくしてもらった。でも……、いつまでもその環境に甘えているばかりでもいられない。人は誰でも育ち、巣立っていくものだ。グランデがもう巣立つべき場所になったのなら……、いつまでもしがみ付いているわけにもいかない。
母との話を終えた俺は覚悟を決めてお風呂に向かった。お風呂に入ってさっぱりしよう。すっきりした頭でじっくり考えよう。退会することは変わらないけど、せめて皆さんにご挨拶に行くことくらいはしっかりやり遂げなければ……。
「ふ~……」
ポカポカした体で良い気分でお風呂から出てくる。そろそろ暑くなってきたけど今年はまだ過ごしやすい。これからどんどん暑くなっていくだろうけど、今くらいならお風呂であったまったら気持ち良いくらいだ。
さぁ、それじゃ着替えて……。
「……ん?」
広い脱衣所で籠を漁る。新しい下着やパジャマの着替えは入っている。そっちは問題じゃない。問題なのは……、脱いだ方の籠が荒されている気がする。明らかに中身を引っ張り出して、慌てて詰めて戻したような感じだ。俺が脱いで入れた時はもう少しきちんとしていた。こんなにぐちゃぐちゃじゃなかったはずだ。
「まさか……」
脱いだ汚れ物の方の籠の中身を出してみれば……。
「ない……」
俺のパンツとブラがない。明らかに俺の下着だけが抜き取られている。
「椛!そこにいるんでしょう!」
「……はい。何かご用でしょうか?咲耶様」
俺が声をかけると物陰から何食わぬ顔で椛が出て来た。広すぎる家というのも考え物だ。椛が今、外から入ってきたのか、最初から物陰に隠れていたのか、ここで追及しても水掛け論ではぐらかされてしまうだろう。だったら……。
「椛、貴女の服の隙間から『ある布』がはみ出していますよ?」
「そんなはずは!?咲耶様の神聖なるおパンツとおブラジャーはきちんと仕舞ったはず……、はっ!?」
椛は自分の体をまさぐってその下にある布を確認していた。エプロンドレスの隙間から出ていたのは間違いなく俺の下着だ。
「も~み~じ~……」
「ちっ、ちがうのです。咲耶様……、これは違うのです……」
「何が違うというのですか!」
下着ドロを捕まえた俺はこの後暫く脱衣所で椛を叱ったのだった。でもいくら暖かくなってきたとはいってもお風呂上りに裸でいるのはまずい。ということで俺が途中で着替えている間に椛はいつの間にか逃げ出していたのだった。