第百九十九話「芽生え」
早くも四年生も六月になっている。最近はとても順調だ。クラスでは新しく芹ちゃんと親しくなり、一年生の子達とも随分仲良くなった。半分以上は地下家以下の子達だけど俺にとってはそんなことは関係ない。お友達の同級生と、可愛い後輩が出来てうれしくない人なんていないだろう?
五北会のサロンでもいつもの薊ちゃん、皐月ちゃん、茅さんに加えて、新しく竜胆と榊も俺達の周りに来るようになった。自分の派閥や門流との付き合いをしなくて良いのかと思う所だけど、久我家の関係者で現在五北会メンバーなのは竜胆と榊だけなので問題ないらしい。というより他にいないのならどうしようもない。
そんなわけでむしろ最近は薊ちゃんや皐月ちゃんが派閥や門流と話している間に、先に竜胆達が来て俺の周りに陣取っている。派閥を無視出来ない二人は後からきて何だか歯軋りしているようだ。茅さんも中等科の五北会を放置してこっちに来てるけど……、あの人は特別と思うしかない。
今まで色々と苦労もあったけど、何だか最近はとても調子が良い。テレビの効果もあるのか、最近ではあまりヒソヒソも言われなくなったし、お友達も増えてきたし、全てが順調……。
「ふぎゃっ!」
少し考え事をしていると道場の床に叩きつけられていた。受身は取ったけどそれでも痛いものは痛い。下が畳じゃなくて床だから柔道よりまだ痛いだろう。
「咲耶……、やる気がないのならもうやめよ。明日から来る必要はない」
「え?あっ?ししょ……」
俺が何か言う間もなく、師匠はふっと道場から出て行った。俺一人だけがポツンと道場に残される。いつものように怒鳴って怒られたわけじゃない。ただ静かな声で、でもはっきりと言われた。
師匠は何て言った?やる気がないならやめろ、明日から来るな、そう言ったのか?やめる?百地流を?
いやだ!いやだいやだいやだ!辞めたくない!どうしていきなりそんな……。
でも本当はわかってる。どう考えても俺が悪い。俺は最近私生活がうまくいってるからって浮かれてた。修行にも身が入っていなかった。ただいつも決められた時間に来て、決められた時間に帰るだけ。最近慣れてきていた修行もただ決められたメニューをこなしていただけだ。
師匠が怒るのも無理はない。一生懸命修行にも励まず、ただ言われた通りに言われたメニューだけをする。何でもそうだけど、何年か続けてるうちに慣れてきたら何でもそうなる。ただ機械的に決められたように同じことを繰り返すだけになる。でもそれじゃ駄目だ。
本当に何かを極めたいのなら……、ただ機械的に同じことを繰り返すだけじゃなくて、そこからさらに一歩進んで何かを身に付けていかなければならない。慣れた作業をただ淡々と繰り返すだけではやっている意味がない。
格好だけ同じ型を繰り返すのではなく、動きの一つ一つにまで気を配り、集中して、それを体に覚えこませて、そしてより効率的に動いていかなければならない。そんな基本的なことまで忘れて、ただ私生活がうまくいってるからと浮かれて、気の抜けたような修行をしていたら師匠が怒って当たり前だ。
怒鳴られて怒られるのならそれは何て幸せなことなんだろう。気にかけてもらえるというのはどれほど素晴らしいことなんだろう。
百地流の修行は危険も伴う。それなのに気の抜けたような、遊びのようなつもりで来ている者がいれば、師匠の立場なら『その程度の気持ちしかないのならやめろ』というのも当然だ。
「うっ……、ふぐっ……、うぅ……」
でも……、あんなに冷たく、怒るでもなく師匠にああ言われて、涙が溢れてくる。俺は一人道場の掃除をしながら、次から次に道場の床を濡らす雫をいつまでも拭いていたのだった。
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「はぁ……」
師匠が道場から出て行ってから、仕方なくいつも通りの掃除を終えた俺は更衣室で着替える。袴の道着を脱いで……、ふと大きな姿見に映る自分の姿が目に入った。
「…………ん?太った?」
道着の下に着ていたTシャツを脱いでパンツ一丁で映っている俺は……、何か全体的に丸い。そして胸の辺りが張っている。
そりゃ女児なんだから前世の成人男性みたいに腹筋がバキバキに割れて、大胸筋がパンパンに張っているということはない。無理に鍛えたらある程度はそういう風にもなったかもしれないけど、幼少の頃からそういうことをするとあまりよくないだろうと思って、わざわざ筋肉をつけすぎないようにしていたわけだしな。
でも何というか……、この姿を見ると情けない。別にお腹の肉が余って出てるとかそんなことはないけど……、何というか……、プニプニというかパンパンというか……。
「はぁ……。それはこんな情けない体をしていては師匠に怒られて当然ですね……」
何というか気が滅入る。師匠にはもう来るなと言われたけど……、当然『じゃあもう来ません』なんてつもりはまったくない。師匠が来るなと言っても、何度怒られても拒否されても絶対にまた来る。
着替えを済ませた俺は辞めるつもりなどないからロッカーの整理などせず、いつも通りに片付けて道場を後にしたのだった。
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昨日あんなことがあって今日は一日中まるで何も手につかなかった。授業も聞いてなかったし……、っていうのはいつものことか。四年生の授業なんて聞いても得る物なんてないからいつも自習してるしな……。
ともかく授業もただ座ってるだけ、サロンでも中々周りの皆の話が頭に入ってこなかった。俺がずっと考えていたのはもちろん師匠と百地流のことについてだ。もう結論は出てる。俺は辞めるつもりなんてない。俺に出来ることは、そしてすべきことは師匠に頭を下げて、これからは精一杯、一生懸命修行に打ち込む。それしかない。
本当ならそれを今日、今すぐにでも道場に行って師匠に頭を下げて言うべきなのかもしれない。でも今日はグランデに行く日だ。師匠も道場に居ないかもしれない。一日も早く行くべきなのかもしれないけど、今日が修行のある日じゃないなら師匠の都合も考えるべきだろう。
まぁそんな言い訳しているだけで本当は俺が怖くて行くのが嫌なだけかもしれない。師匠に頭を下げても、もう完全に見捨てられているのなら許してはもらえないだろう。俺はそれが怖くて何だかんだと理由をつけて道場へ行くのを先延ばしにしているのかもしれない。
「はぁ……」
昨日から溜息が止まらない。今生になってから俺はあまり溜息なんて吐かないようになっていたと思うけど……。いや、そりゃたまには溜息もするよ?でもこんなにずっとウジウジ……、してたね。うん。してたわ。俺ってそういう奴だったわ。
「はぁ……」
自分でそれに気付くとますますへこむ。本当に女々しい奴だ。もっと薊ちゃんみたいにはっきりハキハキした、竹を割ったような性格だったらよかったのに……。前世の俺はここまでじゃなかったと思うけど……、これは咲耶お嬢様の性格も影響しているのかな?
ゲームの時は高飛車悪役令嬢だった咲耶お嬢様だけど、案外繊細で傷つきやすい子だった。人前では涙も見せず高笑いしているけど、人一倍寂しがり屋で、傷つきやすく、裏ではこっそりと泣いているような子だ。
まぁそんな性格だから伊吹や槐に理解されずに、目の敵のようにされて最後は潰されてしまうわけだけど……、今の俺もそんな咲耶お嬢様の性格に影響されているのかもしれない。
「あらぁ!咲耶ちゃん、今日も可愛いわねぇ」
「御機嫌よう皆様」
グランデの更衣室に入るといつもの樽マダム達に絡まれた。もう何年もの付き合いだし別に嫌いとか嫌だということはない。ここのマダム達に助けられたこともあるし、一般人的に考えたら、いつも気さくに話しかけてくれるご近所のおばちゃん達とかそういう感じだろうか。
適当に樽マダム達と挨拶をしてから自分のロッカーで着替えを始める。何かロッカーの前に立つと昨日のことを思い出してしまってちょっと気分が沈む。
「あら、咲耶ちゃん!」
「……え?」
マダムの一人が着替え始めた俺を見て何か声をかけてきた。いつもなら着替え中はあまり声をかけてこないんだけどな。何かあったのか?
「咲耶ちゃんもとうとう胸が膨らみ始めたのね。早いものだわぁ」
「あら本当!」
「おめでとう咲耶ちゃん」
「……え?え?」
マダム達が集まってきて何か俺の体を見ながらワイワイと言っている。でも樽マダム達が集合したら肉密度が高すぎて暑苦しい。いや、こんなこと言ったら失礼なんだろうけど本当のことだから仕方がない。しかも肉密度だけじゃなくて湿度も上がる。
「……って、えっ!?今なんと!?」
「咲耶ちゃんももうそういう歳なのねぇ……。少し前までまだ子供だと思っていたのに……」
「ほんとほんと。子供の成長は早いわぁ」
「私も歳を取るわけよね」
「まぁ!」
「「「おほほほっ!」」」
マダム達が脱線してずっとしゃべり続けているけど俺の耳には入ってこない。落ち着いて、よーく落ち着いて姿見の前に立つ。
「――っ!?」
そこに映る俺の姿は……、乳頭を中心にツンと立つようにその部分だけが膨らんでいた。男性の力士やレスラーのような太っている胸とはまるで違う。太っている胸は全体的にだらんと垂れているような感じだ。それに比べて俺のは乳頭の周りだけが不自然に張り出している。
「こっ……、これは……」
もしかして……、これが女の子の胸が膨らみ始める時の状態なのか?昨日道場で見た時も妙に体全体が丸く、胸も張っているとは思っていた。でも……、まさか胸が膨らみ始めていたなんて思いもよらなかったことだ。
俺は前世では男だったわけで、当然女児の発育についてなんて詳しく知っているはずもない。今マダム達に言われて初めて気付いたくらいだ。でも確かに言われてみればただ太ったというよりは、あまりに不自然に乳頭の周りだけツンと膨らんでいる。
「胸が膨らんできたということは、あと一年くらいすればお赤飯を炊く頃ねぇ」
「――ッ!」
そっ、そうなのか……。俺はほとんどそういうことについて知らない。でも自分達も経験してきて、恐らく子供達を育ててきたであろうマダム達がそう言うということはそうなんだろう。
俺も……、体が変化してくるくらいの歳になったということか……。
ショックが凄い。成人男性の精神を持つ俺ですらこれだけショックなんだから、普通の子供が第二次性徴の時に精神的に不安定になったり、色々と戸惑ったりおかしくなるのも頷ける。
まぁ逆に俺の場合は元が成人男性だったからこそ、女児の第二次性徴に対して大きなショックを受けているという可能性もあるけど……。どちらにしろ俺の体に明確な変化が起き始めていることに変わりはない。
ショック状態の俺は、その日のグランデも水泳も上の空のまま過ぎていったのだった。
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家に帰って、夕食を終えてから俺は母と二人きりで話がしたいとこっそり呼び出した。兄は部屋に帰っているし、父はテレビに夢中だ。母だけそっと呼び出すことは難しくはなかった。
「どうしたのです?わざわざ呼び出したりして」
リビングにいる父に聞かれないように応接室に呼び出した母がいきなり聞いてきた。何かいざ言うとなると少し緊張してしまう。というかこんなことを母に言って何になるんだろうか。でも言わないわけにはいかない。俺一人じゃどうしていいかわからない。
「実は……、その……、胸が……、膨らんできました……」
これでちゃんと伝わってるだろうか?ただ単に太っただけだと思われないだろうか?もっとちゃんと言った方が良いんだろうけど、何と言えば良いのかわからない。
「そうですか。念のために聞いておきますが、ただ単に太ったというわけではないのですよね?」
やっぱり母も一応それを確認はするんだな。まぁ第二次性徴だと思ったらただ太っただけでした、じゃ笑い話にもならない。母としては今後の対応を考えるにしても聞いておく必要があったんだろう。
「はい。第二次性徴で胸が膨らんできたのだと思います」
「…………わかりました。これから色々と変化が訪れて、戸惑うこともあるでしょう。父や兄などの男性に聞かれたくないこともあるでしょう。そういう時はまた私に相談しなさい」
「はい。ありがとうございます」
まぁうちにはメイドさん達もいるし、経験豊富な女性や慣れている女性もいるだろう。何なら椛に相談しても……。
「一つ……、椛にはあまり言わないように」
「……え?」
「椛にはあまり言わないようにしておきなさい」
俺が問い返すと母はぴしゃりとそう言い切った。聞き間違いとか冗談ではないらしい。
「はい……。わかりました」
「これからは……、下着も少々変えなければなりませんね。それについてはこちらで用意しておきます」
「はい。お願いします」
何か全然母娘の会話っぽくないけど……、一先ず母に言われた通りにしておこう。