第百七十八話「親娘の和解」
遅ればせながら事情を察した菖蒲が怒りの表情で立ち上がる。マスターに、緋桐に頼まれたから止むを得ず忙しい咲耶に他の予定をキャンセルしてもらい、ようやく今日来てもらったというのに、その咲耶の素性を疑い、ましてや本人に直接試すような真似をするなど黙っていられない。
小紫の行いは緋桐の面子も菖蒲の面子も潰している。何より忙しい中、ご両親を説得して時間を作ってわざわざ来てくれた咲耶に失礼すぎる。
「えっと……、ごめんなさいね。でも貴女だって急にお金持ちの家の子供ですって、塾の講師と生徒が自分の母親に近づいてきていたら何事かと思って警戒しない?」
三十歳近い小紫にとっては菖蒲はまだまだ若い子供のようなものだ。年下の後輩に言うように軽い調子で悪びれる様子もなくそう言った。その言葉にさすがに菖蒲もカッとなったがそれよりも先にパンッ!と乾いた音が響いて幸徳井家のリビングは静まり返った。
「小紫!咲耶ちゃんに……、それから菖蒲先生にも謝りなさい!」
「お母さん……」
小紫はこれまで滅多に、いや、ほとんど母にぶたれたことなどなかった。それが、普段はおっとりしている母が完全に怒っている表情をしながら小紫の頬を叩いたのだ。痛みより何よりショックで頬を押さえながら呆然とすることしか出来なかった。
「咲耶ちゃん、菖蒲先生、本当にごめんなさい!こちらから頼んでわざわざ来てもらったのにこんなことになってしまって……。何とお詫びすればいいのかわからないけど……、本当にごめんなさい」
「あっ……」
緋桐が頭を下げているのを見て、ようやくそれがもし自分が逆の立場だったらと思って小紫は血の気が引いた。最初から得体の知れない相手が人の良い母を騙してるのではないかという目線でしか考えていなかった。相手が若者や子供だから、子を持つ親である自分の方が上だと思って相手を品定めしてやろうなどと驕っていた。
しかし逆に考えたらどうだろうか。例えば友人に頼まれて、わざわざ足を運んだらその友人の親に「お前は自分達の子供に近づいてきた詐欺師ではないか」なんて詰問されたならば……、それが相手が「自分の方が年上だから上だ。自分達の言っていることの方が正しい」と言われたらどう思うだろうか。
その友人の親の理不尽に腹が立つだろう。友人やその家族への心証も最悪になるに違いない。友人がいくら謝ってきても自分ならそれを許せるだろうか?
今回は母が母の伝手でわざわざ呼んでくれた人を、最初から何か裏があって近づいてきたのではないかと疑い、しかも本人に直接試すようなことまでした。それがどれほど相手に失礼で、母の顔に泥を塗り、母とその相手の関係を傷つけただろうか。
「ごっ、ごめんなさい!」
ようやく小紫も自分のしたことに気付いて頭を下げた。
「…………はぁ」
それを見て菖蒲は息を吐き出してから座る。本当は怒りはまったく収まっていない。しかし母である緋桐が先に怒り、しかも目の前で叩き、頭を下げさせたのだ。それでもまだ怒りのままに相手に罵声を浴びせるほど菖蒲もキレてはいない。一先ず矛を収めて話をするしかない。
あるいは緋桐はそこまで見越して小紫を叩いたのだろうか。相手に代わって親である自分が先に怒り叩くことで相手に矛を収めてもらおうと思ったのかもしれない。
「まぁまぁ、皆さん落ち着いて。秋桐ちゃんも驚いていますよ」
「ママ、おばあちゃん、けんかしてるの……?」
咲耶の横に移動して座っていた秋桐が不安そうに咲耶の服を掴みながら二人の様子を見ていた。幼い子供にとって母と祖母が喧嘩をしていればどうしていいかわからなくなるだろう。その不安のためにギュッと咲耶に抱き付いていた。
「大丈夫よ秋桐。今のはお母さんが悪かったの。だから秋桐は何も心配しなくていいのよ」
そう言ってふっと小紫は母親の顔になった。少し決め付けで前のめりになりすぎていた。もし仮に例えこの先生や生徒が嘘をついていたとしても、それをとやかく言うのは自分ではなかったはずだ。母がこの二人とそういう関係を結んでいたのならば部外者である自分がとやかく言うことではない。
もちろんそれが詐欺でそこから信用を得てお金を貸してくれとか、何かを買って欲しいと言われたのなら周りの家族が止めるべきだが、少なくともこの三人の間にそのようなことはない。
そして今日は自分が娘を藤花学園に通わせるのが不安だから、誰か内情を知っている人がいないかと頼んだのだ。だから母が呼んでくれた相手に自分は何という態度を取ってしまったというのか。
「お気になさらないでください。ご両親をご心配なさるのは当然のことです」
咲耶は秋桐の頭を撫でながらそう言った。
「ですが……、その程度のお考えなのでしたら藤花学園に通われるのはやめておいた方が良いかもしれません」
「「「……え?」」」
ただ笑って許すのかと思った咲耶が、ふと真面目な顔になってそんなことを言い出した。菖蒲も咲耶が許すのならと思って引き下がろうと思っていたので、突然の咲耶の豹変に驚く。
「面接でもお聞きになったと思いますが、藤花学園に通うためにはご家族のご理解と支えがなければ通えません。もし小紫さんが先ほど言われたように『お金持ちの子息が通う名門の学校』程度にお考えならば今のうちにやめておくことです。もしそのような認識で藤花学園に通われれば秋桐ちゃんが可哀想ですよ」
咲耶の言葉に小紫はゴクリと唾を飲んだ。小紫はそんなつもりはないと言おうとした。しかし実際に小紫は『お金持ちの子供達が通うお坊ちゃん学校』くらいにしか認識していなかったのだ。それを指摘されてようやく悟った。
「確かに藤花学園に通うには多額のお金が必要になります。ですがただお金を払えば誰でも通えるというものではありません。どれほどお金を積もうとも通えない者は通えないのです。藤花学園に通う生徒には品位や所作や教養が求められます。藤花学園に通ったから一流なのではなく、一流だから藤花学園に通えるのです。その覚悟はおありですか?」
「そっ……、それは……」
小紫は地下家として何もしてこなかった。緋桐という母の下で伸び伸びと普通の子供として育ったのだ。当然上流階級のしきたりも慣例も常識も知らない。自分自身も作法も教養もない。娘の秋桐にもそういうものは習わせてこなかった。
幸徳井家はこれまでそうしたものを連綿と受け継いできていたのだ。しかし緋桐、小紫の代でそれは途切れてしまった。貴族は貴族の家に生まれたから貴族なのではない。貴族に足る振る舞いと教養を身に付けているからこそ貴族たるのだ。
「もちろん一度その道から外れてしまったから二度と戻る権利はないとは思いません。ですが一度途切れてしまったものを取り戻し、再びその道に戻るためには並大抵の努力では成し得ないでしょう。小紫さんにはその覚悟がおありですか?どのような辛酸を舐めようとも、周囲にどれほど馬鹿にされようとも、石にかじりついてでも地下家として戻る覚悟が……、おありですか?」
「「「…………」」」
咲耶の言葉に、小紫だけではなく緋桐も菖蒲もただ息を飲む。その言葉の重みが半端ではない。たかが小学校三年生が何を偉そうに、などとはもう思えなかった。咲耶の口からそれだけの言葉が出るまで、一体どれほどの苦労や努力があったのか。その一切崩れることのない所作を見ているだけで努力の一端が垣間見える。
「わたしね~!きっとさくやおねえちゃんみたいになるー!」
しかし……、一人だけ、秋桐だけはキリッと美しい佇まいの咲耶に素直にそう言った。難しい話はわからない。ただ咲耶のこの美しく堂々とした佇まいを、自分も藤花学園に通えばいつか身に付けられる。そう思って無邪気に純粋な憧れを咲耶に抱いていた。
「…………はぁ。秋桐、もし咲耶お姉ちゃんみたいになりたかったら、これからたくさん習い事もしなきゃならないわよ?それに出来なければ皆に笑われるわ。それでも……、藤花学園に通って、きちんとやり遂げられる?」
「うん!さくやおねえちゃんとおなじがっこうにいく!」
ふっと、リビングの空気が和んだ。ピリピリとした空気だったものが、秋桐の言葉によってほんわかした空気に変わった。
「それじゃ咲耶お姉ちゃんに学校のこと色々聞こっか?」
「うん!おしえてさくやおねえちゃん!」
「ふふっ。そうですね……。それじゃ~……」
緩んだ空気の中、咲耶が藤花学園について色々と話し始める。基本的には秋桐を飽きさせないために学園のことを面白おかしく話し、その合間合間にうまく緋桐や小紫に親や家族としての心構えなどを説明していく。
通う子供自身も大変だが、藤花学園はそれをサポートする家族にも大変な負担がかかる学校だ。事ある毎に多額の寄付が必要だったりという金銭面ばかりではない。学園の行事があれば参加し、学園の誰かにパーティーに呼ばれたら参加し、どこへ送り、どこへ迎え、家族の手間と苦労が半端ではない。
だからこそ上位の家は家人を雇い、そういう者達に子供達のサポートをさせている。家人を雇えないような家では母親などが直接車を運転して送り迎えしたりと大変だ。
「大丈夫なの?小紫……。やっぱりやめておいたほうが……」
「ううん。確かに運転手さんとかメイドさんを雇うのは難しいかもしれないけど、私だって運転出来るから。秋桐がもうやめたいっていうまでは、本人の希望通りにさせてあげたいの」
最初は夫、保幸の実家からの嫌味や挑発が理由でどうしても藤花学園に通わせてやろうと思っていた。しかし今は違う。今は秋桐が憧れの人を見つけたから。その人についていきたい、その人のようになりたいという娘の希望を叶えてあげたいと思う。
地下家の中でももうこれまで引き継がれていた伝統も失ってしまった幸徳井家では、これから藤花学園に通っても大変なことばかりだろう。それでも小紫は自分は歯を食いしばってでも秋桐を通わせてあげようと覚悟を決めた。自分がどんな風に言われても、他の家に笑われても、それでも乗り越えて、いつか娘がきちんと地下家として戻れるように……。
「何だか……、私のせいでこんなことになってしまったみたいね……」
緋桐は自分が義父母の反対を押し切って小紫を普通の学校に通わせてしまったのが原因だと悔いた。もしあの時小紫を幸徳井家の伝統に則って育てていれば、今娘や孫がこんな苦労をすることもなかったのにと思わずにはいられない。一度地下家としての伝統を失うということがどれほど大変なことか一般から嫁いできた緋桐にはわかっていなかったのだ。
「ううん。私はお母さんが普通の学校に通わせてくれてよかったと思ってるわよ。学校で知り合った友達とも未だに付き合いがあるし、皆本当の親友よ」
「小紫……」
今日は本当に良い日だった。とても有意義に過ごせたし、母とも娘ともきちんと話し合って向き合えた気がする。その後はまた暫く咲耶や菖蒲に色々と聞いているうちにあっという間に時間が過ぎてしまっていた。
「それではそろそろお暇しましょうか」
「そうですね……」
菖蒲の言葉に咲耶も頷く。思ったよりも長居してしまった。そろそろ帰ろうかという話になった頃、玄関がガチャガチャと騒がしくなっていた。
「戻ったよ。ああ、まだお客さんがいたんだね」
「どうもはじめまして。今日はわざわざうちの娘のためにありがとう」
そこへ丁度友康と保幸が戻ってきた。今日来る予定の二人の風体を聞いて知っていたのですぐにその二人だろうと当たりをつけた。
「私は緋桐の夫だよ。そしてこちらが娘の旦那さん」
友康と保幸は軽い感じでそう挨拶をした。どちらも若い女性だし、小紫が最初からそういう身分を騙る詐欺師かもしれないと言っていたのであまり重く考えていなかった。
「本日はお邪魔しております。私は高辻菖蒲です」
ガタッ!
自己紹介を聞いて友康はスーツを脱いでネクタイを少し緩めながら座ったソファから滑り落ちた。顔が驚愕に歪んでいる。緋桐、小紫、保幸は一体何事かと思って驚いた。しかしそんな場合ではない。
「もっ、もしかして……、半家の高辻家のお嬢さんでしょうか?」
「ああ、そうですね……。それでは……」
友康の言葉を受けて姿勢を正した菖蒲が再び自己紹介をやり直した。
「菅原朝臣嫡流、高辻家が長女菖蒲です。よろしくお願い致します」
「こっ、こここっ、こちらこそ!よろしくお願い致します!」
いきなり態度の急変した友康に他の三人はついていけない。ポカンとしている三人に友康は小さな声で、しかし咲耶と菖蒲にも丸聞こえな声で怒鳴りつけた。
「馬鹿者!堂上家である高辻家のお嬢さんだぞ!うちなど吹いたら飛ぶようなお相手だ!失礼のないように気をつけなさい!」
堂上家などと言われてもいまいちピンとこない。藤花学園に通ったことがある友康以外には、堂上家と言われてもただの自分の家よりお金持ちの名門、という程度の理解だ。
「え~……、御機嫌よう。九条咲耶と申し……」
「くっ、くじょ……、くじょ……、くじょーーーーっ!」
続いて咲耶が名乗った瞬間、友康は白目を剥いてビクンビクンとしながら気を失ったのだった。