第百七十七話「幸徳井家」
二月最初の土曜日、この日は幸徳井緋桐が経営する喫茶店は臨時休業となっていた。そして仕事が休みである緋桐の夫、幸徳井友康が緋桐に声をかける。
「本当に大丈夫なのかい?」
「大丈夫ですよ。私だって何度も会ったことがあるんですから」
友康は藤花学園を卒業しているがそれはもう何十年も前の話だ。今では色々と変わっていることもあるだろう。それに男であり、生徒として通った経験しかない。親として子供を送った経験はないのでそれについては何もアドバイスしようがない状態だ。
だから今日、緋桐の店に来たことがあるという藤花学園の生徒を招くことになっていた。それに不安を覚えた友康が緋桐に問いかけたのだ。
緋桐はその女の子は素直で良い子だと言っている。しかし問題はそんなことではない。藤花学園に通うような子供とは幸徳井家とは比べ物にならないような本物の上流階級の子息子女が多い。もちろん幸徳井家も中小企業とはいえ一族で会社を経営している経営者一族で、庶民に比べれば立場もお金もあるだろう。
ただ藤花学園に通うような家と言えば本当に幸徳井家からすれば雲の上のような存在というイメージだ。友康は自分が通っていたからよくわかる。同格くらいの家もそれなりにいるが、上が強烈すぎて自分達のような程度の家では通うのが苦痛になる場合だってあるだろう。
何より高級進学塾の蕾萌会といえど普通なら藤花学園に通うような子供が通うとは思えない。もし本当に初等科から藤花学園に入れるような家だというのなら、エスカレーター式に大学まで行けるのだ。それなのに何故わざわざ塾に通っているというのか。どうにも話が色々とおかしすぎてわからない。
もし友康が考えているような真の上流階級、堂上家クラスの子が来てしまったらそれはそれで大変だ。粗相があっては幸徳井家やその会社など簡単に潰されてしまうかもしれない。
だがそんな上流階級の子供なら塾に通わせているというのが腑に落ちない。もしかしたら自分達同様、あまり大した家の子ではない可能性もある。それならわざわざ今日家に招く意味もあまりないように思われた。結局どちらにしろあまり意味がないか関わらない方が良いのではないかと思ってしまう。
「お母さんはおっとりしてて騙されやすいもんねぇ……」
「もう!小紫!どういう意味かしら!」
若い女性がリビングに入ってきた。隣には男性がいる。そして小さな子供を抱えていた。
「おはようございます、お義父さん。それからご無沙汰しております、お義母さん」
「やぁいらっしゃい保幸君。それからよく来たね~、秋桐」
入って来た人物を見て友康はすぐに目尻を下げた。幸徳井小紫は緋桐と友康の娘だ。緋桐は一般から幸徳井家に入った。だから娘も普通の学校に進学させた。当時祖父母などの一族に猛反対されたが緋桐は押し通し、小紫は普通の学校を卒業した。
小紫の夫、幸徳井保幸は小紫の『はとこ』、あるいは『又従兄弟』と呼ばれる血筋にあたる。小紫、保幸から見れば祖父母の兄弟の孫同士。自分達の両親から見れば従兄弟の子供同士をはとこ、あるいは又従兄弟と呼ぶ。
幸徳井家の本家筋はこの家だが跡継ぎに恵まれなかった。女の小紫しか生まれなかったために、男系の血縁である保幸を婿養子として迎えたのだ。保幸は分家筋の幸徳井家の次男であり、分家の幸徳井家の長男夫婦は、弟が本家の婿養子に入って社長になることが面白くなかった。
だから散々嫌味をいい、地下家の本家筋ともあろうものなら子供は藤花学園に通わせろと言ってきたのだ。
それを聞いて小紫はカッとなって受けて立ち、結果、小紫と保幸の娘、幸徳井秋桐を藤花学園に通わせることにした。そのために色々と準備や根回しでお金や労力を使ったが止むを得ない。
そしていざ藤花学園に通うことになったのは良いが、緋桐は外から嫁いできた一般人。小紫は藤花学園に通ったこともなく、誰も今の藤花学園の状況も知らない。作法や慣習や慣例、親としてすべきことや心構えも何もかもわからない。
今日はそれを聞ける現藤花学園生を呼ぶということになっているが、緋桐以外の者は全員胡散臭いと思っていた。
本当にそんな良い所に通っている子が幸徳井家のような、地下家とはいっても一般人とそう大差もない所へわざわざ来てくれるのか。それに何故高級とはいえ進学塾などに通っているのか。緋桐はお人好しだから騙されているのではないか。他の家族はそんなことを考えてしまっていた。
「おじいちゃん!おばあちゃん!」
「よくきたわね、秋桐。さぁおばあちゃんの方へいらっしゃい」
「いやいや!秋桐!おじいちゃんの方へおいで!」
家族勢揃いで今日やってくるという子を待つ。小学校三年生の子供に話を聞いても、どうせ難しい話なんて何も聞けないだろうとは思うが……。
その時、保幸の電話が鳴り響いた。
「はい……。はい……。はい……。わかりました。会長も一緒なのですぐに……、はい……」
「どうかしたのかね?」
保幸の態度に友康は何かを感じて電話が切られると同時に声をかけた。
「先週の……、例の件で……、少し不備があったようです」
「あ~……、あれか……。わかった。それじゃ私と保幸君で向かおう。私達が対応しなければならないんだろう?」
すぐに察した友康が立ち上がる。保幸は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。それではすぐに向かいましょう」
「すまないな。どうやら私はその子を迎えてあげられないようだ。早く終わればすぐに戻るつもりだが……、いつまでかかるかはわからない。それじゃ小紫、緋桐はちょっと抜けてるからお前がしっかりな」
友康は出掛ける準備をしつつ娘にそう言う。緋桐はムッとした顔をしていたがいつものことなのでもう何も言わない。
「任せておいて」
もし相手が詐欺師や悪意のある者ならば小紫がしっかり対応する。そういう意味で友康と保幸と小紫は頷きあった。会長と社長である二人が出て行くと女性三人ばかりになる。
「それでその子はいつ来るの?」
「その子じゃなくて咲耶ちゃんよ!そろそろ来ると思うけど……」
孫娘の秋桐をあやしながらそんな話をしているとインターホンが鳴った。
「来たみたいね」
緋桐と小紫は秋桐を抱いたまま玄関へと向かった。今日はお店ではなく玄関から入ってもらう。
「いらっしゃい先生、咲耶ちゃん。わざわざごめんなさいね」
「いいえ。マスターの頼みですから」
小紫はやってきた二人を品定めするように眺める。大人の女性と幼い子供。聞いていた通りだ。ここから歩いて行ける距離にある蕾萌会という進学塾の講師とそこに通う藤花学園の生徒、ということになっている。
疑い出せばキリがないが、幸徳井家も普通の家からみれば十分に立派な家だ。中小企業とはいえ経営者一族なのでそれなりに裕福な生活を送っている。当然それだけの家ならばそこに群がってくる者も今まで数多くいた。緋桐は暢気でおっとりしているが、喫茶店の客としてそういう輩が近づいてくる可能性は十分にある。
「さぁ、まずは入って。自己紹介は中でしましょう」
「お邪魔します」
子供の方の態度や言葉は随分しっかりしている。そこらの子供を連れてきたというわけではないようだ。
「こっちが娘の小紫で、この子が咲耶ちゃんと同じ藤花学園に通う孫の秋桐よ」
「はじめまして。蕾萌会の講師の高辻菖蒲です」
「御機嫌よう。九条咲耶です」
高辻菖蒲という講師の方は普通の女性という感じだ。しかし九条咲耶という子供の方に小紫は噴き出しそうになった。確かに言葉遣いも動きも様になっている。だがどこの世の中に『御機嫌よう』などという挨拶をする現代人がいるというのか。演技にしてもやりすぎてボロが出ているようにしか思えない。
「ふふっ……、いつも母がお世話になっているそうで……、私は幸徳井小紫です。秋桐、自己紹介しなさい」
「はじめまして!わたしは、こうとくいあきぎりです。よろしくおねがいします!」
藤花学園の面接の時に秋桐には散々面接の練習をさせた所だ。だからこの程度の対応なら出来る。
「はじめまして秋桐ちゃん。私のことは咲耶って呼んでね」
にっこり微笑みながら秋桐に声をかける。小学校三年生と聞いていたがやはり年齢の割にはしっかりしている。ただあまりに出来すぎだ。そもそもこんないかにもお嬢様というようなお嬢様など小紫は見たことがない。
もちろん小紫は藤花学園には通ったことがなく、上流階級との付き合いもほとんどない。たまに小規模な地下家のパーティーに呼ばれて参加したことはあるが、元々あまりそういうことが得意ではなく、習ったこともない小紫ではパーティーに出ても小馬鹿にされることもよくある。
「さくやおねえちゃん!」
「まぁ!ふふっ」
動作、言葉遣い、何もかもがお上品すぎる。演劇を習っている子供でも連れてきたのだろうか。それにしても三年生にしてはしっかりしているが……、多少なら年齢も誤魔化せるだろう。四、五年生くらいの小柄な子を連れてきても見分けはつかない。それくらいの年齢ならば多少の演技が出来たり、分別もあるだろう。
「え~っと、それじゃ咲耶ちゃん?早速で悪いけど色々お話を聞かせてもらえる?」
「はい。どうしましょうか……。先に思いつくことをお話してみましょうか?それとも小紫さんや緋桐さんの疑問に答えていきましょうか?」
随分余裕そうだ。色々と打ち合わせで話すことは決めているのかもしれない。今の時代ならば学園に通ったことがなくとも、情報などいくらでも検索出来るし写真もすぐに見れる。
「まぁそうはっきり決めずに色々とお話しましょう」
「はい」
小紫の提案に簡単に乗ってくる。よほど予習や勉強してきた設定に自信があるのか、それともただ子供ゆえか。どちらにしろそんな化けの皮はすぐに剥がれる。そう思って小紫はあれこれと話をしてみた。
「それでその時、左側にあった花壇のお花がね」
「えっと……、小紫さん……」
小紫の話に咲耶が言うか言うまいか散々迷ったという顔をして言葉を発した。
「面接は職員室では行ないませんよね?それに進む順も部屋の場所も滅茶苦茶です。そこに花壇もありません……。もしかしたら何か他に面接された学校などと勘違いされているのかもしれませんが……、その……、あまりにお話がおかしいので……」
今まで黙って聞いていた咲耶がとうとうそう言った。その言葉を聞いて小紫は少し思案する。小紫はわざと滅茶苦茶に話した。校舎内の間取りも通路も、面接を受けた部屋の場所も、全て出鱈目だ。
何も言わずに黙っているからやっぱりこの子供は何もわかっていないのかと思っていたが、どうやらどうやって注意するか悩んでいたらしい。少しくらいの間違いなら勘違いなどとして聞き流すかもしれないが、完全に別の話をしているようになっていては突っ込まざるを得ない。
小紫は少なくともこの咲耶という子供が藤花学園に入ったことはあるのだろうと結論付けた。いくら校舎の間取りを覚えていても、置いてある物や内装まではわからない。確かにそういう写真も流れていることはあるだろうが、いくら写真で見ても現地に行ったことがなければ相関関係や並びや配置までわかるものではない。
「小紫、貴女咲耶ちゃんを試したの?」
隣に座っていた緋桐がムッとした顔で小紫を睨む。確かに試したので言い訳のしようもない。そして咲耶は完全に無関係の者をそれらしく連れて来たわけではないことは小紫もわかった。
まだ詐欺は疑っているが、少なくとも咲耶は現地に入ったことがある。かなり詳しく内部のことを把握している。それは色々と話してみてはっきりわかった。
「試す……。あぁ……、そういうことでしたか」
少し思案したような顔をした咲耶はすぐに得心がいったという表情になって頷いた。
「それはそうですよね。いきなり見ず知らずの子供がやってきて藤花学園ほどの学校の話を始めても疑うのは当然です」
にっこりと、まるで気分を害していないという表情でそう言い切った。これが本当に小学校三年生か?と思わずにはいられない。自分が子供の時はどうだった?人に疑いをかけられて、試されるようなことをされたらもっと怒ったのではないだろうか?
それをあの少しの会話から全てを読み取り、その上でこうして相手の気持ちや考えも汲んで笑って許せるものなのか?少なくとも自分はもっと大きく、それこそ中学や高校に行くまでそんなことは出来なかった。
最初は余裕で、幸徳井家に群がってくる詐欺師を暴いてやろうくらいに思っていた小紫は、今自分の目の前に座る可愛らしい女の子が只者ではないことにようやく気付いた。
「ちょっと待ってください!咲耶ちゃんを試すってどういうことですか!?」
そして、塾の講師、菖蒲先生と呼ばれていた女性が声を上げて立ち上がったのだった。