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第百七十四話「槐と桜」


 時は遡り鷹司家のパーティーがまだ開かれる前の頃、近衛家を訪ねた槐は伊吹を前にして口を開いた。


「伊吹、僕は次のパーティーで九条さんを僕の許婚候補に決めたって宣言するよ」


「槐?お前何を言って?」


 突然の槐の言葉に伊吹はポカンとする。本来頭はそんなに悪くないはずの伊吹だが、槐の言った言葉が理解出来ず暫く口を開けたままになってしまっていた。


「咲耶は俺の許婚候補で……、あれ?俺は……、咲耶と……?ん?」


 まるで頭を抱えるようにウンウンうなり出した伊吹の肩を掴み、真っ直ぐ顔を突き合わせて槐は言葉を続けた。


「僕は九条さんのことが好きだよ。だからこのまま何もせず伊吹に奪われたくない。例え勝てないとしても、後悔しないように僕も挑戦したい」


「俺と……、咲耶は……、許婚候補……。槐は……、咲耶が……、好き……」


 焦点の合わない目で伊吹はブツブツと繰り返す。そして徐々に何かを思い出すかのように目の焦点が合いだし、緩んだ表情はキリッと引き締まり始めていた。ついに完全に本来の表情を取り戻した伊吹は逆に槐の肩を掴み声を上げる。


「おう!名乗りを上げるなら上げればいい!でも咲耶は俺の嫁だ!正々堂々争って、その上で俺の女にしてやる!」


「伊吹!元に戻ったんだね?」


 槐の表情がパッと明るくなる。ここ何ヶ月もずっと様子のおかしかった伊吹が、完全に前までの伊吹に戻っている。一見そういう風に見える。しかし……。


「ふっ……、槐も心配することはないぞ。咲耶も槐も俺が満足させてやるからな!」


「…………え?」


 肩に置かれていた手が槐の顎まできてクイッと上を向かせた。まるでその背景にだけ薔薇の背景が見えるような錯覚が起こる。ブワッと槐に一瞬にして鳥肌が立ち冷や汗、あるいは脂汗が滲み出る。


 確かに一見前までの伊吹に戻ったように見える。しかし完全には戻っていないのか、単なる後遺症か、それとも本当に……。どちらにしろまだ伊吹は戻ったばかりで完全ではないのだろうと槐は自分に言い聞かせた。伊吹と槐がそんな話をしているとリビングの向こうから近衛母が満面の笑みを浮かべて近づいてきて声をかける。


「いいわね!それ!近衛と鷹司に奪い合われるなんて……、それはきっと咲耶ちゃんの価値を高めることになるわ!」


「あの……、おばさ……」


「あ゛?」


 近衛母をおばさんと呼ぼうとした槐は慌てて口を噤んだ。この言葉は禁句だ。決して本人に言ってはいけない。言えばどうなるかは……、誰も知らない。何故ならばその言葉を口にしたものは二度と戻ってこないからだ、などという噂が立つほどの禁句なのだ。


「近衛のお姉さんは良いんですか?僕が九条さんの許婚候補に名乗りを上げても?」


「ええ。いいわよ。それで咲耶ちゃんが槐君を選ぶというのなら所詮伊吹はその程度だったということよ。その代わり槐君のお嫁さんになったとしても咲耶ちゃんにはうちの役員でもしてもらうつもりだから、それは覚悟しておいてね?」


 軽い調子でそういう近衛母に槐は苦笑いしか出来ない。そんな軽い話で済ませて良いものだろうか。それに気がかりはまだ他にもある。


「あの……、もう一つ……。僕がそんなことを言い出せば二条家も、桜君も黙っていないと思います。僕が伊吹と九条さんの間に割り込めば桜君も自分も入れろと言ってくると思いますよ」


「あら?そうなの?あの女装っ子って咲耶ちゃんのことが好きだったの?でもいいわよ。それならそれで面白いわ。近衛、鷹司、二条と五北家の中で三家から奪い合われるなんて面白いわよね。前代未聞だわ。これだけ錚々たる家に奪い合われるなんてきっと咲耶ちゃんの価値を高めてくれるわ」


 そもそも近年、五北家同士の婚姻は同じ派閥の近衛・鷹司か九条・二条の間くらいでしか行なわれていない。他の派閥間で婚姻関係を結ぶというのは一気にパワーバランスを崩しかねない。だからどこも慣例を破って他派閥と結婚するということは控えていた。


 同じ派閥の有力な家同士の結びつきを強くするために政略結婚するのがほとんどであり、今回近衛と九条が許婚候補宣言をしただけで異例中の異例だった。それがさらに鷹司、二条まで参戦して五北家の三家に奪い合われるなど前代未聞どころではない。


 そもそも本来ならば許婚候補を宣言する時点で両家がある程度は合意に達しているのが普通だ。もしまだ相手と話し合いもしていないのに発表して、結果相手にふられてしまったら大恥をかいてしまう。だから普通なら相手と話し合い、ある程度話が纏まってから公表する。勝算もないのに公表したりはしない。


 それなのに近衛は九条との話し合いが決まっているわけでもないのに公表し、鷹司も同じくそこへ割り込もうとしている。当然鷹司も九条とは何も話し合っていない。


「でもお姉さん、本当に良いんですか?その……」


 槐は言い淀んだ。余計な騒ぎを起こしては近衛、鷹司、九条の連携に傷を入れかねない。それにもし咲耶が槐を選んだら伊吹は許婚候補を失うことになる。


「いいのいいの。一番大事なのはね、本当に好きな人同士で結ばれることよ。だから槐君が本当に咲耶ちゃんのことを好きなんだったら、何も挑戦せずにただ伊吹に譲って諦めるなんてしちゃ駄目よ」


 そう言ってふっと近衛母は優しい笑顔になった。いつもの女傑の顔ではない。それは子供達の幸せを願う母の顔だった。


 近衛母としては、確かに余計なことをして引っ掻き回して欲しくないというのが本音だ。大人達の都合で言えば、このまま黙って伊吹と咲耶が結婚してくれるのが一番都合が良い。しかしそれはあくまで大人達の都合だ。本人達の意思や都合は一切考慮されていない。


 近衛母も政略結婚であったとはいえ今の結婚生活にも満足しているし、夫のことも愛している。しかし……、もし自分も自由に恋愛して、好きな人と結ばれることが許されていたのならば……、もしかしたら自分は今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。


 後悔はしていない。自分はきちんと務めを果たして承知の上で政略結婚した。それに夫は自分を愛してくれたし、自分も夫を愛している。授かった子供のことも愛している。


 ただ……、もう自分達の時代とは違うことも理解している。いくら上流階級は未だにそういう風習が根強く残っているとしても、人の心まではどうすることも出来ない。何より政略結婚させられてお互いに合わず、冷え切った夫婦生活を送っている家もたくさんある。


 それならば……、自分の子供には、好きな相手と結ばれて幸せになってもらいたいとも思っている。そしてそれは自分の子供だけではなく、槐や咲耶も含めて……。


 一番大切なことはそれぞれが望む形で、愛する相手と結ばれることだ。もちろん自分の子供の後押しをするのは当然だが……、その結果破れるというのならそれはそれで止むを得ない。面白そうだとか、価値が上がるとか、何だかんだと理由をつけてはいるが、近衛母はただそれぞれが望む結婚をして欲しいと思っていただけだった。


「本当によろしいのですか?近衛様?」


「ええ、良いのよ鷹司夫人」


 そっと現れた鷹司母に近衛母は笑って答える。全員が納得のいく答えはないだろう。ただ……、願わくば大人達が押し付けた結婚を無理やりさせるのではなく、せめて本人達が納得出来る形で決着してくれれば……。二人の母はそう願っていたのだった。




  ~~~~~~~




 近衛邸で取り決められた通りに、槐は鷹司家のパーティーで咲耶との許婚候補について宣言した。もちろん鷹司家が許婚候補に選んだからといって相手が受けるとは限らない。これはただ槐の覚悟を表明しただけのことだ。


 それでもこれだけの面子が揃う中で、これだけのことを宣言するというのは相当覚悟が必要なことだっただろう。それを示すことこそが槐の目的だったのだ。


 そして……、パーティーが終わった後、予想通りの人物が残っており詰め寄ってきた。


「鷹司様!どういうおつもりですか!」


 いつもの女装してフワフワしている感じとはまるで違う剣幕で二条桜が槐に詰め寄る。パーティーはすでにお開きとなっているから他の招待客は残っていない。今は後片付けをしている者達や、鷹司、近衛の関係者だけになっていた。


「どうって言われても困るけど?」


「ふざけないでください!私は近衛様と咲耶お姉様が許婚候補だというから黙って引き下がっていたんです!それなのに鷹司様がこのようなことをなさるなんて……」


 グッと桜が槐を睨みつける。しかし槐は涼しい顔をして受け流す。


「だったらどうするんだい?」


「――っ!そうですか……。わかりました。鷹司様がそういうつもりなら……、私も次のパーティーで咲耶お姉様の許婚候補として宣言させてもらいます!」


 それだけ言うと桜はドスドスと音がしそうなほどに足を踏み鳴らして帰っていった。それを見送ってから槐が言葉を漏らす。


「そうだよ。後悔だけはしないように……、しないとね?」


 近衛、鷹司でも予想していた通りの宣言をして二条桜は帰っていった。その後すぐに二条家はパーティーの招待状を各所に配り始めたのだった。




  ~~~~~~~




 年が明けて三学期となり、一月も終わりに近づいた頃、ついに二条家のパーティーの日がやってきた。呼ばれているのは五北会を中心とした上位の家が多いが、しかし一部には堂上家や地下家まで混ざっている。桜たちと同世代の子供を持たない招待客にはそれが何故なのかさっぱりわからないだろう。


 ただし桜や咲耶と同世代の者達はこのチョイスがどういう意味であるのかはっきりわかっている。それは咲耶と親しい友人は全て呼んでいるということだ。


 桜が招待客を選ぶ際に考えたのは、自分の咲耶との許婚候補宣言において、咲耶と親しい友人知人達全員を呼び、その目の前で宣言しようと考えた。だから呼ばれている家は、上位の家と咲耶と親しい者という風になっている。


 この日、桜はパーティーが始まるとすぐに許婚候補宣言を行なった。パーティーがそれなりに進んでから趣旨を説明する場合もあるし、このように最初に何の祝いや趣旨であるのか説明してから開かれる場合もあるだろう。槐のようにあえてパーティーの最後で衝撃的なことを伝えて、大きなインパクトを残してお開きにするという手もある。


 しかし桜は一番最初に、開始と同時に言い放った。先に宣言するということは今日のパーティーの間中ずっとこの話題で持ち切りになるだろう。何しろこのパーティーはそのために開かれたものだ。


 さすがの二条家といえども、たった一ヶ月で上位の家を呼んで満足させるだけのパーティーを準備するのは骨が折れる。そこでパーティーの準備不足や不備を、最初に衝撃発言をすることで招待客達の気を逸らし、そちらに話題を誘導するという狙いもあった。


 壇上で宣言を終えた桜は招待客達の方に視線を向ける。すると熱い眼差しで桜を見詰めている咲耶と目が合った。きっと咲耶は政略結婚で嫌々ながら近衛家との縁談に臨んでいたに違いない。しかし今、桜が許婚候補を宣言したことで近衛や鷹司だけが相手ではないと示された。


 咲耶は感激して熱い眼差しで桜を見ているに違いない。九条と二条ならば元々結婚してもおかしくない間柄だ。今まで結婚なんてありえなかった近衛や鷹司が相手であるよりは二条家と結婚した方が咲耶も幸せに違いない。


 何より咲耶はきっと可愛いものが好きだ。だから身の回りにも綺麗で可愛い女の子達を侍らせている。その性質は桜も同じだからわかる。二人はきっと似た者夫婦だ。それなら生活もうまくいくだろう。


「咲耶お姉様!」


 壇上を降りた桜は真っ直ぐ咲耶の所へ向かう。感動のあまりいきなり抱きつかれるかもしれない。そんな夢想をしながら咲耶に近づいてみれば……。


「さ~く~ら~っ!」


「…………え?」


 地獄の底から響いているのかと思うような恐ろしい音が聞こえた。それが咲耶の可憐な唇から発せられた声だと理解出来ない。そして桜の周りには人が現れぴっちりと囲まれてしまった。咲耶グループの女の子達や茅やその息のかかった者達だ。それが壁となって咲耶と桜を周囲から隠す。


「何故勝手にこのようなことをしたのですか!せめて相談くらいしなさい!」


「え?あの……?驚かせようと思って?」


 褒められたり、抱き締められたり、もしかしたらキスまでされるかもしれないと思っていた桜の予想は完全に外れた。何故相談もなくこんな重要なことを勝手に決めて、一方的に発表したのかと、桜はこのあと散々咲耶に怒られたのだった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 成人男性の意識があることを知らないがゆえに 周囲の人間が空回りしちゃってるな たぶん、咲耶お嬢様が第二次性徴をむかえて女の子たちとイチャイチャしてても周囲の大人たちは思春期の女の子に稀にあ…
2020/06/25 16:49 リーゼロッテ
[一言] 伊吹がバイに生まれ変わった( ˘ω˘ ) 桜君は女の子になって桜ちゃんになってから参戦したらすんなり行ける可能性も(
[一言] 相手側、どいつもこいつも見事に空回ってるなぁ…www そもそもお嬢が男性を好きだという前提が間違っている時点でなぁ…w それに気付けとも直接確認しろとも言わんけど、せめてちゃんとお嬢の意思が…
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