第百七十一話「蓮華と譲葉」
その日、蓮華はソワソワしながら門の外で車が来るのを待っていた。大好きな敬愛する咲耶様。その咲耶様のパートナーとして鷹司家のパーティーに出席出来るのだ。五割の楽しみと五割の不安が綯い交ぜになりながらも、ソワソワしながら迎えが来るのを待ち続ける。
周囲が心配するほど前から外で待っていた蓮華の目に、ようやく超高級なリムジンがこちらに向かってきているのが見えた。それを見ただけで蓮華の鼓動が一気に早くなる。
「どっ、どこか変じゃないかしら?大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよお嬢様」
もう何度目になるかの同じ質問を繰り返す。自分でもドレスのスカートを摘んだりして横や後ろを何度も確かめる。身だしなみは何度もチェックしたはずだが不安はなくならない。それでも車はやってくる。来るまでは待ち遠しかったはずなのに、目の前に迫ってくると大丈夫だろうかという不安が大きくなってきた。
「蓮華ちゃん、御機嫌よう」
優雅に降りて来た咲耶に蓮華は見惚れてしまった。少し大人っぽい落ち着いた色のドレスに、今日は髪をアップにしている。キリッとした表情の咲耶様にはとても良く似合っていて素敵だ。
「ごきげんよう咲耶ちゃん」
後ろからこっそりメイドがチョンと背中を突いてくれたことで正気に戻った蓮華は、何とか返事をすることが出来た。もしメイドが合図してくれていなければずっと見惚れていたかもしれない。
「さぁ、それでは行きましょう」
「はい」
まるで男役のように手を取ってくれる。このまま咲耶にリードされてどこまでもいってしまいたい。そんな妄想をして自分でさらに恥ずかしがる。甘酸っぱい気持ちにいつまでも浸っていたい。しかしそういうわけにもいかず車は動き出す。
「ふふっ!今日だけは私の王子様ですね」
「ちょっ!?蓮華ちゃん!?」
自分でもどうしてこんな大胆なことが出来たのかわからない。ただ車の中で、少し暗い密室で二人っきりだと思うと、蓮華は少しだけ咲耶に体を寄せて腕を取り頭を預けた。
「咲耶様……、私の王子様……」
恥ずかしいくらいに自分の鼓動が高鳴っている。きっと抱き締めた腕から咲耶に自分の鼓動が伝わっているに違いない。それを知られているかと思うと余計に恥ずかしい。でも離れようとは思わない。
咲耶はありとあらゆる面において完璧だ。完璧なる令嬢という他ない。自分達のような中途半端な令嬢達とは違う。
その所作には一切の隙がなく何でも出来る。また運動神経も良くスポーツだけではなく護身術においても大人顔負けだと聞いている。勉強も飛び抜けて優秀で成績は常に学年一位だ。本人はそんなことを言わないし誇らないが、咲耶のテストの成績などをさりげなく見ている薊ちゃんの情報に間違いはない。
咲耶様の唯一と言える問題点は敵が多いこと。五北家の一角である九条家のご令嬢ともなればそれはもう敵も多い。何よりほとんどの者は妬みだ。そのご尊顔も美しく、スポーツ万能、成績優秀、容姿端麗、眉目秀麗、およそ褒め言葉のほとんどが当てはまるのではないかという超人ぶりだ。そんな超人を妬む凡人が多いのは当然だろう。
しかし咲耶様はそのことで怒ることもなければ、鼻にかけて偉そうにすることもない。ただ少し困った顔で苦笑いされるだけだ。だから蓮華も最初は気付かなかった。咲耶様が大変な苦労を背負われていることに……。
確かに生まれがよかったというのはあるだろう。九条家に生まれたということは生まれつきの特権とすら言える。だが九条家に生まれたからこのような完璧なご令嬢なのではない。咲耶様は完璧たろうと血の滲むような、いや、実際に血を流して努力されているからこそ今の咲耶様になられたのだ。
咲耶様を妬む者達も、いや、自分達ですらそのことを忘れていた。咲耶様は完璧なご令嬢だから、と思っていた。
しかしグループの皆は知ったのだ。咲耶様は生まれつき何でも出来たわけではない。完璧なご令嬢たろうと不断の努力を重ねておられるからこそこれだけのものが身に付いている。時には迷い、時には泣き、時には苦しみ、それでも歯を食いしばって耐えておられるのだ。
だからこそ、自分達が咲耶様をお支えしなければならない。一人でどんなことにも立ち向かい、常に立っているのはとても辛いことだ。だから……、せめて自分達だけはいつまでも、何があっても咲耶様の味方でなければならない。お支えしなければならない。
ただ……、ちょっとだけ……、ほんのちょっとでいいからその見返りに……、こうして少しだけ甘えさせてください……。
何でも出来るけど、実は寂しがり屋で、泣き虫で、でも人には泣き顔を見せずに無理をしてでも笑っておられる咲耶様。蓮華の理想の全てを詰め込んだかのような憧れの人。自分が咲耶様の横に立てるとは思っていない。西園寺や徳大寺や正親町三条が周りにいる中で、自分の立ち位置を見誤るほど蓮華も自惚れてはいない。
ただ少しだけ……、せめて今くらいは……、自分だけの咲耶様だと錯覚させて欲しい。せめて今日だけは……。
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茅はイライラしていた。河鰭家の家に迎えに来たというのに相手が中々出てこない。早く行かないと咲耶のパーティー姿を見逃してしまう。茅は一瞬たりとも咲耶を見逃さないようにいつも早めに行って、こっそり隠れて見ているのだ。それなのに河鰭家の娘は事前に訪ねると言っていた時間に到着しても準備が出来ていないという。
もう放って行こうかとすら思うがさすがにそれでは咲耶の印象が悪くなってしまうだろう。譲葉に対してどうこうではなく茅の判断基準は全て咲耶に対してどうかということだ。自分が迎えに行く役だったのに、相手が遅いからと放っていけば咲耶に怒られる可能性が高い。まだ遅れるほど遅いわけでもないから余計にだ。
「正親町三条様ー!お待たせしましたー!」
「本当に待ったわよ!一体いつまで待たせるつもり!事前に時間を伝えておいたでしょう!」
茅は結構本気で怒っているが譲葉には効かない。ほとんどの者なら茅に怒鳴られたら震え上がるだろうが、譲葉はポンポンと茅の頭を撫でた。
「大丈夫だよー!まだ間に合うよー!」
「そっ……、そういうことじゃないでしょう!私の予定が狂うと言っているのです!」
しかし譲葉との会話はかみ合わない。まだ十分間に合う時間なのに何が悪いのかと理解出来ない譲葉と、早く行って咲耶の姿を一秒も見逃すまいと思っている茅では考え方も話も合わないのだ。
車が動き出し茅は明らかに不機嫌だが譲葉は楽しそうだった。何が楽しいのかわからないとばかりに茅は窓の外を見る。しかし譲葉もぴったりくっついて同じ方向を見ていた。
「ちょっと!外を見たいなら向こうの窓から見なさいよ!」
「えー?一緒に見ましょうよー?一人で見てるよりたのしーよー?」
「はぁ……」
茅は額を押さえる。『この子苦手だわ』と思いながらも今更知らないとも言えない。今日一日の我慢だと思って耐えた。
「もう!早くしなさい!」
「大丈夫ですよー。もう着きましたしー」
到着してもスムーズに事が運ばない。車を降りるのもモタモタしているし、降りたら降りたでさっさと歩かない。あちこちを見たり、誰かと話したり、誰かに声をかけられたり、譲葉といると余計なことや脱線が多すぎる。
何より意外だったのは、譲葉がこの場に呼ばれているような上位の家に随分可愛がられているらしいということだ。河鰭家は羽林家の中でも上位の方ではあるが鷹司家のパーティーには呼ばれなかった。もちろん場合によっては呼ばれていてもおかしくはないくらいの家ではあるが、ほとんどの招待客に比べれば一段落ちる。
誰かのパートナーで呼ばれているクラスと同格くらいだというのに、周囲の反応はまったく違った。そこらの羽林家がウロウロしていても見向きもしない上位の家の者達が、譲葉には甘い顔をして声をかけてくる。譲葉も相手が格上の家の主人などだというのに気安く応える。それも誰にも責められない。
普通に考えたらこんな口調や態度で上位の家に接すれば色々と言われてしまうはずだろう。それがない。それだけ可愛がられている証拠だ。天真爛漫な譲葉は打算もなく誰とでも素で接してくれる。だから上位の家の者達も裏や打算を警戒することなく、普通に接することが出来るのだろう。
しかしそれとこれとは関係ない。譲葉が上位の家に可愛がられていようが何だろうが、今は一秒でも長く咲耶の姿を見たいのだ。
「私は一秒たりとも咲耶ちゃんの姿を見逃したくないの!早くしなさい!ほら!もう咲耶ちゃんが到着してしまっているじゃないの!」
「正親町三条様って咲耶ちゃんのこと好きですねー!私も咲耶ちゃんのこと大好きですよー!」
にっこり笑ってそう言う譲葉に……、茅は怒るどころか毒気を抜かれてしまった。譲葉とはこういう娘なのだ。こんな相手にいくら怒ってもがなり立てても意味がない。暖簾に腕押し、糠に釘、何の手応えもなく受け流されてしまう。
「あぁ!咲耶ちゃん!ようやく会えたわね!」
「こんばんわー皆ー」
「御機嫌よう茅さん、譲葉ちゃん」
それでもようやく会いたかった相手に会えて茅の心が躍る。そして、譲葉も今までよりもさらに喜んでいることがわかった。譲葉はいつもニコニコしていて誰にも怒らない。ずっとご機嫌なようにも見えるが、今日色々と関わったことで茅は少しだけ譲葉のことがわかるようになった。
犬に例えるのは失礼だが犬に例えるならば、譲葉は誰かと会った時に尻尾を振って立ち上がって相手が来るのを待っている犬のような感じだ。尻尾も振っているし、今まで寝そべっていたのに立ち上がってこちらを見ていれば、犬が自分を待っていると相手の方もわかるだろう。それならばとよしよしと頭の一つでも撫でてあげる人は多いはずだ。
そして今、譲葉が咲耶を見た瞬間、犬で言えば尻尾をフルで振りまくり、繋がれた鎖一杯まで前に近づこうとしてハッハッハッ、といっている状態になっている。それは主人などが帰って来た時に犬が精一杯喜んでいる姿だ。
そんな譲葉と一緒しているうちに茅にも若干心境の変化があったらしい。折角咲耶と話しているというのに杏の話題など出してしまった。いつもなら自分と咲耶の話しかしない茅が、ついこの場にいない杏のことまで言ってしまった。茅は少しだけ自嘲気味に笑って譲葉のお人好しが移ったかと首を振ったのだった。
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パーティーの終盤で衝撃が走る。鷹司家の許婚候補に九条咲耶を選んだと宣言したのだ。もちろん向こうが勝手に候補に選んだというだけの話で具体的なことは何も決まっていない。それはこれから両家で話し合うという前提だ。
しかしこんな場で大々的にそれを宣言すれば、水面下ではもういくらか話は進んでいると受け取るのが普通だろう。実際には九条家とは何も話し合われていないが、これだけ大々的に言うのだから何らかの話し合いは進んでいるに違いないと、勝手に聞いた方が推測してしまう。そして鷹司家側もそれが狙いだった。
ここで九条家側が否定すればややこしい話になる。そもそも向こうが一方的に候補に決めて、これから話し合いたいと言っているだけなのに、九条家の方から何かいうことでもないだろう。それなら話し合いの場でお断りすればいいだけだ。
何よりこれは九条家にとっても悪い話ではない。近衛家や鷹司家と結ばれることは九条家にとっても大きなメリットであり、咲耶個人の感情ではお断りだったとしても、家や派閥や財閥やグループから見れば良いことだらけだろう。
その後のパーティーでは咲耶の視線は完全に宙を彷徨っていた。誰かに話しかけられても完璧に応じている。一見いつも通りの完璧令嬢がそこにはいた。しかし親しい者が見ればその咲耶の様子がおかしいことは一目でわかる。明らかに茫然自失としており感情が、いや、魂が抜けてしまっている。
何とかしたいとは思うが自分達に出来ることは何もなく、ただ咲耶を気遣うことしか出来ない。そんなパーティーも終わって解散となった。
帰りの車で茅はまたイライラしていた。鷹司のクソガキが余計なことをしたせいでまた咲耶の負担が増えてしまった。許されることなら鷹司のクソガキをこの世から抹殺してしまいたい。
「咲耶ちゃん大変なことになっちゃったねー」
「貴女ね……」
譲葉の暢気な言葉に茅は呆れそうになった。しかしそちらを見て口を噤んだ。
「でも……、私は咲耶ちゃんを支えるって決めたから……、どんなことがあっても咲耶ちゃんを支えてあげるよー。だって私も正親町三条様も咲耶ちゃんのこと大好きだもんねー」
「…………そうね。そうね。良いこと言うじゃない。いいわ。それじゃ私が咲耶ちゃんの正妻だとして、貴女は妾くらいさせてあげるわ。他の子達はまだ愛人としても認めていないけど、貴女は一先ず合格よ」
「咲耶ちゃんのお妾さんかー……。えへへっ。私みたいなのでもそうなれたらいいなー」
「なれるわよ。貴女ならきっと」
そこから会話はなく、ただ静かに車は走っていたのだった。