第百六十五話「距離」
「くふっ……。くふふっ!くふふふっ!」
帰りの車の中で俺は顔がにやけるのが止められなかった。
あ~っ!今日の杏は可愛かったな!ずっとあんな感じだったらきっととても可愛い女の子なのに!普段の性格があれすぎてもったいない。
確かに杏は美人ということはないだろう。杏よりも綺麗なお姉さんはたくさんいる。年齢的にも微妙だ。綺麗なお姉さんというほどの歳でもなければ、可愛い盛りの子供というほどでもない。これから徐々に女性らしくなっていく思春期真っ盛りだろうけど、現時点ではどっちつかずとも言える。
でも杏は可愛い。そう……、俺の周りにはあまりいないタイプだ。
俺の周りにいるのは皆大なり小なりお嬢様タイプの子達しかいない。それは当たり前だ。だって本当にお嬢様だし……。そもそも藤花学園に通っているだけでも全員、世間一般から見れば十分にお嬢様だ。
その中でも五北会に入っている薊ちゃんや皐月ちゃんや茅さんは、本当に飛び抜けてお嬢様と言えるだろう。言い様によっては一国のお姫様に相当しかねない立場とすら言える。他の、茜ちゃん、椿ちゃん、譲葉ちゃん、蓮華ちゃん達堂上家も十分お姫様と呼べるくらい高位だろう。
そんな皆がお嬢様タイプなのは当たり前であり、むしろお嬢様らしくない俺のような奴の方こそが異端だ。俺が社交界などであまり喜ばれないのもその辺りが影響していると思われる。もちろん俺だってわざとお嬢様らしくしたくないわけじゃない。ただ精神的に成人男性である俺は中々お嬢様生活に馴染めないだけだ。
それはともかく、そういった本物のお嬢様達に比べて杏はどちらかと言えば庶民に近い。地下家でも世間的に見れば十分であることは言った通りだけど、藤花学園に通っていれば杏くらいなら普通の一般生徒扱いも同然だ。
俺は前世が一般庶民だったこともあり、杏のあの普通の女の子らしい所がとても合う。あまりにお嬢様らしいお嬢様が相手だと気後れしてしまう。その点、杏なら前世までのノリでも何とか接することが出来る。
顔は綺麗ということはないけど可愛らしくて愛嬌があるタイプだ。そして気質的にも前世の俺に近い。時々暴走するジャーナリストの方の杏はちょっとアレだけど、今日のように照れて恥ずかしがっている普通の女の子をしていたらとても可愛いと思う。
今日の杏とのデートは楽しかったな。まるで前世のような、そういう感じで過ごせたのでとてもリラックスしてデート出来た。もしかしたら俺と杏って案外相性が良いのかな?こちらがガチガチに緊張してしまうようなお嬢様相手よりは良いのかもしれない。
「咲耶様、顔がにやけておられますが」
「――ッ!?もっ、椛っ!?いつからそこに?」
急に声をかけられて飛び上がりそうになった。
「到着してから扉を開けて声をおかけしましたが?」
「あっ……、あぁ……。そうでしたか……」
よく見てみれば車は家に到着しており、ドアを開けた椛がこちらを覗き込んでいた。どうやら到着して声をかけて扉を開けたのに、俺が中々出てこないから中を覗いていたようだ。
俺は平静を装い車から降りる。何かじーっと椛に見られている気がするけど気にしない。ここでこちらから何か言えばきっと余計に面倒なことになるだろう。それがわかる俺は気付いていないフリをして椛の視線をスルーしたのだった。
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休みが明けた月曜日というのはいつも憂鬱だ。ほんの一ヶ月ほど前に長い夏休みが明けたばかりだというのにもう次の長期休暇が待ち遠しい。……ってこともないな。よくよく考えてみれば長期休暇になったらその分だけ百地流の修行が増える。それならまだ平穏な平日の方が良いかもしれない。
「御機嫌よう」
「あっ……、ごっ、ごきげんよう……」
「――ッ!?」
いつも通り教室に入って声をかけると……、返事をしてくれる子がいた!どうせ誰も返事もしてくれないだろうと思っていたからこちらの方が驚いたくらいだ。
やっぱり咲耶お嬢様と打ち解けるには数ヶ月は必要なのかな……。一年生の時もグループの皆以外とは中々打ち解けられなかった。俺が何かしたとかはないと思うんだけど……、何でこんなに咲耶お嬢様は避けられるんだろう?やっぱりゲーム『恋に咲く花』の呪いなのかな……。
まぁともかくようやく返事をしてくれる子が出て来たということで素直に喜んでおこう。ちなみにここで返事をしてくれたからとがっついて話かけに行ってはいけない。そういうことをするとまた怖がられて避けられるようになってしまう。それはもう経験済みだ。
こういう時は焦らずじっくり仲良くなっていくに限る。朝の挨拶だけでも繰り返していけば徐々にでも仲良くなっていけるものだ。こちらが諦めずに挨拶することが肝要だな。
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今日は予約席で昼食を摂る。そういえば五口から寄付の口数が減らないな。もしかしてだけど……、本当は他にもっと寄付が殺到しているのに俺達に配慮して五口分だけ確保しているんじゃないだろうか?そういう不正というか、誰かだけ特別扱いするようなことはよくないと思うけど……。
実際にどうなっているのかは俺には確認出来ない。出来ることなら申し込み人数と口数が公表されて、誰が何口確保したのかも公表された方が良いんだろうけど……。さすがにそれはそれでプライバシーとか個人情報も関わってくる。何でも誰にでも公表されればいいというものでもないし加減が難しいところだ。
「咲耶様、今日は何やら機嫌が良いようですね」
「わかりますか?」
「はいっ!もちろんです!咲耶様のことならば何でもわかります!」
俺がそう言うと薊ちゃんは元気に答えた。薊ちゃんの言っている何でもというのは俺の機嫌とか腹の虫とかそういう類のことだろう。何でもわかるのに何で機嫌が良いかわかってないじゃないかとか、そういう無粋な突っ込みはしてはいけない。
「何かあったのですか?」
「ええ……。まぁ……、それほど大したことではないのですが、先日杏さんと一緒にお出掛けしてお買い物などしまして……」
「えっ!?咲耶様!どういうことですか!?」
皐月ちゃんの言葉に答えていると薊ちゃんが滅茶苦茶食いついて来た。そんなに驚くことでもないだろう?皆とだって何度もお出掛けしている。七人揃ってというのは難しいけど、あれからだって皆と遊んだりお出掛けしたりしているのに何を驚くことがあるというのか。
「少し杏さんに頼み事をしましたので、そのお礼も兼ねて杏さんとお出掛けしたのですよ」
多仁のことは言う必要はない。また多仁の話題を出したら皆怒り出すからね。それにどうして自分達を頼ってくれなかったのかとまた言われる可能性もある。あの後もちょっとそういうことを言われたし……。
「それでは私ともお出掛けしてください!」
話を聞いて薊ちゃんがそんなことを言い出した。でも……。
「薊っ!」
「あっ……、そっか……。ごめんなさい……」
皐月ちゃんが薊ちゃんを呼ぶと何故かシュンとなって引き下がった。いつもの薊ちゃんらしくない。いつもなら俺がウンと言うまで引き下がることなく食い付いてくるのに何かおかしい。
「薊ちゃん?何かあるのですか?」
「え?あ~……、いえ?何も?大丈夫です!」
明らかに怪しい。絶対に何か隠している。でもこの感じからすると追及するなということだろう。人間誰しも追及されたくないことくらいある。そもそも何か悪いことをしたわけでもない。ただ様子がおかしいというだけで無理に薊ちゃんを追及することもないだろう。
「それよりご飯たべよー!」
「そうですね」
譲葉ちゃんが場を取り持ち和ませる。こういう所は凄いと思う。俺だったら変な空気になってしまったらつい引き摺ってしまう。それをガラッと空気を変えてしまえる譲葉ちゃんの言葉は一種の才能だろう。
その後は特に変な空気になることもなく、それなりにおいしい食事を楽しんだのだった。
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サロンではいつもの四人で座っている。薊ちゃんと皐月ちゃんは派閥の人達と話が終わってこちらにやってきた。茅さんも俺達よりは少し遅れてサロンにやってきたけど、派閥の人達と話をすることもなく真っ直ぐ俺の所にやってくる茅さんの方が合流するのは早い。
「咲耶ちゃん……」
「はい?」
何やら今日の茅さんは様子がおかしい。静かというか暗いというか。今も俺にかけてきた声は妙に暗く沈んでいた。何かあったんだろうか?
「杏とお出掛けしたというのは本当かしら?」
「はい。先日の休みに一緒にお出掛けしました」
茅さんも杏とは仲が良いんだろう。いつもロコロー氏とか呼ばれてるし二人は何かと連絡を取り合っているのは間違いない。杏が茅さんに先日のお出掛けのことを話していても何も不思議はなかった。
「どうして!どうしてなの咲耶ちゃん!お姉さんは誘ってくれないのに杏とお出掛けするなんて!」
「いや、あの……、杏さんには少しお手伝いしてもらったことがあるので、そのお礼も兼ねて一緒にお出掛けしただけですが……」
いきなり立ち上がって迫ってくる茅さんが怖くて、少し下がりながら答える。でも茅さんはお構いなしにグイグイ迫ってくる。
「わかったわ!それはもういいの!咲耶ちゃんが杏も侍らそうというのならそれは認めるわ!だからお姉さんともお出掛けしましょう!そう!今すぐ!これから二人っきりで世界一周旅行に行きましょう!」
いや……、意味がわからない……。何で今すぐ世界一周旅行なのか……。椛が茅さんに常識を教えるようになったはずなのに、何一つ改善していないどころかむしろ悪化している気すらする。これは一体どうなっているんだ……?
「正親町三条様、いつまでもそのようなことでは、結局いつまで経っても咲耶様との関係は進展いたしませんよ」
「――ッ!?」
いつもなら茅さんがこんな風になったら立ち上がって止めに入ってくれる薊ちゃんと皐月ちゃんは、今日は涼しい顔をして座ったまま茅さんにそう言った。その言葉に驚いたのは茅さんでも皐月ちゃんでもない。俺だ。
気性が激しく直情径行な薊ちゃんなら、茅さんがこうなったらいつもはもっとギャーギャー言いながら参加してくるというのに……、今日の薊ちゃんはまったくいつもの薊ちゃんらしくない。一体どうしてしまったんだ?俺にはまるで薊ちゃんが別人に変わってしまったような印象すら感じられた。
それはとても良いことのはずだ。つい感情的に口や手が出てしまう薊ちゃんは良く言えば素直でわかりやすいけど、それが原因で揉め事も起こしてしまうトラブルメーカーでもある。その薊ちゃんがこうして落ち着きを持つようになったのは良いことのはずだ……。
だけど……、何だろう……。何かこう……、うまく説明出来ないけど……。ああっ、わかった。あれだ。いつも自分が帰ってきたらすぐに尻尾を振って寄って来てくれる子犬が、自分が帰って来ても見向きもしなくなった時の寂しさ、みたいな?
何だか今日の薊ちゃんはお昼といい、今といい、咲耶お嬢様にあまり興味がなくなったのかなと思うような印象を受ける。前までならすぐに庇ってくれていたのに、関わってきてくれていたのに、今日は何だか一歩引いてまるで興味がないかのような態度にも見える。
さっきも言った通りそれは良いことのはずだ。薊ちゃんが精神的に成長してくれたというのなら俺はお友達としてそれを喜ばなければならない。それなのに何だろう……、この寂しいような何とも言えない気持ちは……。
俺って本当に勝手な奴だよな……。鬱陶しく構われたら嫌になるくせに、その癖相手が構ってこなくなったら寂しく感じる。実に自分勝手だ。
でも……、もし薊ちゃんが咲耶お嬢様に興味がなくなったのだとしたらとても寂しい。
「そっ、それでは茅さんも、薊ちゃんも、皐月ちゃんも、今度また一緒にお出掛けしませんか?全員揃っては無理でしょうけど、それぞれ空いている日にでも……」
「すみません咲耶様……。私はしばらく予定が空きそうにないので……」
「ごめんなさい咲耶ちゃん。私も当分の間は無理そうです」
「そう……ですか……」
薊ちゃんにも、皐月ちゃんにも断られて……、何というか……、ぽっかり胸に穴が空いたような気分だ。誘ったのに断られるっていうのはとてもショックなことなんだな……。俺だって散々人の誘いを断ってきたくせに、自分が少し断られたからってこんなにショックを受けているなんて……、本当に自分勝手な奴だ。
「それじゃ咲耶ちゃん!お姉さんと三回お出掛けしましょ!ね?それがいいわ!そうしましょう!」
「茅さん……、お出掛けは行きましょう。でもとりあえず一回ですよ」
「この二人がいらないと言ってるのだからその分お姉さんとお出掛けしてくれてもいいでしょう?」
何やかんやと食い下がってくる茅さんを一回のお出掛けで納得させるのに、その後三日を要したのだった。