第百五十九話「放送」
咲耶が色々な準備を行なってからすでに数日……、まだ何も進展はなくこのまま多仁教師とのことも有耶無耶になるかと思われた。
その日の体育の授業は運動会の種目別にそれぞれ練習を行なっていた。咲耶は数名の他の代表と共に中距離走の練習だった。
陸上競技では400m走までを短距離走とし、それ以上となる800m走から中距離走となる。しかし運動会では元々短距離走という競技があり、特別に設定された400m走のことを中距離走と呼んで区別している。元々ある短距離走より長い距離を走る競技という意味で、運動会だけ特別に中距離走と呼んでるだけであり、それが陸上競技の定義と一致しているわけではない。
そんな400m走の練習をしていると多仁は咲耶の下へと近づいてきた。その顔は明らかに不機嫌な顔だ。走り終わってゴール位置に居た咲耶に声をかける。
「九条!どこが怪我をしているから走れないだ!嘘をついたな!十分走れているだろう!この嘘つきめが!今日放課後に視聴覚室に来なさい!」
多仁は相手の話を聞くこともなく一方的にそう捲くし立てた。もう態度を取り繕うこともしていない。他の生徒達の前で一方的に嘘をついたと決め付け、あからさまに怒る。そうだ。それは子供を躾ける意味の叱るではなく、ただ感情のままに怒りをぶつけていただけだ。
咲耶は特に反論することもなく了承する。
確かに周囲が見ていても咲耶はぶっちぎりの一番だった。圧倒的な実力差だ。怪我がどうこうと言っていたがそれが影響しているようには見えない。しかし……、それは咲耶が元々圧倒的な実力差を持っていたから、怪我で多少タイムが落ちても結果が変わっていないに過ぎない。正確にタイムを計れば確実に遅くなっている。
だが咲耶はそのことで反論したりすることはなく、素直に多仁の言うことを受けた。それを見て多仁は悦に入った表情で頷くと他の生徒達の所へ移って行った。
今の一連の出来事は、ただ単に多仁が他の生徒達の前で九条咲耶を堂々と怒鳴るという姿を見せ付けたかっただけだ。その結果多仁の自己顕示欲は満たされ、生徒達は九条家にまであれほど言える多仁には逆らわない方が良いと大人しくなる。全て多仁の狙い通りだった。
「九条さん、何かあったの?」
短距離走の練習のために別の場所で走っていた錦織は、騒ぎに気付いてからやってきた。しかしすでに事は終わった後であり、何となく何かがあったことはわかっても具体的に何がどうなったのかはわからないままだった。
ちなみに結局リレーの男子代表は近衛伊吹に決まった。タイムの良い方が代表に相応しいということになり、過去のベストタイムから伊吹が代表となった。ただしそのベストタイムは去年のものであり、現時点でも伊吹の方が速いかはわからない。結局の所は近衛家のボンボンが代表になるという結論ありきの決め方だった。
それでも錦織は文句も言わず、タイムの負けていた自分が悪いと今も猛練習に励んでいる。この裁定も多仁が決めたものであり、伊吹がリレー代表に決定するという結論ありきだったのだが……。
クラスにも多仁のやり方がおかしいと思っている生徒は何人かいたが、ほとんどの生徒は自分に害がないのなら興味はないとばかりに放置していた。
「いえ、何も問題ありませんよ」
そう言ってにっこり微笑む九条咲耶に、錦織柳はゾクリと寒いものを覚えた。
その表情はいつもの笑顔と変わらない。思わず見惚れそうになるほど可愛い笑顔……、のはずだ。しかし……、その顔はまるで何かに出てくる悪者のいやらしい笑いのような……、そんな印象を受けた。
そんなことがあっても時間が止まるわけではない。授業はそのまま進み、やがて放課後になる。
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放課後、視聴覚室へとやってきた咲耶は声をかけて中に入る。多仁は先に来ており咲耶を待っていた。
「ようやく来たか。少しそこで待っていなさい」
そう言いながら多仁は今咲耶が入って来た扉に向かうと内側から鍵をかけた。咲耶はただじっとその様子を見詰めている。
「何故呼び出されたかはわかっているな?」
「わかりません」
平然とそう答える咲耶に多仁の怒りは爆発した。
「先生に向かって何だその態度は!この!図に乗るなよ!クソガキが!」
バシンッ!
と乾いた音が響く。咲耶に詰め寄った多仁はその顔を思いきりひっぱたいた。
「お前を呼び出したのは、手を怪我しているから運動会の競技を優遇しろと嘘をついたお前を罰するためだ!そんなこともわからないのか!このっ!大体こんなもの仮病だろうが!」
バシンッ!バシンッ!
と乾いた音が続き、咲耶の顔が右に左に大きく動く。そして左手に巻かれた包帯をギュッと掴む。するとジワリと包帯に血が滲んできた。明らかに左手は怪我をしており、今多仁に無茶されたために傷口が開いて血が出ている。それでも多仁は左手をグリグリと握るのをやめない。
「私は競技を決める時に優遇して欲しいなどとは言っておりません。手の怪我があるのでバトンのあるリレーは辞退することを伝えただけです。そして普通に他の人と同じように第一希望を選んで決めさせて欲しいと言っただけです」
両頬を何度も殴られながら、それでも咲耶は真っ直ぐに多仁を見詰め返しながらそう言った。それがますます多仁の怒りに火をつける。
「黙れ!その目をやめろ!偉そうにしやがって!俺は……、俺は名門大学を卒業したエリートだぞ!お前達みたいにただ生まれが良いというだけで偉そうにしているクソガキが!俺を見下した目で見ているんじゃない!お前達が偉いんじゃねぇんだよ!親が偉いから金持ちなだけが!生まれに胡坐をかいているだけの世間知らずのクソガキが!」
いつの間にか……、平手打ちは拳に変わり、バキッ!ドカッ!という音に変わっていた。
「表面的には綺麗事を言っておきながら、お気に入りの生徒にはえこ贔屓をし、気に入らない生徒は差別し成績を意図的に低くする。そしてこれが貴方の本性というわけですか?」
「うるせぇ!それの何が悪い!教師だって人間なんだよ!ゴマをすってくる奴を可愛がるのは当たり前だろうが!言うことを聞かないクソガキを低く評価するのは当たり前だろうが!俺の言うことを聞かないからそれだけ成績が下げられるんだよ!当たり前だ!教師は神だ!生徒に何をしても許されるんだよ!それが教師だ!悔しかったらお前も教師になってみろ!」
バキッ!ベキッ!
と音が続き、パタパタと血が飛び散る。しかし……、多仁は何やら背筋が寒くなってきていた。
(何だこの手応えは……)
多仁はそう思わずにはいられない。確かに思い切り殴っているはずなのに……、妙に手応えがない。確かに派手な音が鳴り響き、九条咲耶は口や鼻から血を撒き散らしている。そのはずだ……。それなのに手応えが妙に軽い。
しかし……、多仁がそのことを詳しく考えている暇はもうなかったのだった。
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今日も校門の外で待機していたマスコミは、まだこの時間なら九条咲耶が出てこないのを知っている。それでも先に来て待っているしかない。いつも出てこないからといって今日も絶対にすぐ出てこないとは限らない。放課後になる前には来て、いつ出てきても良いように待機しておかなければならない。
でもどうせまだ出てこないから……。そんな弛緩した空気が流れていたマスコミ達は、聞こえてきた音声に一気に身構えた。
『何故呼び出されたかはわかっているな?』
『わかりません』
『先生に向かって何だその態度は!この!図に乗るなよ!クソガキが!』
その尋常ではない会話に一斉にマスコミはカメラを回して録画を始める。藤花学園のあちこちのスピーカーから音が流れ、教室中のテレビやディスプレイから映像が流れる。屋内用だけではなく、グラウンドに向けられているものや、ロータリーに向けられているものまで全ての出力装置から、その音声と映像は流れていた。
「えっ、え~!ご覧下さい!今突然藤花学園から流れ始めた音声と映像です。こちらからでは少し遠いですが、カメラのアップで映っているでしょうか?どうやら今現在あの女子児童が教員に体罰を受けているようです!」
「こちら現場です!緊急生放送で藤花学園の様子を中継しております!」
各局のスタッフはその映像をカメラで撮影すると同時に、生放送の番組のコーナーを切り替えて一斉に報道を始めた。
その問題の映像は無抵抗な女子児童が男性教員に殴られている場面だった。最初は平手打ちだったものが、次第にエスカレートして拳で何度も何度も女子児童を殴っている。包帯を巻いた左手を握られ血が滲み出し、殴られた顔からパタパタと血が飛び散る。あまりにショッキングな映像に世間のお茶の間は一瞬にして凍りついた。
「あの殴られている女子児童は、今我々が追いかけている噂の生徒のようです。殴っている教員の動機は今本人がしゃべっている通りなのでしょう。何という身勝手な犯行!こんなことが許されて良いのでしょうか?」
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視聴覚室の外では他の教員達が詰め掛けていた。恐らく鍵がかけられているであろうことは予測済みだったので鍵も持ってきている。扉方向でガチャガチャしている音に気付いた多仁は咄嗟に咲耶を後ろに隠し扉の方に向き直る。
「多仁先生!一体これはどういうことですか!?」
「何を慌てておられるのでしょうか?私には何のことだかさっぱり……」
負傷している九条咲耶さえ見つからなければどうとでもなる。そう思っていた多仁はとにかく咲耶が出てこないように後ろに隠しながら、乗り込んできた他の教員達に取り繕う。
「多仁先生!貴方が九条さんに暴行を働いていたのはもうわかっているんですよ!」
学園側は連日外にマスコミがいることも、この映像や音声が恐らく外にまで流されているであろうことも把握している。だから自分達の言動にも気をつける。ここで迂闊なことを言えば自分達にまで跳ね返ってきかねない。それに比べてそんなことなど露知らずの多仁はまだ誤魔化せると思って恍けていた。
「なっ、何のことだか……、私にはさっぱり……」
ズバリ指摘されてうろたえながらも、それでもまだ恍けようとする。
『先生に向かって何だその態度は!この!図に乗るなよ!クソガキが!』
「――ッ!?」
後ろから突然聞こえた音声に多仁は驚いて振り返る。そこにあったのは……、何かのプレイヤーのような機械を持った咲耶だった。そこから先ほどのやり取りの音声が流れ続けている。それはボイスレコーダーだった。
「これでも……、恍けられるおつもりですか?多仁先生?」
「――ッ!――ッ!」
驚愕に目を見開いた多仁は何か言おうとして、何も思いつかずに言うことは出来なかった。咄嗟にこの状況をどうにか出来る素晴らしい言い訳など思いつかない。
「こっ、このクソガキが!お前が!お前が俺を嵌めたんだ!全部お前の仕組んだことだったんだろう!」
多仁はもう一度手を振りかぶる。しかしそれが振り下ろされることはなかった。
「取り押さえろ!」
「放せ!放せぇ~~!」
飛んできた他の教師達に取り押さえられた多仁は連れて行かれる。そしてここまでの映像と音声は全て記録され、しかも生放送で全国にまで届いている。今更なかったことになど出来ない。
この放送直後は確かに被害者の方の備えが良すぎる。教師を罠に嵌めたのではないかという噂も一時流れた。しかしそれは担任の多仁が度々あのようなことを繰り返しており、それを告発するためにとある生徒が証拠を掴むために用意していたのだと真相が報道された。
それによって多仁を擁護したり、殴られていた生徒の方が教師を嵌めたという論調はなくなった。
そしてその証拠を掴むために活躍した生徒、藤花学園で写真・新聞部なる活動を行い、日夜スクープを追い、悪事を暴いてきた美少女ジャーナリスト『今大路杏』もまた大々的に有名になった。
その報道姿勢から各社のマスコミからも注目され、将来は是非自分の会社に入って立派なジャーナリストになってもらいたいという報道がなされた。
そして……。
「九条様に今回のことを持ちかけられた時は驚きましたけど……、うまくいってよかったです!」
「そうですね。杏さんのお陰で予想以上にうまくいきました。多仁が自分から視聴覚室を場所に選んでくれたことも都合がよかったですね」
多仁は防音の効いている視聴覚室を指定した。それは自分の悪事が露呈しないようにとの判断だった。しかし逆に場所が指定されれば罠を張りやすい。呼び出される場所がわかった咲耶は杏に連絡して録画用の機器などの用意を頼んだ。またそれを外部に流すことも頼んでいる。
そして防音の効いている視聴覚室では、外に放送されていてもその音が中に入ってこない。多仁は自分の悪事が全校に流されていることも気付かずに自ら墓穴を掘った。
「それにしても九条様、お顔は大丈夫っすか?」
「ええ……。全治一ヶ月です……」
そう言いながら咲耶はオーバーなくらいに処置の施されている自らの顔に少し触れた。実際にはほとんど怪我はしていない。派手な音がするように殴られてはいたが、ギリギリで力を逸らしていたので表面を叩かれた程度のものだ。若干唇や鼻が切れて血が出たがそれ以外は大したことはない。
しかし……、痛々しい包帯に包まれた咲耶の姿を見て、誰がそんなことを言えるだろうか。
多仁は退職ではなく懲戒解雇となり、九条家から出された被害届で警察にも捜査されることになった。こうして咲耶の狙い通り、多仁教師は全国にその顔と名前を知られることとなり、社会的に完全に抹殺されることになったのだった。