第百四十九話「お菓子作り」
夏休みに入り、蕾萌会の夏期講習を受けている。でも正直俺にはこの手の集中講座はあまり意味がない気がする。普通の子供ならこういう長期休暇の間に塾で予習や復習をして勉強に励むんだろう。でも俺は今の所成績は満点ばかりだ。試験でたまにケアレスミスはあっても、成績は最上位。
そりゃそうだろう。一応大学まで出た俺が、塾と学園で復習までしながら小学校三年生の問題をやってるんだ。解けない方がおかしい。それはいいんだけど、俺は日頃からもっと先の……、今は中学三年の内容を塾で習っている。
毎日常に予習復習をしているわけで、こういった長期休暇の間に二学期対策とかで予習してもあまり意味はない。菖蒲先生もそれがわかっているから、夏期講習でも俺に三年の二学期の授業をしたりはしない。
ただ両親は俺は今普通に三年生の勉強を習っていると思っているだろう。だからこういった講習にも出るようにと言われてしまう。
菖蒲先生とたくさん会えるのはうれしいけど、こんなに毎日何時間も蕾萌会に入り浸っていてもすることがない。菖蒲先生も授業を工夫してくれているけど流石に限度がある。
もちろん毎日というのは言葉の綾で、百地流の道場にも行ってるし、他の用事がある時もある。ただ学園に通っていた時間が丸まる余るわけで、その分を百地流と蕾萌会が埋めている。そんなに時間があっても次々進みすぎるのも問題だし、平日通りでも授業は十分なのにこんなにやることがない。
「咲耶ちゃんの場合は進みすぎてもねぇ……。やることがなくなってきてしまったわ……」
「そうですね……」
まだ夏休みも前半だというのに早くもすることがない。もっと先へ進んでいけばいいと言えばそうかもしれないけど、ただ次々に先に進めれば良いというものでもないだろう。菖蒲先生と二人でどうしようかと頭を捻るけど良い答えはない。
「う~ん……。そうだ!ねぇ咲耶ちゃん」
「はい?」
何か思いついたらしい菖蒲先生の方を見てみれば、何か悪戯っぽい笑みを浮かべていた。これはあれだな。あまり良いことじゃないな。きっと悪いことを思いついたんだろう。そんな顔だ。
「どうせだから今度の授業はサボって出かけましょうか?」
「…………え?」
塾の講師がそんなことを言っていいのか?と思ったけど、菖蒲先生の話を聞いているうちに段々俺もその気になってきたのだった。
~~~~~~~
今日は菖蒲先生と一緒に蕾萌会の講習をサボる日だ。いつもより地味めで、安物で、汚れても目立たず、気にならない服を着てきた。この服を指定した時に椛に変な顔をされたけど気にしない。こちらが堂々としていれば、多少不審に思ってもそれだけのことだ。無理に椛が追及してくることはない。
「マスター?いる?」
「は~い!入ってきて!」
以前菖蒲先生に連れてきてもらった住宅街にある普通の民家のような喫茶店。今日はここに来ている。実はあれから何度も菖蒲先生とこの喫茶店には来たことがある。
マスターは幸徳井緋桐さんという名前で、幸徳井家はなんと地下家の一つだ。菖蒲先生の高辻家は堂上家だし、ここら一帯は上流階級の金持ちしかいないのか?と言いたくなる。
まぁ仮に菖蒲先生は良いとしよう。蕾萌会はお金持ちのボンボンが通う高級な塾だ。そこで働くスタッフや講師も堂上家や地下家でも納得はいく。それなりの者でなければあそこで講師なんてしてられないだろう。
でもさぁ……、こんな普通の民家で喫茶店をしている家が地下家だって誰が思うよ?まぁ緋桐さんは地下家じゃなくて嫁入りしてきた一般人らしいから、九条だの高辻だの幸徳井だのはわからないし無関係なんだろうけど……。
よく旦那さんが喫茶店なんて許してるなとも思わなくはない。でも地下家はまぁ……、古い名門というだけで特別社会的地位が高いわけでも、お金持ちなわけでもない。その辺りから考えたらまぁ普通なのかな、とも思う。もちろん中にはお金持ちの地下家もいるし、特別な地位にいる者もいるけどね。
そんなわけで俺と菖蒲先生は時々この喫茶店に通ってるけど、緋桐さんは特に俺達だからどうこうということもなく、普通の客として接してくれる。でも今日はただの客じゃなくて別の目的のためにやってきた。緋桐さんが言う通り俺達はカウンターを越えて中へと入って行く。
「ごめんね。ちょっと準備に手間取っちゃって。さ、もう準備出来てるから始めましょう」
「は~い!」
「よろしくお願いします」
何か菖蒲先生が子供みたいな返事をしながら手を上げている。俺の方をジロリと見ていたから、多分俺に合わせて子供っぽくしてくれたんだろう。でも俺は普段からそんな感じじゃないでしょ?そんな目で見られても知らないよ?
「それじゃ早速作っていきましょうか……。咲耶ちゃんはエプロンや三角巾は?」
「うちでは用意出来る環境ではなかったので菖蒲先生にお借りする約束をしていましたが……」
「あはは……。私も忘れちゃって……」
「はぁ……、これから調理をするのにエプロンも三角巾も持ってこないとは……。手作りお菓子を舐めていますね!」
「「ごめんなさい……」」
緋桐さんに怒られて菖蒲先生と二人でシュンとなって謝る。そう!今日はこれから緋桐さんと菖蒲先生と俺の三人でお菓子を手作りする!
まぁ俺は料理初心者だし、男だからあまりお菓子作りとかに興味はない。今までチャレンジしたこともないし、やろうと思って調べたこともなかった。でも夏期講習があまりに暇だからということで、菖蒲先生が緋桐さんの所でお菓子を手作りしようと言い出した。
緋桐さんにも協力をお願いして、お店の開店時間をずらしてもらって場所を借りて作り方を教えてもらうことになった。
今日作るのは初心者でも簡単だと言って緋桐さんが選んだクッキーだ。クッキーなんて本当に料理も初心者の俺に作れるのか不安でしかないけど、緋桐さんが大丈夫というんだから信じよう。これでも喫茶店を経営して手作りを出しているプロだ。プロの手助けがあると思えば出来る気がしてきた。
「仕方ないわね……。それじゃこれを使って!準備は出来てるから始めるわよ!」
「「はいっ!」」
緋桐さんの指示で俺達は動き出したのだった。
~~~~~~~
まずは無塩バターを常温でやわらかくしてからホイッパーでよく混ぜる。次にそこへ砂糖を入れてよく混ぜる。白っぽくなるまでひたすら混ぜる。そこへ卵黄を加えて混ぜる!
次は薄力粉を分けて入れてから切るように混ぜる!三回くらいに分けて薄力粉を入れながら、切るように混ぜる!混ぜる!
そう……、ひたすら混ぜるばかりだ……。こんなのでいいのか?これで合っているのか?これでおいしいクッキーが出来るのか?
お菓子作りなんてしたことがない俺にはわからない。何か最初からずっと混ぜてばかりだ。何かやや粉っぽい気もするし……、これでいいのか?ある程度纏まるようにボールに押し付けたりしながら何とか混ぜ混ぜして……、緋桐さんに言われるままに何回か折り重ねてからラップに取り出す。
綺麗に包んで、四隅まで生地を伸ばして冷蔵庫に寝かせる……。
「こっ、これでよろしいのでしょうか?」
「そうよ。それじゃ冷やすのに時間がかかるから次にいきましょうか」
女性の細腕じゃ混ぜるのは大変だったかもしれないけど、本当にこんなことでクッキーが出来るのだろうか?何か不安しかない。でも緋桐さんはまた次の生地を作ろうとし始めた。どうやら次々作っていくらしい。冷やしている間一休みとはいかないようだ。
「いい?お菓子作りはレシピを守ることが大切よ。量りもせずに目分量で作っても失敗するわ。きちんと量って、きちんと時間を守る。これが大切よ。絶対にきちんと量ってね!」
「はいっ!」
いつもののほほんとしたマスターと違って、お菓子作りをしている時は鬼教官になるようだ。最初の分は緋桐さんが先に用意してくれていたけど、次の分は自分で量って作っていく。レシピ通りにそれぞれ量って、時間も守って、生地を作って、冷蔵庫で寝かせる。
「それじゃそろそろ最初の生地は良いわね。次に行きましょう」
先に冷やしていた生地を三十分以上寝かせてから取り出し、ラップの上に置いて、麺棒で伸ばす。3mmくらいに均一に伸ばしたら、型を抜いていく。型を取り終わったら完成だ。型から抜いた生地はクッキングシートの上に。残った生地はまたこねて形を整えて再び冷蔵庫で寝かせる。
残った生地を寝かせている間に、後で作った生地を伸ばして、型抜きして、残りを整えて、冷蔵庫で寝かせる。あとはひたすらこの繰り返し。生地がなくなるまでたくさん、たくさんのクッキーの型を抜いた。
「オーブンは温まってるわよ。焼いていきましょう」
「はいっ!」
170℃まで温めておいたオーブンに入れてあとは焼くだけ。焼けてくると段々おいしそうな匂いがしてきた。ただ混ぜてただけなのに……、何か匂いだけ嗅いでいるととてもおいしそうな匂いに思えるから不思議だ。
「最初の分が焼けたわよ。冷ましている間に飲み物を淹れるわね。コーヒーと紅茶でいいかしら?」
「「はいっ!」」
緋桐さんが飲み物を淹れてくれるのを待つ。クッキーは焼きたてで熱いからまだ食べられない。冷ましながら飲み物を待っていればいい。緋桐さんは要領良く次のクッキーも焼いている。ただ遊びでお菓子作りをしたわけじゃなくて、お店で出すためのクッキー作りに混ぜてもらった感じだ。だから量もそれなりにある。
「それじゃいただいてみましょうか」
クッキーも冷めて、飲み物も用意出来た。まだ次々と焼いてるけど、焼いている間は待つだけだからこの間に味見をしようというわけだ。
「いただきます……」
まだ出来て間もないクッキーを一つ慎重に摘んで……、半分ほど齧りつく。
「おいしいっ!?」
口の中でサクサクとしてほんのり甘くておいしい。甘すぎない程度に砂糖を少なめにしてるから子供にとっては物足りないかもしれないけど、俺や菖蒲先生や緋桐さんには丁度良いだろう。
「本当!おいしいわね!」
「先生も咲耶ちゃんも初めてにしてはよく出来たわね。偉いわ」
作ってる間は鬼教官と化していた緋桐さんも、こうして飲み物を飲みながらお菓子を食べているといつものマスターの顔に戻っていた。
「って、え?菖蒲先生も初めてだったんですか?」
「えへっ……。実はそうなの」
そうだったのか……。まぁ堂上家のご令嬢だしね。上流階級でも料理が出来る人はいるし、お菓子作りが趣味の人だっている。でも別に出来なくてもどうということはない。花嫁修業として家事や料理が……、と言われることはないから出来ない人もいるだろう。
「そろそろココアを入れた方も食べられると思うから、オーブンを見てくる時に持ってくるわね」
「ありがとうございます」
このあと三人で普通のバタークッキーやココアクッキーを食べてからお開きとなった。俺と菖蒲先生には自分達で作ったクッキーがお土産としてラッピングされて持たされている。喫茶店のオープン時間をずらしてもらったけど、今日もオープンするそうで常連客達もすでに並んでいるようだ。
ここもそんなにお客さんが多いわけじゃないけど、開いてないと開いてないでお客さんが並ぶらしい。いつまでも俺達がいたらお店が開けられないから、お土産を持って帰ることにする。
「すみません。それではこれからオープンしますね」
「マスター、今日はありがとう」
「緋桐さんありがとうございました」
外に出ると常連客が待っていたからさっと離れてから緋桐さんにお礼を言う。緋桐さんはこちらに手を振ってくれてから店を開け始めた。
「どうだった?たまにはこういうのも悪くないでしょう?」
「そうですね……。とても楽しくて……、出来たクッキーもおいしかったです」
菖蒲先生と二人でニッコリ笑い合って並んで帰る。いつの間にか手まで繋いでいた。先生が言う通り、こういうのも悪くない。
~~~~~~~
「マスター、さっきの子、芸能人か何かだったかな?」
「え?小さい女の子ですか?違いますよ~。確かに芸能人より綺麗ですけど普通の子ですよ」
開店した喫茶店に常連客が入ってそんなことを言う。確かに咲耶はそこらの芸能人なんて目じゃないほどに綺麗な女の子だが、別に有名人ということもない普通の女の子だ。あんな綺麗な子を見たら芸能人と勘違いしてしまっても止むを得ないかもしれないが、本人はそういうことを言われたら嫌がりそうだなと緋桐は思った。
「そう?どこかで見たような気がするんだけどなぁ……。まぁコーヒーとお薦めで」
「はい」
客の注文通りにすぐにクッキーが出て来た。今日のお薦めは手作りのクッキーらしい。一つ齧って常連客は感想を口にした。
「へぇ。今日のクッキーはおいしいね」
「さっきの子達と一緒についさっき焼いたばかりですからね。あの子達が作ってくれたんですからおいしいでしょう?料金は一枚千円ですよ」
「高いな!?」
「ふふふっ。あの子達が作ったんだからそれくらい当然でしょう?」
マスターと常連客はそんな冗談で盛り上がる。常連客はペラペラと読んでいた週刊誌をポンと棚に戻してマスターと世間話を始めた。置かれた週刊誌『週刊Flies gather』にはデカデカと見出しが出されている。その記事は……『ついに発覚!百地流古舞踏最後の弟子は九条グループご令嬢九条咲耶!』という見出しが躍っていた。