第千四百話「木花咲耶姫」
春休みもそこそこ日数が経ってしまった。でも俺はまだ燃え尽きたままだ。そう簡単に次の目標や目的を決められるものじゃない。いや、そもそもそういうことをしようとすら思えないのが燃え尽き症候群だ。だから俺はダラダラと毎日を過ごしている。
確かにグランデや蕾萌会という習い事がなくなって百地流の修行しかしていない。当然ながら習い事がそれだけ減れば時間に余裕が出来るというか、今までに比べて暇に感じるのは当然だろう。また高等科も卒業したので宿題もないし次に向けた勉強もない。二年生から三年生になる時の春休みに比べて暇で何もないと感じるのは当たり前の話だ。
ただ……、そういうことじゃないんだよなぁ……。まるで胸にぽっかり穴が空いたような、何をしていてもやる気が出ないというか身が入らないというか……。
「咲耶様……、大丈夫ですか?」
「え?……大丈夫ですよ」
椛が気遣わしげにそっとそんなことを聞いてきた。もしかしたらボーッとしているのが体調不良に見えたのかな?そうだとしたら余計な気を使わせてしまった。
「咲耶様はこれまで忙しすぎたのです。今は少しくらい休んでも良いのですよ」
「……え?」
少しくらい休む?俺は今までだって十分休んで……、いや、違うな。そういうことじゃないんだな。
確かにこれまでだって休日とかに休んでいた。でも常に何かに追われるような焦燥感のようなものがあったように思う。何をしていてももっとやらなければ、もっと頑張らなければという強迫観念じみたものを自分で勝手に感じて、自分で自分を追い詰めていたのかもしれない。今はその焦燥感や強迫観念がなくなったんだ。
俺が今感じているぽっかりしたものは何かをなくしたからじゃない。これはアレだ。余裕だ。今までは一瞬の余裕もなく常に張り詰めていたものが、卒業パーティーを乗り越えたお陰で緩んで余裕が生まれた。それを何だか空虚とか燃え尽きや喪失のように感じていただけだ。
椛に言われたお陰で冷静に考えてみればこの状態は何も悪いことじゃない。むしろこれが人として本来あるべき状態なんだ。今までが張り詰めすぎで今こそが通常である。椛にそう言われてスッと気持ちが楽になった。
「ふふっ。ありがとうございます椛」
「いえっ!咲耶様の飛び切りの笑顔いただきました!こちらこそご馳走様です!」
「えっ!?ちょっ!?椛!大変です!鼻血が出ていますよ!」
「大丈夫です!」
「大丈夫ではありませんよ!早く治療に行きましょう!」
急に鼻血を垂らし始めた椛を連れて医務室に向かう。外はまだ寒いけど室内は暖かい。メイドとして仕事で出入りしていると急激な温度差を何度も繰り返して鼻血が出てしまったのかもしれない。
「大丈夫です!」
「大丈夫ではありませんから!早く行きましょう!」
大丈夫だと言い張る椛は一人で医務室には行きそうになかった。だから俺が無理やり手を引いて椛を九条家の医務室へと連れて行ったのだった。
~~~~~~~
今日はついに皆と卒業旅行を計画していたその日だ。今日から俺達は卒業生だけで卒業旅行に行く。他の学年の子達がいない代わりに同級生は鬼灯や鈴蘭、ひまりちゃんやりんちゃんなど勢揃いとなっている。ただ同級生のような顔をしていたけど一学年下である百合と、百合の教育係である躑躅は含まれていない。
もっと前に打ち解けたり予定が分かっていれば、百合はともかく躑躅は一緒に行こうと思えば行けただろう。皐月ちゃんが旅行に行くんだしそれを教えていれば躑躅も絶対行くと言っていたと思う。でも残念ながら躑躅や百合と親しくなったのはもう旅行の予定が完全に決まった後で、躑躅に合わせてこちらの予定を動かせなくなってからだった。
それに百合もギリギリまでどうなるか分からなかった。もしかしたら本当に俺達と一緒に卒業して大学に進学となっていたかもしれない。百合の予定というか進学についてがもっと事前に分かっていればまた別の結末もあったのかもしれないけど、それを俺達が知ったのは本当に卒業寸前だったから対応のしようもなかった。
結果として躑躅は百合と一緒に残ることになり、百合に卒業旅行のことを言うと色々とゴネそうなので内緒にするということで俺達だけで行くことになった……、んだけど……。
「さぁ九条様!私の準備は万全ですよ!さぁ!行きましょう!さぁ!さぁ!」
「え~……、入江先生?」
「九条様はもう高等科を卒業されました!そして私は来年度から藤花学園大学の助教です!ですから先生と呼ぶのはおかしいですよ!枸杞って呼んでください!さん、はい!」
「え~……、それでは入江さん……」
「枸杞って呼んでください!さん、はい!」
「え~……、入江さん……」
「くこって呼んでください!さん、はい!」
駄目か……。これは呼ぶまで無限にリピートされるに違いない。
「え~……、枸杞さん……」
「んほぉぉぉ~~~っ!!!九条様の可憐な唇から私の名前が!」
「えっ!?ちょっ!?大丈夫ですか?入江さん!?」
「枸杞って呼んでください!さん、はい!」
あれぇ?壊れたレコーダーかな?いつまでも繰り返していても話が進まない。でもそう思って実際に呼ぶと何故か急にビックンビックンして話も出来なくなる。これは一体どうすれば良いんだ?
「咲耶様、このような変態を相手にする必要はありません。この者はストーカー規制法違反なので逮捕して通報しておきます。咲耶様はお気になさらず予定通りにお出掛けください」
「あらぁ?どなたかと思ったら変態の椛さんじゃありませんかぁ?貴女が私のことを変態だの変質者だのストーカーだのと言って嫌うのは同属嫌悪だからでしょう?ね?変態の椛さん?」
「私と貴女が同じだとでも言いたいのですか?ですがそんな挑発など無意味です。私は唯一咲耶様に選ばれた咲耶様付きのメイドなのですから!」
ああ、そうか。分かったぞ。俺達が旅行に行くと枸杞と椛が暫く会えなくなってしまう。友達同士である二人だからその前に会いに来たということか。二人の邪魔をするのも無粋だし椛が言うように俺は席を外した方が良さそうだ。
「それでは入江さんは椛に御用があるようなので私は席を外しておきますね。出発までは椛の自由時間にしますのでお二人で過ごしてください」
「く・こって呼んでください!さん、はい!」
う~ん……。何故か枸杞にがっちりと手を掴まれている。それに若干指同士を絡めてニギニギされている気がする。これは所謂恋人繋ぎというやつでは?
「え~……、手を放していただけないということは私に御用があるのでしょうか?」
「あっ!そうでした!皆さんで卒業旅行に出掛けられるんですよね?いくら高等科を卒業したとはいえ皆さんはまだ子供です!そうなると引率が必要ですよね!ですから私をお連れください!私が保護者として引率いたしますから!」
何故枸杞が俺達の旅行の日程を知っているんだ?とは言うまい。椛と枸杞は友達同士なんだしそういう話くらいしているだろう。椛からしたら『仕えてる我儘お嬢様が今度旅行に行くから引率しなくちゃいけなくって~』なんて話を友達にしているのかもしれない。
もしそうだとすると枸杞は椛のその話を聞いて、日頃から俺の世話をして疲れているであろう椛を休ませてあげるために引率を交代してあげるとわざわざ来てくれたのかもしれないな。
「それは椛の要望ということでしょうか?」
「違います!私がこの者にそのようなことを頼むはずがありません!こんなストーカーにそんなことを頼めば咲耶様にどんな悪戯をするか分かったものじゃありませんから!」
「さすが同属!考えることは同じってわけね!」
「誰が貴女なんかと同属ですか!私は咲耶様のことを敬愛しているのです!」
やっぱり椛と枸杞は仲良しだな。菖蒲先せ……、菖蒲さんや茅さんとも昔からこういう感じだったけど今は二人とはもう少し落ち着いた関係だ。それに比べたら枸杞との掛け合いはまるで初期の菖蒲さんや茅さんとの絡みのようで懐かしく思える。椛も最初のうちは友達になりたての人にはいつもこういう態度になってしまうんだろうな。
「ふふっ」
「九条様の素敵な笑顔いただきました!」
「あっ!?入江さん、鼻血がっ!?」
「くっこって呼んでください!さん、はい!」
そんなこんなで卒業旅行に出発するまで枸杞がなんやかんやと言うのでずっと三人で騒ぐことになったのだった。
~~~~~~~
「おはようございます咲耶様!」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
「御機嫌よう皆さん」
大半の皆が何台かの車に乗り合わせで九条家のロータリーにやってきた。移動は車だけどそれぞれ一台に乗っていると無駄だし移動中に会話も出来ずに暇な時間になってしまう。そこで数台に分乗して目的地に向かうことになっている。そのため九条家の車が皆を迎えに行っていた。全ての車が戻ってきたのでこれで全員揃ってようやく旅行に向かえる。
「今更だけど本当に旅行は古都で良かったの?私達は助かるけどさ」
「……ん。私達の里帰りに合わせてもらって申し訳ない」
鬼灯と鈴蘭は申し訳なさそうな顔をしていた。確かに古都へと向かう。古都旅行なんて学園からも何度も行っているし、向こうに縁のある家がほとんどだから個人的な旅行でも何度も行っている人ばかりだろう。でも何も鬼灯達のためだけに古都に行くことにしたわけじゃない。
「そもそもお二人の里帰りのために古都に行くわけではありませんし、古都自体の滞在日数も僅かですから」
確かに古都方面へは向かう。だけどずっと古都に居るわけじゃない。数ある目的地のうちの一つに古都が含まれていて、折角だから鬼灯と鈴蘭にはその間に実家への里帰りでもしてもらおうというだけのことだ。二人のために古都に決めたわけでもなければ、二人のために滞在するわけでもない。
むしろ俺達は一泊とか二泊しかしない。二人は実家に残りたいのならばそのまま俺達が帰路に着くまで実家で滞在しておいてもらっても良い。その間に俺達はもっと西まで行って、帰りに二人を拾って帰っても問題はない。
「さぁ!それでは出発しましょうか!九条様!」
「ところで咲耶様……、どうして入江先生がここに居るんですか?」
「え~……、引率を希望されているそうで同行すると言われているのです」
枸杞は自費で勝手に俺達の旅行に付いて来ると言っている。勝手に付いてこられるのは色々と思う所もあるけど、本人が自費で旅行をしているだけなら俺達がとやかく言えることじゃない。
「まぁどうせこういう手合いが湧いてくるだろうとは思ってましたから良いですけどね……」
「それじゃー出発だー!」
「「「おーっ!」」」
こうして俺達は椛と柚と枸杞の引率で卒業旅行へと出掛けたんだけど……。
「お~っほっほっほっ!偶然ですわね咲耶お姉様!わたくしこれから旅行へ行きますの!まずは古都まで!お~っほっほっほっ!」
「さすが百合様です!あっ!言っておきますけど別に九条様のことを追いかけてきたわけじゃありませんから!勘違いしないでくださいね!」
「九条様こんにちわ~」
「はぁ……」
サービスエリアで休憩をしているとそんな高笑いと一緒に百合と躑躅と朝顔が合流してきた。本人達はあくまで偶然行き先と日程が俺達と同じ旅行を計画していただけだと言い張っている。そして……。
「あぁ!咲耶ちゃん!こんな所で出会えるなんて運命なのだわ!」
「咲耶たんと長官の運命の出会い頂きっす!」
「九条様のせいで私まで巻き込まれました~!」
カシャカシャカシャッ!とフラッシュが焚かれる。次の休憩時には茅さんや杏、睡蓮達がやってきた。
「咲耶お姉様!偶然ですね!」
「咲耶お姉ちゃん!秋桐だよ!」
「ええ。御機嫌よう。凄い偶然ですね」
また次の休憩場所では竜胆に連れられた秋桐達がやってきた。休憩する度に誰かに出会い、『偶然同じ目的地』で『偶然同じ日程』なので、折角だからと連れ立って移動を再開する。
「ここが今日の宿泊場所ですが……」
「「お待ちしておりました咲耶お嬢様」」
「お疲れ様でした咲耶お嬢様」
「お荷物をお預かりいたします」
一日目の宿泊宿は九条家が経営しているホテルだ。そこに到着してみれば海桐花や蕗、李や射干達行儀見習いが全員揃っていた。
「ふぅ……。ふふっ。結局こうなるのですね」
「「「あははっ」」」
「まぁこんなことだろうと思ってましたよ!」
「まぁねぇ……」
皆も同じことを思っていたようだ。何だか俺も結局こうなるんじゃないかと思っていた。
……あれ?そう言えば俺は……、今……、前までの空虚や燃え尽きを感じていない。やっぱり……、俺は皆とこうしていると余計なことは忘れて素の自分のままで居られるのかもしれない。そんな落ち着いた状態だからパーティーまでの焦燥感も、パーティー後の燃え尽きも、全て跳ね除けられるんだろう。
やっぱり俺は皆とこうしていつまでも一緒に居たい。いつか別れは来るだろう。ひまりちゃんは大学で、他の子達だって大学は同じでも卒業したらバラバラになってしまう。それでも……、俺は皆と……。
「咲耶様」
「はい?」
椛に呼ばれたから振り返った瞬間
『CHU』
「…………え?」
「あっ!」
「「「あぁ~~~~~っ!!!」」」
今……、椛と……、唇が……。
「ちょっと椛さん!ついにやりやがりましたね!」
「ふふん!もう十八を超えて高等科も卒業したのですよ?分かりますか?これからはもう十八歳未満お断りのことも全て解禁なのです!」
俺……、椛と……、ファースト……。
「あ~!あ~!そうですか!そういうことを言いますか?だったら良いですよ?こっちにも考えがありますから!」
「そーだぞー!それならこっちだって旅行中に咲耶ちゃんの初めてを貰っちゃうぞー!」
「上から下から、前から後ろから……、咲耶ちゃんの全ての初めてを……」
「ぬっふっふっ!」
「――ッ!?」
今何か悪寒が走った……。もしかして風邪の引き始めかな?
「椛さんは唇の初めてを奪ったんですから他は遠慮してもらいますからね!」
「何を言っているのです。それらは全て咲耶様が捧げたいと思う相手が受け取るのです!そしてその相手は私をおいて他にいません!」
何か皆がワイワイ言い合っているけど頭が真っ白で何も入ってこない。俺……、しちゃったんだ……。椛は……、初めてじゃないよな。こんなに綺麗で素敵なお姉さんなんだ。俺の知らない所で誰かと数々の恋愛をしてきたはずだよな。というかそもそも今のだって事故でたまたま唇同士がぶつかってしまっただけでそういう意味じゃないだろう。それは俺が中身男で椛とそうなりたいと思っているから勝手にそう思っているだけだ。椛にそんなつもりはない。
「絶対に逃がしませんよ、全ての花の主、咲耶様。いいえ、私の木花咲耶姫」
「椛……?」
今椛は何て言ったんだ?
「咲耶様!セカンドでも良いので今から私ともしてください!チューッ!」
「ちょっと薊!こんな所で駄目よ!」
「そーだぞー!順番も決めずに勝手にするなんてズルイぞー!」
「九条様……、大学が別になってしまう私にも思い出をください……」
「あっ!ちょっと向日葵!その言い方はズルイでしょ!咲耶様ならそんなこと言われて迫られたら断れないのを分かっててやってるでしょ!」
「藤原さんも強かになってきましたね……。私も負けてられません!九条様!私のプニプニをプニプニしてください!」
「花梨のそれもズルい!それでなくとも咲耶様はそのプニプニについ手が伸びるのに!」
「「「「「あははっ!」」」」」
あぁ……、また何かいつものように滅茶苦茶になってしまった。でも俺達はいつもこうなんだよな。だから……、大学に入っても、いや、大学を卒業して皆がバラバラになってしまっても……、俺達のこういう関係はこれからもずっと続くに違いない。
そして……、それを失わないために俺はこれからも前まで以上に精進して近衛連合や近衛靖子やトム・ヴォルトンと戦っていかなければならないんだ。まだ近衛連合との戦いは終わっていない。燃え尽きてる場合じゃなかった。
「この人生を守るためにも……、燃え尽きている暇なんてありませんよね」
「え?咲耶ちゃん?」
「咲耶様?何か言われましたか?」
「ふふっ。いいえ。何も?」
「早くお部屋に行こうよ!咲耶お姉ちゃん!」
「そうですね……。それでは行きましょうか」
いつまでもホテルの前で騒いでいるわけにもいかない。立ち止まってる場合じゃなかった。だから……、俺はまた歩き出そう。結局この世界が何なのか。どうして俺が咲耶お嬢様の体でここに生まれ変わったのかは分からない。だけどいつか笑ってこの世界から旅立つためにここからまた歩き出そう。
ここまで読んで頂きありがとうございました。ようやく完結と相成りました。
約四年、千四百話・千四百十七部+人物紹介、七百五十六万文字超、文字数の多い順・三十四位の超長編の連載になるなど作者ですら開始当時には思ってもいなかったことでした。
色々とご挨拶などもしたいとは思っておりますが、こちらに長々と書くものでもないと思いますので細かいお話は活動報告の方でしたいと思います。
繰り返しになりますがこれほどの長編をここまで読んで頂きありがとうございました。またいずれどこかでお会い出来ればと思います。それではまたいつかどこかでお会い出来ることを願って。