第千三百九十五話「逮捕」
「九条ホールディングスへの敵対的買収に関するインサイダー取引及び売り浴びせ等による株価操縦行為により証券取引法違反で逮捕状が出ています」
「馬鹿なっ!?」
「ちょっと……、私達じゃなくて向こうの捜査をするはずでしょう?」
「どういうことですか、近衛様?」
捜査員達に囲まれた三人……、トム・ヴォルトン、近衛靖子、澤令法はうろたえた様子で目の前で広げられている令状を見詰めていた。恐らく頭の中には入っていないだろう。ただ突きつけられているから何となく見ているだけだと思う。もし俺があの立場になったらそうなるだろうから気持ちは分かる。
自分達が九条家や九条グループの捜査のために呼んだと思っていた捜査員達が、まさか自分達に向かって令状を突きつけながら逮捕すると言っている。そりゃ一体何を言われているのか理解出来ずに固まるだろう。
「彼らの罪状を調べるために来たんじゃなかったかい?」
「我々は自分の仕事をするために来ただけだとお伝えしたはずです。ご同行願いましょうか」
トムは捜査員にひょうきんそうにそう問いかけた。しかし取り付く島もなくぴしゃりとそう言われて顔を顰めた。今までどこか飄々としていたトムが初めて感情を顕にしたとも言える。
「私の弁護士を呼んでくれ。弁護士が来るまで私は何もしゃべらない」
「「…………」」
それ以来何も言わなくなったトムに捜査員達はお互いに無言で頷き合ってから慌しく動いていた。
「九条さん……、どういうことかしら?」
「どうもこうも私は知らないよ。どうしてこうなっているかは近衛さん、いや、靖子さんの方こそ良く分かってるんじゃないかな?」
父に声をかけてきた近衛母に対しても父はニコニコしたまま答えていた。そりゃ逮捕される本人の方こそどうしてそうなっているか分かっているはずだよな。今捜査員達が逮捕しようとしているのは近衛靖子とトム・ヴォルトンだ。二人には自分が逮捕される理由が分かっているだろう。
近衛母とトムに突きつけられた令状……。先ほど読み上げられていたインサイダー取引と株価操縦的行為が証券取引法違反だと言われていた。
インサイダー取引とは株に関する情報を得られる立場に居た者がその情報を利用して株取引を行い利益を得ることだ。
一番分かりやすいのは証券会社の社員や証券取引所の職員だろう。どこの株が新規に上場されるとか、上場廃止になるとか、新株を発行する、自社株買いするなどの予約や予定を知っている。その情報を業務上知り得る。その業務上知り得た情報を利用して自分自身で取引を行い利益を得るとインサイダー取引として証券取引法違反となる。
でも何も証券会社や取引所の関係者だけがインサイダー取引となるわけじゃない。他にも自社の役員が新株発行を予定していたり、自社株買いの予定を知っていてそれを利用して取引を行い利益を得ることもインサイダー取引となる。
また他社の情報であっても何らかの有利になる情報、そう……、例えばどこかの会社がどこかの会社に敵対的買収を仕掛けるなどの情報を知った上で一緒にそれに乗って株の売買をして利益を得ることもインサイダー取引となる。
近衛靖子とトム・ヴォルトンは近衛フィナンシャルグループが九条ホールディングスにTOBを仕掛けるという情報を知っていた。それを利用して自分達も株の売買に絡み利益を上げた。それは明確なインサイダー取引だ。
それからもう一つ。売り浴びせ等による株価操縦的行為。これもTOB絡みのインサイダー取引を利用して利益を得ることに関係している。
株には『空売り』というものがある。自分は今株を持っていないのにまず先に売りから入れるのだ。普通なら自分の持っている株を売ったり、人が持っている株を買ったりするものだと思うだろう。でも株は自分が株を持っていない状況からでも売りから入れる。
現在株価が高騰していて、将来必ず下落すると分かっていたら、その株を持っていなくとも高値の時に売りを出して売ったことにし、下落した後で買って売った株に充てればその差額で儲けることが出来る。まるでイカサマや詐欺のような手法だけどこれ自体は合法だ。ただ問題なのはこれが絶対当たるかどうかという部分だろう。
値段が下がると思って先に売りから入ったのにその後も値が上がり続けて売った先に株を渡さなければならなくなった時、自分が損をしてでもその株を買って売り先に渡さなければならない。だから絶対に今がピークだとか、今後絶対に下がると分かっていなければこれだけで儲けることは出来ない。でもそれが分かっていたらどうだろうか?
近衛フィナンシャルグループが九条ホールディングスにプレミア価格でTOBを仕掛けることを知っていれば……、こんな分かりやすく絶対勝てる勝負はないだろう。
例えば一株百円の九条HDの株を近衛FGが一株百二十円でTOBを仕掛けるとする。この時点で百二十円までで株を仕入れていれば近衛FGのTOBに応じて売却すれば差額の分だけ利益が出る。
この時に自分が一株百十五円で大量に売りに出せば、世の中の誰かが百二十円で売れる株だから百十五円で買っても百二十円で売って五円の差額が出るから儲かると思って買ってくれるかもしれない。近衛母やトムはこの時に空売りで大量の売りを出す。世間の誰かは近衛母やトムが売った空売りを買ってくれる。
やがて近衛FGは株が予定通り集まらないことでTOBを取り下げる。TOBは取り下げたら買取しなくて良いので応募しようとしていた一般の株主達は売り損ねる。百二十円のプレミア価格で売れるからと思って株を買い集めていた一般投資家や株主達はその株が丸々自分の手元に残ってしまうわけだ。そこで近衛母とトムがさらに大量の売り浴びせをする。
売り浴びせとは特定の株の価格を下げる目的で大量に売り注文を出すことだ。元々プレミア価格で買い取って貰えると思って通常百円の株をそれよりも高く買っていた。それなのにその株の売り注文が殺到したらどうなるだろうか?九条HDの株を買ってしまった投資家や株主は損失を抑えるために少しでも高い間に売ろうとますます売りが殺到することになる。
そうすると本来百円だったはずの株価は適正を突き抜けて下落する。それでも少しでも早く高く売り抜けようと売りが殺到するだろう。そこを空売りで株も持っていないのに売りまくった近衛母とトムが株を九十円台で買い戻す。
空売りによってプレミア価格で百十五円で大量に株を売り、TOBの失敗と売り浴びせによって下落した九十円で株を買い戻す。これだけで近衛母とトムは多額の利益を得られるというわけだ。
もちろん例として簡略化して言っただけだからここまで単純な話じゃないだろう。これほど露骨にやれば捜査関係者だって馬鹿じゃないんだからすぐに気付く。もう少し迂回したり誰かを通したりして行ったりここまで単純ではないとしても、二人がやったことの大まかで単純化された理屈というのはこういう話だ。
この近衛FGがTOBを仕掛けるという情報を知っていて利用したことがインサイダー取引となり、空売りから売り浴びせによって価格を意図的に引き上げたり引き下げたりしたことが株価操縦的行為ということになる。
「話が違うじゃないですか近衛様!これで九条家を破滅させられるって言うから僕は協力したのに!」
「黙りなさい!」
パンッ!と乾いた音が響いた。近衛母に詰め寄って喚いていた令法は近衛母に頬を打たれて固まってしまっている。
「くそっ!くそっ!僕を馬鹿にして!このババアが!九条家を破滅させるのは僕だ!九条咲耶様を!あの強く気高い九条咲耶様をボロボロにして!路頭に迷わせて!体を売らせて穢して!穢して!穢してやるんだ!」
「あぐっ!あっ!あぁ……」
頬を打たれた令法はいきなり近衛母の首を絞め始めた。咄嗟のことだったからか、近衛母も良い歳の女性だからか、令法に首を絞められるままで碌な抵抗が出来ていない。
「やめろ!取り押さえろ!」
「「はっ!」」
「放せ!僕は……、僕はぁ~~~っ!!!」
やがて捜査員達に取り押さえられた令法はそのままズルズルと引き摺られながら連れて行かれた。それをホールの人間は呆然としたまま見送った。
「ゲホッ!ゲホッ!……ハァ、まったく……、自分の思い通りにならないことがあったからってすぐに暴力に頼るなんて野蛮な証拠ね。堂上家の質も落ちたものだわ」
「近衛様……」
令法が何故あそこまで九条家の破滅に拘るのか良く分からない。あのまま普通に家を継いでいれば一生安泰なのに澤家を潰してまで九条家を道連れにしたいなんて正気じゃないんだろう。でもそんな令法に偽の証拠の捏造やこっそり仕込むなんて犯罪に加担させておいてその言い草はないんじゃないかと思う。
「澤令法に同情の余地はありませんが、彼にあのような行動を取らせたのは近衛様にも責任があるでしょう」
「責任?ハッ!ちゃんちゃらおかしいわね。あの子があんな行動に出たのはあの子の考えによるものよ。私が私の首を絞めるように言ってやらせたわけじゃないわ。そして仮に私がそう指示して実行したのだとしても実行したのは本人の責任でしょ」
なるほど……。近衛母とは根本的に相容れないとは思っていた。でもここまで俺とすれ違っているとはな……。
もちろん本人の行動の最終的な責任は本人にある。他人に誰かを殺してこいと言われたからといって本当にその相手を殺してきたら殺人罪は殺人罪だと思う。でもそれをさせた者にも責任はあるし罪になる。あいつに指示は出したけど自分は手を出していないので知りませんは通らない。
令法があんな風になるまで追い詰めたのは近衛母だ。相手を散々挑発しておいて、いざ実際に殴られたら相手が一方的に悪いと言うのは通らない。殴られるまで相手を挑発したのだとしたら挑発した方にも相応に責任がある。もちろんだからといって先に手を出した方が悪くないとは言わない。それとこれとは別問題でありどちらにも問題と責任があったという話だ。
近衛母は自己責任、実力主義などが徹底していてその辺りが俺とは価値観や考え方として違うのかもしれない。
「それにしても……、私とトムがインサイダー取引で捕まるなんてよほどの証拠でもなければ有り得ないと思うけど?一体どうやったのかしら?」
「…………」
近衛母の問いかけに何も答えられない。いくら近衛靖子とトム・ヴォルトンの歩調がぴったり合っていたとしても、それを共謀であるとして逮捕というのは中々出来ないだろう。仮に将来的にこの件で捜査が入るとしても相当な状況証拠を積み上げなければ逮捕まではいけないと二人も思っていたに違いない。
実際そうなるところだったし、場合によっては捜査すらされなかっただろうからな……。決定的な証拠が出るまでは……。
前世でもその手の逮捕というのは中々出てこなかった。よほどの状況証拠でも積み重ねない限りはインサイダー取引で捕まえるというのは難しい。もちろん単純な馬鹿で露骨にやって捕まる奴は居た。でもそれはやった本人の手口が単純で丸分かり過ぎた場合だけだ。
何度もこの手の捜査を逃れた『聞いちゃった』人が捕まり、しかも有罪を受けたのは投資業界でも大きなショックだっただろう。それくらいこの手の事件で逮捕して有罪までいくというのは珍しい。ましてや近衛財閥やヴォルマートの実質トップの二人が、こんなスピード捜査、スピード逮捕となるのは異例中の異例だろう。
「俺様だよ……」
「伊吹?」
俺や父と向かい合っていた近衛母の後ろから……、暗い声で話しかけながら近づいてくる影があった。それは……、近衛伊吹だ。そして伊吹の隣には……。
「あぁ……、広幡の……。貴方の手引きのお陰ってわけね」
「いや、それは違いますよ。確かに多少の手伝いはしましたけど明確な証拠を手に入れて出したのは伊吹一人の手柄です」
近衛母は水木がやったと思ったんだろう。でも水木はきっぱりそれを否定した。確かに水木なら隠密の真似事とか潜入捜査とかその手のこともある程度出来るのかもしれない。でも……、今回近衛母とトムの共謀の証拠を掴み提出したのは伊吹だった。伊吹がその証拠を持って垂れ込みをしたからこんなに早く捜査が進んだんだ。
「…………そう。飼い犬に手を噛まれた気分ってこういうものかしら」
「クソババア!俺様はお前なんかに飼われた覚えはない!」
「…………」
「…………」
近衛母と伊吹は無言で見詰め合っていた。それは親子の見つめ合いとは思えないような剣呑な雰囲気だ。それにあてられたのかは知らないけど捜査員達もしばし二人の様子を固唾を飲んで身守っていた。でもいつまでもそうしているわけにもいかない。
「それじゃご同行願いましょうか」
「ええ」
「…………」
やがて……、近衛母は捜査員達に連れられてホールから出て行った。近衛母のことだからすぐに保釈されるだろうし罰金や追徴金は課せられるだろうけど実刑とはいかないと思う。裁判になっても精々執行猶予だろう。でも……、ここに近衛財閥の実質的経営者とヴォルマートの経営者が逮捕された。
まだこれで全てが終わりというわけじゃないけど……、最後の幕切れは何とも呆気ないものだ。