第千二百九十五話「一条夫妻との会談」
一条夫妻はサロンの窓から頬被りをした姿で入って来た。色々と突っ込みたいけど我慢する。これが同級生や友達だったら突っ込んでいただろう。でも今日の会談相手である一条夫妻に俺達のノリで突っ込みを入れるわけにもいかない。
「あっ……。もしかして敵に姿を見られないようにこのような姿で?」
「いえ。玄関までは普通に来られていました。頬被りもされておりませんし正面から堂々と来られましたよ」
「そうですか……」
俺の予想は柚の解説によって否定されてしまった。わざわざ敵に『一条邸で会談をする』なんて偽情報を掴ませておいて実際には九条邸で会談をするくらい慎重だったから、もしかして九条邸にも裏からこっそり入ってきたとかそういうことかと思った。でも柚が言うにはそうではなかったらしい。
一条夫妻は正面から堂々と九条邸にやってきた。そしてサロンの前まで来たけど俺達、いや、椛と百合が楽しげに会話しているのを見て、『姉妹水入らずを邪魔してはいけない!』と言って頬被りをして温室の方へ回って会話を盗み聞きして喜んでいたらしい。
「君が娘の百合を欲しいと言っている九条咲耶さんだね。随分大きくなった」
「本当に。以前お見かけした頃はまだこんな小さかったのに月日の経つのは早いものですね」
「はぁ?」
いやいや……。夫人の方が『こんな小さかった』って言って示したのは人差し指と親指の間に収まるくらいの大きさだった。そんな小さい時って母のお腹の中の頃しか有り得ないだろ!俺は一応社交界で一条夫妻と会ったことがあるぞ!向こうは忘れてるのかもしれないけど俺は覚えている。
「って、いやいや!今何か聞き捨てならないことをおっしゃられませんでしたか!?」
何か俺はスルーしてはいけない言葉を聞いた気がするぞ。俺が百合を欲しいとか何とか。そんなことは言った覚えはない。人に言ったこともないし俺が心の中で思ったこともないことだ。
「そうかね?私は九条咲耶さんが百合のことを欲しがっているから近衛家の小倅との婚約を阻止して自分が連れて行こうとしていると聞いたがね?」
それどこの誰情報ですか!?全然違いますけど!?
「近衛様と百合ちゃんの婚約を阻止、もしくは既に結ばれているのであれば破棄をさせたいとは思っております。ですがどうしてそれが私が百合ちゃんを欲しがっているという話になっておられるのでしょうか?」
「はっはっはっ!そりゃあ、花嫁を攫っていくなんて花嫁が欲しいから以外に何かあるのかい?」
「いや……、あの……」
だからそれはドラマとかで式場に乗り込んでいって花嫁を連れて逃げるっていうやつですよね?俺は別にそんなことをした覚えはないししようとも思っていない。ただ百合に望まぬ結婚をして欲しくないと思っているだけだ。しかもそれが沈むのが目に見えている泥舟である伊吹との結婚だなんて黙って見ているわけにはいかない。
俺は百合に不幸になんてなって欲しくない。百合が望んで結婚するというのなら茨の道でも応援するけど、本人は嫌だと思っているというのに実頼の陰謀のために伊吹なんかと望まぬ結婚をさせられるというのなら全力で阻止する。
「それとも何かね?うちの娘は可愛くないと?一度も欲しいと思ったことがないと?」
「それは……」
俺ははっきりと答えられなかった。どうなんだろう?自分の胸に手を当てて問いかける。俺が中身男だとか咲耶お嬢様の肉体だとか、前世とか今生とかそんなことを全部考慮せずにただ百合のことをどう思っているのか。そのことだけを突き詰めて考えてみれば……。
「私は……」
「んん~?うちの娘は可愛いだろう?欲しいと思ったことの一度や二度や百度くらいあるはずだよねぇ?」
「私は……」
実際の所どうなんだ?俺は百合のことをどう思っている?ただの手のかかる妹のようなものか?違うだろう?
俺は今俺の周りに集まってくれている皆のことが大好きだ。それは友達としてとか同性として……、ではなく、恋愛対象として考えて『好き』とか『愛している』に当たると思う。
皐月ちゃんも、薊ちゃんも、蓮華ちゃん、譲葉ちゃん、茜ちゃん、椿ちゃん、芹ちゃん達同じクラスの皆のことも、茅さんや杏などの上級生達も、竜胆や秋桐達下級生も、海桐花や蕗達行儀見習いの子達も、椛や菖蒲先生達大人達も、そして百合達やデイジー達も……。四組五組の鬼灯達や……、主人公、藤原向日葵や花梨だって……。
今まで俺はこの感情を隠して誤魔化そうとしてきた。これはいけない感情なんだって思おうとしてきた。でもそんなことで人の感情を隠し切り、忘れることなど出来るはずもない。どんなに取り繕ったって俺が皆のことを恋愛対象として好きなことは隠せないし覆せない。
その中で誰が一番好きとか、誰に告白するとか、そういうつもりはない。皆大切な子達であって誰かに告白したり、誰か一人とだけ結ばれるつもりはないんだけど、こうしてはっきりと百合のことをどう思っているのか、本当に欲しいと思ったことがないのかと言われたら俺は何も答えられなかった。
「貴方、そんな言い方をしては何も話せなくなってしまうでしょう?それにその話をする前にすることがあるでしょう?」
「む?そうだったな……。一先ずこのことは置いておくか……」
俺に迫ってきていた百合の父親は一度俺から離れると夫婦揃って椛の前に移動した。それを目で追って……、ようやく『しまった!』と気が付いた。俺が反応出来ていない間にもう椛の前に立たれてしまった。一体何をするつもりなのか。何を言うつもりなのか。慌てて止めようと思った俺の目に飛び込んできたのは……。
「すまなかった!」
「ごめんなさい」
「「……え?」」
俺も椛もポカンとすることしか出来ない。何しろ一条夫妻が揃っていきなり椛に向かって土下座をしたからだ。まだ頬被りも取らずにしたままだから捕まった泥棒が土下座をしているようにしか見えない。そんなシュールな絵面ではあるけど笑えない。あの一条夫妻が……、椛に向かって土下座で頭を下げている。これは一体何だ?
「許してもらえるとは思っていない。しかしこれはけじめだ。本当にすまなかった、椛」
「「…………」」
俺も椛も固まったまま動けない。あまりに予想外のことすぎてどうすれば良いのか咄嗟に分からなかった。
「お父様もお母様も!まずはその頬被りを取るべきですわ!そして落ち着いて座ってくださいまし!」
「「「「…………」」」」
俺達全員がどうして良いか分からず固まっていると百合がそんなことを言った。そのお陰で一度空気が緩んだ。
「ふぅ……。一条様、まずはお座りください。落ち着いて話をいたしましょう」
「ああ。そうだな……」
こうして仕切り直しとなった会談に向けて一度気持ちを落ち着けてそれぞれの席に着いたのだった。
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百合のお陰で一度全員落ち着いた。サロンでテーブルを囲んで座ってお茶を飲む。お茶を飲んでほっと一息ついてから考える。色々と聞きたいことも話したいこともある。でもまずは向こうの話を聞いた方が良さそうだ。椛も当事者になっているから一緒に座ってもらっている。今のうちに椛の件も片付けた方が良い。
「え~……、それでは改めまして、お久しぶりでございます一条様。九条咲耶でございます」
全員がお茶を飲んで落ち着いたのを見計らってまずは挨拶から入る。初対面ではないので名乗るのも変だけど長い間会っていなければ顔や性格の印象も変わっているだろう。久しぶりに会った相手に初対面ほどではないけど簡単な挨拶や自己紹介をするのは何もおかしくはない。
「ああ、久しぶりだね、咲耶さん。君は幼かったから覚えていないかもしれないが私は一条実道だ」
「お久しぶりね、咲耶さん。私は実道の妻、一条順子です」
丁寧に名乗ってくれたけど最後に会ったのはそんな幼い頃じゃなかったので当然覚えている。そもそもで言えば初等科入学前に俺が記憶を取り戻して以来会った相手は全員『幼い頃に会った相手』ではなく、もう十分に大人としての意識を持ってから会った相手なんだけどそれは俺以外には誰にも伝わらない。
それを除いても一条夫妻とはパーティーで何度か顔を合わせていたから二人が思っているほど昔でも幼い頃でもないと思うけど、大人からしたら初等科や中等科の相手なんて子供の頃だと思ってしまうものかもしれない。
「お~っほっほっほっ!わたくしは一条百合ですわ!お~っほっほっほっ!」
「この場で一条を名乗っても良いものかはわかりませんが、戸籍上は一条椛となっております」
「「「…………」」」
何故か俺達の挨拶に続いて百合まで自己紹介をはじめ、それを受けて最後の一人である椛も頭を下げた。ただその言い方にトゲがあるというか、一条家に対する距離のようなものを感じてならない。それは一条夫妻も同じだったようだ。
「いいんだよ……。いいんだよ椛……。君は間違いなく一条家の娘だ。今まで本当にすまなかった!」
「ごめんなさい椛さん……。虫の良い言葉だとは分かっていますが今からでも……、もう一度家族としてやり直せないかしら?」
「私はもう九条家に尽くす身です。今更一条家になど戻ることは出来ません」
「「…………」」
一条夫妻の謝罪に椛はぴしゃりと言い切った。俺としては椛が残ってくれる方がうれしい。でもそれは俺の勝手な望みであってそれが椛の幸せとイコールとは限らない。椛も九条家への恩義などでこう言っているのだとすればそれは一度忘れて冷静に考えてみて欲しい。
「椛……、まずは一条様のお話を聞いてみましょう?判断するのはそれからでも遅くはないはずです」
「咲耶様がそう言われるのなら……、話だけは聞きましょう」
椛はまったく納得していないという顔でそう言った。でも取り付く島もなく断られずに済んでまだマシだった方だろう。椛は決めたら絶対に譲らない部分がある。その椛にしては長年恨んでいた父親や継母の話を聞くと言っただけでも態度が軟化したと言えるだろう。
「それじゃ……、少し長い話になるけど聞いてもらえるかい?そうだな……。まずは……」
実道と順子はどこか遠くを見るような表情を浮かべながら昔のことを語り出した。
「私は一条本家の嫡子でね。幼い頃、いや、あるいは見方によっては生まれる前から順子と結婚することが決まっていたと言っても過言ではなくてね」
「私は一条家の分家の生まれでそれはもう生まれた時からこの人と結婚するために育てられましたよ」
それ自体はよくある話だ。そもそも近衛母もうちの母も分家筋の娘で本家に嫁いでいる。しかも政略結婚だからといって仲が悪いということもなく、むしろ生まれた頃から結婚することを前提に一緒に育ってきているから仲が良いとすら言える。
まぁ中にはそうやって育てても仲が悪くなる夫婦もいるだろうけど、少なくともうちの両親は今でもラブラブなくらいだ。近衛母だってあんな年齢になってから山吹を産むくらいには旦那との仲も良いんだろう。この一条夫妻もとても仲睦まじく見える。
「でもそこに九条家との政略結婚の話が持ち上がったんだ」
「「「…………」」」
それだけを聞くと仲睦まじかった実道と順子の間に政略結婚で割り込んできた邪魔な女が現れたように聞こえる。そう言われて椛は表情を硬くしていたけど何も言わずにまずは実道の話に耳を傾けていた。
「相手は九条家の分家筋の娘……、咲耶さんのお母さん、頼子さんの従妹である九条紀子が私の政略結婚の相手に選ばれた」
名前は知っていたけどこうして改めて当事者に話を聞くとなんとも言えない気持ちになる。俺からすれば紀子さんの方も政略結婚で嫌々嫁がされたのかと思うと一条家や実道に対して良い感情は持てない。でもこうして話を聞いていれば実道と順子の気持ちも分かってしまう。そのことで椛の内心も揺れているのかもしれない。
「私は順子と結婚すると思って育ってきた。そこに突然現れた元々仲の良くなかった敵対派閥の娘との政略結婚の話なんてそりゃ驚いたよ。でもそれも貴族家の当主の務めだ。順子とのことは諦めて紀子と結婚することに承諾した。まぁそもそもその当時は当事者の承諾なんて関係なく家が勝手に決めていたんだけどね」
でも椛は『非嫡出子』だ。後で認知したのか、養子として迎えたのか詳しいことは分からないけど、紀子さんが『九条紀子』のままであることからも分かる通り、少なくとも椛が生まれた当時は入籍していなかったことになる。
「ただ今でもそうだろうけど当時は九条家との接近に懐疑的というか……、一言で言えば反対派が多く居てね。いくら政略結婚といってもすぐに入籍出来る状況じゃなかった。だから事実婚をして、子供が生まれれば周囲の反対も押し切れるだろうと籍は入れずに一緒に生活し椛が生まれた」
「なるほど……」
いくらこれからは両派閥が手を取り合おう!その象徴としてトップの家同士の婚姻を結ぼう!と言われても納得しない者も大勢居るだろう。その反対派を黙らせるためにまずは二人の間の子供をもうけて、そこからなし崩しで結婚にもっていくつもりだったと……。
「でも……、椛が生まれてから紀子は男と一緒に海外へ駆け落ちをしたんだ」
「「えっ!?」」
実道の言葉に俺と椛は動揺してつい声を漏らしてしまったのだった。




