第千二百八十二話「菖蒲先生へのお詫び」
今日は土曜日で朝から百地流に行ってから蕾萌会へとやってきた。朝練はいつ何時であろうと必須だし、休みの日はいつもの朝練だけじゃなくて時間を延長したり、一度帰ってからもまた百地流の修行に行ったりしている。でも今日はそれだけじゃない。今日はここ最近時間短縮ばかりしている菖蒲先生との時間を確保しなければ!
茅さん達がやってきてお泊り会が開かれるようになってから、俺は習い事の時間を短縮して早く家に帰るようにしていた。百地流の時間を減らすわけにはいかないのでその割を食ったのはほとんど蕾萌会の講習だ。百地流も若干早く終わらせたりはしていたけど蕾萌会はその比ではない。
例えば本来なら二時間の講習予定だったのに三十分で終わらせて帰るとか、それも一日たまたまなわけじゃなくて先週の間ほとんどの日がそうだったとか、とにかく短縮された蕾萌会の時間は物凄いものだった。それはつまりその分だけ菖蒲先生とのあま~い時間が減ってしまったことを意味する。
菖蒲先生にとっては俺なんて大勢居る同性の受け持ちの生徒のうちの一人に過ぎないだろう。でも俺にとっては菖蒲先生はずっと一緒に居たい異性である大人のお姉さんだ。俺は肉体の性別が女性だからとそれを利用して菖蒲先生に近づいている。それは申し訳ないし心苦しいけど、それでもやっぱり大人の女性である菖蒲先生とはお近づきになりたい。
菖蒲先生からすれば俺との講習時間なんてただの仕事かもしれない。俺が感じてる範囲ではただの仕事よりは色々と思ってくれていると思う。他の生徒達よりも絆を結べていると思うし、菖蒲先生も俺と過ごす時間を楽しみにしてくれている……、と思いたい。
ただ俺が思っているような恋愛とか異性に対する憧れ的な意味は菖蒲先生の方にはないだろう。それは俺が前世成人男性だから持っている感情であって、こちらのことを年下の同性だと思っている菖蒲先生にはそういった感情はない。
俺の一方的な憧れとか、想いだということは分かっている。でもただちょっと憧れのお姉さんとの甘い一時を妄想しながら講習を受けるくらいいいじゃないか。学生の頃に学習塾などに通っていて、異性の講師に憧れを抱いた子もいるはずだ。俺の気持ちも分かってもらえると思う!
まぁ相手への想いというのは俺からの一方的な淡い憧れだとしても講習時間が短縮されまくったということへの償いは必要だ。お給料の面は講習一コマいくらのようなので俺が早く切り上げようが菖蒲先生の懐具合は変わらない。ただ予定していた時間より勝手に早く終わられたら菖蒲先生の予定も狂うだろう。
講習が早く終わって楽だと思う人もいるかもしれないけど、逆に次の講習までの時間が変に空いてしまって暇で困ると思う人だっているかもしれない。菖蒲先生がどちらのタイプとか、俺の講習が早く切り上げられたことで暇だったかどうかは分からないけど、少なくとも勝手にそんなことをされたら予定が狂うのは間違いない。
「御機嫌よう菖蒲先生」
「おはよう咲耶ちゃん。今日も早くテキストを解いて早めに帰る?」
蕾萌会のビルに到着するといきなりそんなことを言われてしまった。今週の件で菖蒲先生にどれだけ気を使わせてしまっていたかが分かるというものだ。
「今週はすみませんでした、菖蒲先生。また来週も早めに帰らなければならなくなりそうですし、今日は今までの分のお詫びをしたいと思っております。ただどのようなお詫びをすれば良いのか分からず……、一先ずこちらをお受け取りください」
「そんな気を使わなくて良かったのに……。でもありがとうね、咲耶ちゃん」
さぁ!とりあえず菖蒲先生にはお詫びの品を渡したし、今日こそは蕾萌会の講習を頑張るぞ!
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「マスター、私はコーヒー。咲耶ちゃんは?」
「それでは私は今日のお薦めの紅茶をお願いします」
「はい。コーヒーと紅茶ね。少し待っていてね。あと先生が持ってきてくれたケーキも切るから」
いや、違うねん……。最初はちゃんと講習をするつもりだったんだよ?でも講習内容は三十分で終わってしまったんだ。だから仕方なくというか菖蒲先生に誘われてマスターの喫茶店に来ることになってしまった。
「うわぁ……。凄いわねぇ……。咲耶ちゃんもうプロ並の腕前じゃない?」
「本当に……。私には絶対作れないわ……」
「あら?先生はインスタントとレトルトくらいしか作れないでしょ?咲耶ちゃんと比べちゃ駄目よ」
「マスター辛辣!?」
今日菖蒲先生にお詫びの品として持ってきたケーキがカットされていく。お詫びの品の中身は俺手作りのデコレーションケーキだ。一ホール丸々だったから休憩で喫茶店に来ると決まった時点で持ってきてお茶請けにしようということになった。
「私の手作りで申し訳ありませんが……。喫茶店に来てマスターもご一緒されるのでしたらどこか良いお店で買ってくれば良かったですね」
「そんなことないわよ。咲耶ちゃんの手作りケーキはもうプロ並よ」
「むしろ咲耶ちゃんの手作りだから価値があるとも言えるしね」
「マスター……、菖蒲先生……、ありがとうございます」
俺の拙い手作りでもこうして喜んでくれていると思うとうれしくなる。もちろん二人は大人だから大人の対応としてそう言ってくれているだけだろう。それは分かっているけど、それでもこう言われて悪い気がするはずもない。
「こんなおいしそうなケーキのご相伴に与れてラッキーだったわ」
「今日のお茶請けは最高よ」
「お二人とも、そのくらいで……」
二人とも言いすぎだ。いくら何でもそこまで言われたらお世辞が過ぎるというものだろう。
「ん~!おいしぃ~!見た目も可愛いし綺麗に出来ているけどそれだけじゃなくて味も最高!」
「ありがとうございます」
菖蒲先生に贈ったものなので最初に食べてもらう。菖蒲先生が食べたのを見てマスターと俺も手をつけた。
「本当!とっても濃厚ね!」
「材料が良かったからですよ」
九条家に置かれている材料を使って作ったんだ。そりゃ材料は最高級だろう。良い材料を使えば誰でもおいしく出来る。
「おばあちゃん!来たよ!あっ!咲耶お姉ちゃん!」
「まぁ!秋桐ちゃん」
俺達が喫茶店で寛いでいると秋桐がやってきた。俺の前までてててーっと走ってきたから殺人タックルが来るかと思って身構えた。でも秋桐は俺の手前で止まってテーブルの上を見ていた。あれ?タックルは?
「秋桐ちゃん……、飛び込んでこないのですか?」
「え~?秋桐そんなことしないよ~?」
いや、してますよね?最近は確かに昔よりも頻度は下がったけど今でもタックルされることがあるよ。昔のように毎回必ずではないけど……。
「それよりこのケーキ凄く可愛いね~!どうしたの~?」
「咲耶ちゃんの手作りで先生に贈った物なのよ」
「秋桐ちゃんも食べる?」
「食べるー!」
そりゃ女の子はケーキ大好きだよな。でもそれは俺の手作りだから秋桐がキラキラした目で見て期待しているほどおいしいものじゃないんだよ……。スポジンから焼いたから完全に俺の手作りだし……。
「良いの?先生。先生が咲耶ちゃんに頂いたものでしょう?」
「いいのいいの。すぐにこんなに食べ切れないし、皆で楽しく頂いた方が良いでしょ?」
「ありがとう菖蒲先生!」
あぁ~……、やっぱり菖蒲先生は先生なんだなぁ……。学校の教師じゃないとしても菖蒲先生は立派で素敵な教育者であることに変わりはない。それと女性の一人暮らしなのも考えずに一ホールも用意してしまってすみませんでした……。
「いっただっきま~す!……ん~!おいしい~!咲耶お姉ちゃんが作ったんだよね~?凄いね~!」
「ありがとうございます。秋桐ちゃんも気に入っていただけたのならよかったです」
こう言っては失礼だけど若い女の子なんて甘ければおいしいくらいの時期だろう。よっぽど変な物でもなければ甘いお菓子を食べたら大体何でもおいしいと言ってくれるはずだ。俺の手作りケーキが上手に出来ているとかおいしいなんて錯覚してはいけない。
俺は前世男性で料理もお菓子作りもしたことがないような生活を送っていた。もちろん自分の食べ物を用意していたけど今となってはあれは料理と呼んで良いものではなかったと思う。前世ではあれでも自分でちゃんとしているつもりだったけど……。
だからそんな俺の手作りお菓子がおいしいとか上手に出来ているなんてことがあるはずがない。枕詞に『子供が作ったにしては』とか『料理もまともにしたことがない箱入りお嬢様が作ったのしては』というニュアンスが含まれているはずだ。そのことを忘れて真に受けて調子に乗ってはいけない。もっと精進しなければ!
そう言えば……、菖蒲先生も一人暮らしであまり食事とかにも気を使っていないんだったな……。
実家とほぼ絶縁状態である菖蒲先生は自分のことは自分でしている。実家からの援助はない。仕事をしながら家事まで全部自分でしていると色々と手を抜きがちになる。実際俺だって前世でそうだった。食事なんてコスパが良くてお腹が膨れれば良いくらいの感じだった。
色々と一人でしなければならない菖蒲先生も食事にあまり気を使えていない。他にも色々とお金を使う必要があれば食費を削ってしまいがちだろう。何度かお邪魔した菖蒲先生の部屋は綺麗に掃除はされていたけど台所などはあまり使っている様子がなかった。
「菖蒲先生は日頃インスタントやレトルトが主になっているのでしょうか?」
「うぇっ!?いや……、えっと……、まぁ……、そうなんだけど……、ははっ……」
俺の質問の仕方が悪かったのか菖蒲先生は気まずそうというか、責められているかのように苦笑いを浮かべてしまった。これは俺が迂闊だったと言う他ない。
俺だって前世で部屋の掃除が出来ていないとか、洗濯物が散らかっているとか、料理や食事をちゃんとしていないと言われたら腹が立った。でも反論出来ないから苦笑いしたり適当に誤魔化したり流したりしていただろう。今俺が菖蒲先生にしてしまったのは同じことだ。
もちろん俺にはそんなつもりはなかった。でもそんなつもりがなかったからと言えばなんでも許されるわけじゃない。それで言えば前世の俺にそういうことを言ってきていた相手だって皆『そんなつもりはなかった』『別に責めているわけじゃない』と言うだろう。
大事なことはそのことを言ったり、したりすることによって相手がどう受け取るかであり、そういった誤解を与えたりや嫌な思いをさせないように気をつける必要がある。
どんなに気を使っていても、注意していても、相手が『不愉快だった』とか『責められたと感じた』と言うかもしれない。世間的に見てとか、一般的に考えてどうかが重要であって、完全に本人がどう感じたかだけで言えるものでもないけど、少なくとも一般常識的に考えて相手が不快にならないように言葉は選ぶべきだろう。
「すみません、菖蒲先生。別にそのことが悪いとか責めようというつもりで言ったわけではないのです」
「わかってるわ。咲耶ちゃんがそんなつもりでそんなことを言うはずないものね」
いや……、そこまで信頼されてもそれはそれで困るというか……。俺だってうっかり相手のことを気遣えずに余計なことを言ってしまうこともある。でも今回に関しては本当にそんな意図はなかった。今回はただちょっと聞きたいことがあっただけだ。
「え~……、何故そのような確認をしたかと言うとですね……。菖蒲先生がお一人で暮らされていて色々と家のことに手が回っておられないのでしたら……、その……、今回のお詫びも兼ねて私がお手伝いに行こうかと……」
「それって通い妻ってことですかぁ~~~~~っ!?」
「…………はい?」
俺はただ今回のお詫びにちょっと菖蒲先生の家に行って部屋を片付けたり、掃除したり、食事を振る舞えたらどうかと思っただけだった。でも何か菖蒲先生の様子がおかしい。いや……、俺の中身が男だと知っていればこの反応も当然か?
肉体が同性であることを利用して家に入り込もうとしてくる中身男性だと知っていたら誰だって拒絶反応を示すだろう。俺が部屋の掃除をするということは菖蒲先生の普段着とか、場合によっては下着とかも見てしまうかもしれない。中身男の俺にそんなものを見られるなんて女性からしたら耐えられないことだろう。
部屋の掃除や洗濯もそうだし、部屋の中をあれこれ触られるということは何かを仕掛けられるかもしれないという警戒心も働くだろう。俺が盗聴器や盗撮のための機器を設置するかもしれない。手料理を作ると言いながら薬でも仕込んで寝込みを襲うかもしれない。そう考えたら菖蒲先生の拒絶も理解出来る。
「あの……、やっぱり気持ち悪いですよね……。すみません。忘れてください……」
「駄目です!嫌です!是非来てください!明日……、いや、今からでも!むしろ今すぐに!今夜は帰しませんから!」
「はぁ……?」
何か菖蒲先生が凄い勢いで俺の肩をガックンガックン揺すってくる。どうやら俺がショックを受けたことに気付いてフォローしてくれているようだ。
「え~……、あまり無理はなさらないで……」
「無理じゃないから!さぁ行きましょう!今から行きましょう!」
「あの……、一応明日の蕾萌会の時間にお伺いしようかと考えていたので……」
「あっ!そうね!いっけない!私ったらつい……。それじゃ明日ね!明日は講習が終わったらそのままうちに連れ込むから!」
ムフーッ!とちょっと鼻息の荒い菖蒲先生の姿は珍しく少し新鮮に思えたのだった。




