第千二百七十一話「時が飛んでいる」
「ハッ!?」
え?あれ?俺は何をして?
「ここは……、私の部屋のベッド?」
今急に目を覚ましたような感覚に襲われた俺は周囲をキョロキョロと確認してみた。どうやら俺は自分の部屋のベッドの縁に座っていたらしい。一体いつ自室に戻ってベッドの縁に座ったのか覚えがない。いや……、そもそも全てが夢だったのでは?
「ふふっ。それはそうですよね。あのような都合の良いことなど起こるはずがありません」
突然茅さん達が訪ねてきて、菖蒲先生まで呼び出されてやってきて皆でうちに泊まるなんて、そんな俺にとって都合の良いことが起こるはずもない。その後皆でお風呂に入ろうとした辺りから記憶があやふやになっているけど夢なんてそんなものだろう。
そもそもアポもなしに九条家に泊まりに来るとかそんな都合の良い展開があるはずもない。そんなことが起こったらソレナンテ・エ・ロゲもびっくりだ。
「ですがそうするとどこからが夢だったのでしょうか……」
俺はチラリと時計を確認した。いつもだったらそろそろ夕食の時間だ。自分の体の感じや着替えていることからお風呂には入った後らしい。だた普通なら椛が部屋に待機していて食事の時間を教えてくれるはずなのに椛の姿がない。あるいはもう俺を呼びに来て意識がない間に返事をしてしまったという可能性もある。
「とりあえず食堂へ向かってみましょうか」
俺は独り言を言いながらベッドから立ち上がった。どちらにしろそろそろ夕食の時間だからまだだったとしても食堂へ向かって待っていても良い。それよりも先ほどから独り言が多い理由を自分自身で理解している。それは俺が寂しいんだ。
さっきまでの夢の中では茅さん達や菖蒲先生がうちに訪ねて来てお泊り会をするという賑やかな状況だった。それなのに目が覚めてみれば俺は自室で一人ポツンと座っていた。その落差から寂しくなってついつい独り言を言ってしまっている。
「あっ、咲耶お嬢様」
「柚?」
俺が廊下に出て食堂に向かっていると向こうから柚が歩いてきていた。何かの仕事で通りかかっただけかと思ってすれ違おうと思ったんだけど柚は俺の前を塞ぐようにして立ち止まった。
「遅くなり申し訳ありません、咲耶お嬢様。お食事のご用意が出来ております。皆様もお待ちですので食堂までご案内いたします」
「あぁ、呼びにきてくれたのですね。それではまいりましょうか」
どうやら柚は食事が出来たから俺を呼びに行く途中だったようだ。それなのに俺の方が部屋から出て食堂に向かっていたからこんな所でばったり出くわしてしまった。でもいつもならほとんどこういう仕事は椛がしている。それなのに今日は何故柚が呼びに行こうとしていたんだろう?
まぁ椛だって他の仕事がある時もあるし、毎回絶対椛がしているとは限らない。たまには柚や他のメイドが呼びに来ることもあるからおかしいというほどではないんだけど……。あと『皆様』なんて大袈裟な言い方だったのも引っかかる。そりゃうちの家族は柚にとっては主人とその家族だからそうなるのも仕方ないかもしれないけど何か不自然だ。
「……え?皆さん……」
「あぁ!咲耶ちゃん!さっきぶりなのだわ!」
「むぎゅぅ……」
食堂に入るといきなり茅さんに抱き締められてしまった。これは夢じゃない。間違いなく本物の茅さんだ。茅さんだけじゃなくて食堂にはもう杏も朝顔も菖蒲先生も居た。いつもの家族と睡蓮以外にもさっき夢だと思った面々が揃っている。さっきの出来事は夢じゃなかったんだ!皆本当に来てくれていたんだ!
…………あれ?でも待てよ?
そうなると俺の記憶がお風呂の辺りであやふやでいつの間にか自室のベッドに腰掛けていたのはどういうことだ?俺にはその間の記憶がない。何があったのか……。いつ自室へ戻ったのか……。
ちょっと気になったけど皆に聞けるような空気でもない。何があったのか覚えていないのにこちらから余計なことを言ったら藪蛇になりかねないし、そもそも何かあったのだとしたら家族の前でそのことを自分から持ち出すわけにもいかないだろう。
「茅、そんなにしてたら咲耶ちゃんが苦しいでしょ。それにいつまで経っても食事を始められないわよ」
「いつもしていることだから平気なのだわ!」
あぁ……。茅さんはそういう認識だったのね……。いつも俺が茅さんの胸で溺れているけど平気だからまたやっても大丈夫だろうっていう感じだったんだ。でも毎回条件が同じとは限らないから『前に大丈夫だったから次も大丈夫』という理由にはならないんだけどな……。
それはともかく菖蒲先生の言う通り、このまま茅さんに抱き締められていても食事を始められない。俺達だけならともかく家族もいるしいつまでも待たせておくわけにはいかないだろう。
「茅さん、とりあえず一度座って食事にしましょう」
「咲耶ちゃんがそういうのなら仕方ないのだわ」
何とか茅さんのおっぱいホールドから逃れた俺はやんわりと全員で席に着こうと促した。茅さんは特に気分を害した様子もなく俺を放すと自分の席に座ってくれた。俺もいつもの席に座る。
「皆さん今日はよく来てくれたね!それじゃ食事にしよう!」
「はい~」
「突然押しかけてしまって申し訳ありません」
「いやいや!賑やかな方が楽しくて良いよ!はっはっはっ!」
俺が来るまでも散々似たような話はしていたと思う。それでもさすが社会人である菖蒲先生はうちの家族に頭を下げていた。父も外用の見せ掛けの笑顔ではなく本心から笑顔を見せている。どうやら今日は機嫌が良いらしい。
父も九条グループの総帥として君臨しているだけあって腹芸も得意だ。父の言っていることを全て鵜呑みにすると痛い目に遭うこともある。皮肉や嫌味が込められていることだってあるだろう。でも今日の父は何だか上機嫌だ。普通だったらアポもなしにいきなりやってきて泊めろなんて言われたら腹を立てるだろうに、何故父があんなにご機嫌なのかは俺には分からない。
それに良く見たら父だけじゃなくて母や兄も機嫌良さそうに来ている面々の相手をしている。普通だったらその日にいきなり娘の友達が訪ねて来て泊めろなんて言ったら気分を害しそうなものだけどな。家族が三人とも上機嫌ということは何か良いことでもあったのかもしれない。
「食事はとってもおいしいですけど~……、なんだか少し寂しい食卓ですね~?」
「そうなんですぅ~!お野菜ばっかりですぅ~!もっと言ってやってくださぃ~!朝顔お姉ちゃ~ん!」
「そうそう。今日くらいはお肉やお魚の料理がメインでも良かったんじゃないかい?咲耶」
朝顔がうちの食事に気が付いたらしい。確かに九条家の食卓として恥ずかしくないように調理されたメニューが出てきている。味もとてもおいしい。ただし肉や魚が少なくとてもヘルシーなメニューばかりだ。
もちろん栄養バランスは考えられているし菜食主義というわけじゃないからまったく動物性の物がないわけでもない。ただ普通だったら上位貴族の家がお客様をおもてなしする料理を出すのならば当然あるであろうメインとも言える食材があまりない。
立食パーティーとは違うから食べ切れないほどの料理を並べるということはないけど、それにしても客人を迎えている上位貴族の家の食卓とは思えないメニューだろう。でもそれには理由がある。それはもちろん父と睡蓮のカロリーコントロールのためだ。
睡蓮を九条家で預かっているのはダイエットをさせるためであり、そのための管理と監視を徹底している。睡蓮の一日の摂取カロリーや栄養は九条家によって調整されており最適化されたものだ。そしてついでに父も太りすぎだからこっそりダイエットをさせている。
父は睡蓮と違って百地流で運動をしていない。だから睡蓮よりは緩やかではあるけど、それでもカロリーコントロールをしているので段々と痩せてきている。最近ではベルトの穴が一つ小さくなったとか、今まで穿いていたズボンが緩くなったと言っていた。確実に効果が出てきている。
「私はこれくらいで丁度良いのだわ」
「私も日頃は出来合いの物を買ってきたりインスタントやレトルトだからこういう食事も良いと思うわ」
茅さんは偏食だし小食だ。だから茅さんにはこのヘルシーメニューくらいで丁度良いらしい。露骨に嫌いな野菜とか除けてるけど……。
それから菖蒲先生の言葉は聞いていて少し悲しくなってくる。俺も前世がアレだったから人に言えないんだけど、いや、俺も前世がアレだったからこそその切実な気持ちが分かると言うべきか。
「それにしても正親町三条さんは大学を卒業してからどうしてるのかな?」
「あっ……」
「「「…………」」」
食事もある程度進んだ頃……、兄が爆弾を投げ込みやがった。それはぷー太ろ……、無しょ……、ニー……、求職者に一番言ってはいけない言葉だ。これで茅さんがますます就職しなくなったらどう責任を取るつもりなんだ?それとも兄が養ってあげるつもりか?
「どうもこうもないのだわ。何か税金対策をしないと来年の納税が大変なことになるのだわ」
「えっ!?」
「え?茅って収入があったの?」
あっ……、菖蒲先生がはっきり言っちゃった……。それは俺も思っていたことだけどそこまではっきり言っちゃ駄目だよ……。無職の人に無職であることや無収入であることはタブーだ。それで余計にやる気がなくなったとか落ち込んだとかで面倒なことになる。
「そんなのあるに決まってるのだわ。菖蒲は私のことを何だと思っているのだわ。いつもファミレスで私に集る癖に」
「いや~……、てっきり自由人なのかと思ってたわ。お金も親のすねかじりかと……。あははっ。ごめんね。働いてるなんて知らなかったわ」
「働いてなんてないのだわ」
「「え?」」
「……?」
今までの口ぶりから何か知らない間に働いて稼いでいたのかと思っていたのに、茅さん自身によってそれは否定されてしまった。一体どういうことだってばよ?
「勝手にお金が入ってくるのだわ。だから私は働いてなんていないのだわ」
「「あ~……」」
どうやら茅さんには何かしらの不労所得が入っているようだ。それが不動産などの賃貸なのか、株などの配当なのか、何なのかは分からない。特許を持っていて特許料が入るとかそういうものではないと思うけど……。
「へぇ。正親町三条さんは投資かデイトレードでもしてるのかな?」
兄よ!分かっててやってるのか?そうなんだろう?分かっててやってるんだよな?もうそれ以上茅さんの収入や仕事について突っ込むんじゃない!
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食事の後はまた睡蓮の部屋に集まっておしゃべりなどをしていた……、と思う。でもまた途中からの記憶がない。気が付いたら俺はまた自室のベッドに腰掛けていた。どういうことだ?何故こんなことが頻繁に起こる?一体俺に何が起こっているんだ?
確か食後は食休みをしつつ食堂で軽くお茶を楽しんでからお姉さん達勢揃いで睡蓮の部屋でおしゃべりをしようという話になったはずだ。そして実際に睡蓮の部屋に行って茅さん達や菖蒲先生、椛と楽しくおしゃべりをしていたのは間違いない。でもその途中から記憶があやふやで、今気が付いたら自室のベッドに腰掛けていた。
俺……、今までもたまにこういうことがあったよな?何かの病気なのか?それとも……、もしかして知らない間に咲耶お嬢様の魂と交代しているとか!?
そうだよ!そういう可能性もあるんじゃないのか?俺が咲耶お嬢様に生まれ変わったんじゃなくて憑依しているだけだとか、一つの体に二つの魂が入っているとか!昔にもそういうことを考えたことがあった。でもその時は咲耶お嬢様の魂なんて感じられなかったし入れ替わることもなかった。だから違うと思っていたけどこれだけ妙なことが起こったらその可能性を考えずにはいられない。
俺が意識をなくして記憶がない間は咲耶お嬢様が動いているのだとしたら説明がつく。俺が知らない間に体が勝手に動いているなんてホラーものだけどそれが咲耶お嬢様の意識によるものだとしたら……、むしろ日頃は俺が勝手に咲耶お嬢様の体を使っているということじゃないか!
「私はなんということを……」
もし……、咲耶お嬢様の魂がこの体に同居していて俺が勝手に動いていることを認知しているのだとしたら……、咲耶お嬢様の魂は一人で寂しく孤独を感じているのかもしれない。俺は何てことをしてしまっているんだ……。
そんなことを考えていると中々寝付けなかった。でも寝付きが悪いといってもいつかは眠ってしまうものだ。そして翌朝目が覚めてみればそこには……。
「これは一体何事ですか!?」
俺のベッドの周りには茅さん、杏、朝顔、菖蒲先生、それに椛と睡蓮までが倒れていた。一体夜の間に何があったんだ?しかも俺が一切気付かない間に……。今は真冬だというのにまるで真夏のホラーのようだ!




